家父長制/男尊女卑は《手弱男》にとって忌まわしき構造である

家父長制あるいは男尊女卑について、示唆ある Tweet と触れる機会がここのところ多くありました。本記事では、それらを紹介するとともに、私自身の考えを述べてみようと思います。 

フェミトー様の Tweet

まず、フェミトー https://twitter.com/feminist_tokyo 様の Tweet を引用させていただきます。私がずっと抱えていた感覚を絶妙に言語化してくださっていると感じる部分もあり、フェミニズムだけでなくマスキュリズムの立場からも価値ある内容だと思います。(両者は本来、両輪なのですから……)

完全な私見ですが。
家父長制が効いていた頃の世なら逆に、
「男が便所の数くらいでガタガタ言うな!女房子供が楽なようにしてやるのが男の甲斐性ってもんだろ!」
みたいな話で済んでいたものが、
「男らしくなくていい」 「我慢しなくていい」 「それが新時代の男性像」 みたいな価値観を求められた結果、男性は別に語りたくもない「平等」でも、主張していかないと居場所が奪われるのでは?という不安にかられるようになってしまったのではと。奢り奢られの話みたいなもので、自分からやろうと思った事は気分よく提供できても、「当然の義務だ」と言われるとやる気が失せるものですが。
一言でいうと、オスが動物の群れを護る家父長制コミュニティでは、男が女を守ることに理屈なんか無く「当たり前のこと」だったんですよ。それを解体したら、女性を守ることについて尤もらしい理屈が必要になってしまった、という話で。
嫌なら元に戻すか、全員の腑に落ちる理屈を捻り出すしかない。 
理屈の例で分かりやすいのは、
「男性が女性を守るのは当然」
が通じなくなったので、
「男性は『生物学的に女性より力が強いのだから』女性を守るのは当然」
と『』の理屈が必要になったのが、
「じゃあ非力な男性は女性を守らなくてよい?」
「体力自慢の女性なら守る必要がない?」
という風に理屈の穴埋めを一生懸命にしなければならなくなったわけです。
これが昔だったら、
「ヒョロガリだろうが何だろうが、男だったら命懸けてでも女を守れ!ガタガタ屁理屈をこねるな!」
となっていたわけで。 勿論、これが正しいとは言いませんが、この問答無用の固定観念で回っていたものを全て理屈やら理由なるもので書き換えなくてはならない。 平等、という言葉の難しさを、簡単に考えている人達が多いのではないだろうか? 片方に責任を押し付けておけばオールオッケー!くらいに思っていると、どこかで盛大なしっぺ返しを食らわないか?と思うのですが。 
一応言っておくと、私は家父長制を賛美するつもりは毛頭ないです。そもそも日本の家父長制だって、四男坊・五男坊やら使用人なんて男性でも土間みたいなところでご飯食べさせられてたわけで、「男に甘い」のではなく「家父長が強い」システムですから。ただし、必要悪でもないですけれど社会システムが不安定だった時代に、自由はなくともとりあえず家父長の言うことを聞いていれば衣食住だけは保証されていたのは確かで。 進化した社会に合わず淘汰されるのも常ですが、旧システムで一応は上手く回っていた部分が新システムに簡単に移行できる、とは安易に考えない方が良いかなと。

https://twitter.com/feminist_tokyo/status/1673359717467553792 で始まる Tweet ツリー

引用は以上となります。
家父長制は、「男に甘い」のではなく「家父長が強い」システムである。
この認識はとても大切だと思います。
家父長という "役割" を、望むと望まざると押し付けられる男性が居て、彼に強い権限と大きな責任が付与されるということだと私はとらえます。また、家父長という "役割" を果たせないような非力な男性や、その "役割" を拒むような男らしくない男性に対しては、家父長制の社会はきわめて苛烈なものなのです。この苛烈さには、男性だけでなく女性も加担しています。あくまでも社会全体としての問題です。

私にとっての "家父長制" あるいは "男尊女卑"

"家父長制" や "男尊女卑" というのを、私は、
〈慈悲的性差別を遂行する能力を持ち、かつ、実際に遂行する "男らしい" 男を立てる〉
ものだと考えます。
慈悲的性差別を遂行することが、決してそれを望まない男性に対しても強要されるのです。男性の "体力" や "経済力" などを搾取する構造ととらえることもできるでしょう。
そして、慈悲的性差別を遂行できない、あるいは、遂行を拒む男は唾棄されます。虚弱非力な男性 《手弱男》 にとっては忌むべき構造です。
この構造は、男性のみが勝手に構築するものではなく、慈悲的性差別を望む女性は明らかな加担者です。たとえば、「男性に奢られたい」とか「男性に重いものを持ってもらいたい」とかは、慈悲的性差別を望む言説です。 

私の言うところの 《益荒男》の中には、慈悲的性差別をしたい男性(結果として女性よりも優位でありたい男性)も少なからずいることでしょう。また、《手弱女》の中には慈悲的性差別をされたい女性も少なからずいるのでしょう。"か弱い女の子" を自称する女性に、私は何人も出会ってきました。
ただ、この構造に抗いたい男性も女性もまた少なからずいることは、決して忘れて欲しくありません。特に、たいていの《手弱男》と《益荒女》にとっては、心の底から忌むべき構造なのです。
慈悲的性差別をしたい男性とされたい女性だけで、勝手にやっていて欲しいですね。(その人たちがそれで幸せならば、外部からどうのこうのいう話ではありませんから。私たちを巻き込まない限りにおいて)

引用させていただたいたフェミトー様の Tweet の中で、
「男性は『生物学的に女性より力が強いのだから』女性を守るのは当然」
というフレーズが出てきました。
(考察の中で出てきたもので、必ずしもフェミトー様ご自身の考えではないことは申し添えておきます)
このようなことを言う人は、社会の中には 男女を問わず とても多いです。慈悲的性差別主義者(現状、リベラルの多くがここに該当する主張をしている印象がある)と保守派が、この主張で 一枚岩に なります。
ここで理不尽に踏みにじられるのが、大半の女性よりも虚弱非力な男性 《手弱男》 なのです。なぜ、自分自身よりも強い人たちのために、労力を注いだり犠牲になったりしないといけないのでしょう。納得できるわけがないのです。私たちは確かに男性の中の外れ値なのかもしれないけれど、この社会の中で懸命に日々を生きています。

そして、 
「ヒョロガリだろうが何だろうが、男だったら命懸けてでも女を守れ!ガタガタ屁理屈をこねるな!」 
というフレーズも、考察の中で登場しております。
これが “家父長制” や “男尊女卑” なのだとずっと思っています。既に述べたように、私のような《手弱男》にとってはまことに忌まわしい構造であり、この構造の構築に男性(の一部)も女性(の一部)も加担しています。

『男にとって(社会にとって)都合のよい女らしさや女性役割を強要されること』は、とても辛いことだろうと思います。いっぽう私は、『女にとって(社会にとって)都合のよい男らしさや男性役割を強要されること』がとても嫌で、10代の頃から抗い続けているのです。
社会全体として、当然に女性も含めて、後者にも正対して欲しいです。どちらにも正対しない限り、ジェンダー平等など実現しません。

"家父長制" は男子を抑圧する

"家父長制" や "男尊女卑" は、決して「男に甘い」わけではありません。むしろ、大きな責任を背負う強い男性にならなければならないということで、男子を強く抑圧します。(女子が抑圧されていないというわけではない)
今なお、その名残は色濃くあり、以下のツイートはその一例を示します。

勉強について「男の子/女の子だから」という制約や推奨を受けた経験は男性のほうが多い

勉強について「男の子だから/女の子だから」というように性別を理由に制約を受けたことや何かを推奨されたことがあるかという問いに対して、どの年代でも男性の方が経験ありと回答している。
男女共同参画社会基本法(1999年)以後の時代を生きてきた20代であっても、「よく言われた」と「ときどき言われた」の和は女性が 17.6% に対して男性が 32.8% であり、きわめて差が開いている。
(女性においては年代が下がるにつれて経験ありの割合が下がっているのに対して、男性においては30代・20代で増加していることにも着目したい)
本来やりたいことがあったとしても、「男の子だから」という理由で許されず我慢している男子がたくさん居るのです。
工学部(特に機械・電気系)には男子学生が圧倒的に多いです。これは、この分野に興味関心を持つのは男子の方が多いという自然な性差が表れている部分も多いとは思っていますが、しかし、「男の子だから」と不本意に選ばされている人も中には居るのかもしれません。

男子にとって、"体育" は特別な意味をもつものです。そして、虚弱非力な男性にはたいてい思い出したくもない忌まわしい体験を生じさせていることでしょう。なぜならば、たいていの場合、体育というのは 強く逞しい男に育たなければ許さない という抑圧の場だからです。この件について詳しくは、以前書いた 運動が苦手な男子・体育が嫌いな男子の感じる抑圧 をぜひお読みください。1993年度以前に高校へ入学した男子は、家庭科を履修することができず、代わりに体育を押し付けられていました。 男子から生活能力を身につける貴重な学習の機会を奪っていたという点でも許されざる差別的取扱であると考えますが、代わりに押し付けていたのが体育であるというのが、この指導要領・施行規則を作った者の魂胆を明確にしていますね。要するに、"体力強者としての男性" を社会的に搾取するためのものでしょう。
部活動の選択においても、高校では文化系部活動を選ぶ男子も比較的見受けられますが、中学で文化系部活動を選ぶ男子は著しく少ないことが多いでしょう。かつて酷い中学校では、男子生徒には文化系部活動を選ぶことを禁じ、必ず運動系部活動へ加入することを強要していました。男は運動部で逞しく鍛えられるべきだということなのでしょう。今ではこんな時代錯誤で性差別的な中学校はさすがに無いと信じたいですが、やはり男子は(特に中学においては)運動系部活動を選ぶ傾向が強いようです。

おわりに

そろそろ擱筆しようと思いますが、《手弱男》である私にとって "家父長制" や "男尊女卑" は害毒でしかありません。したがって、保守反動的なマスキュリズムには私は賛同できません。それと同時に、男女平等の名の下で実は "慈悲的性差別" を遂行しようとしている論に対しても抵抗していきます。
(性別役割分業も慈悲的性差別も、好んでしたい人がするのは勝手にしたらよい。望まない人にまで強いることを問題視しています) 

最後に、もうお一方、別の方の Tweet を掲載しておきます。こちらの考察も当たっていると思います。


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