保守派もリベラルも男性を使い捨てにし続ける ~マスキュリズムは荊の道である~

アメリカの社会学者で、マスキュリズムの大御所のような人物である Warren Farrell(ワレン・ファレル)の名著 “The Myth of Male Power” の邦訳版が、2014年に出版されました。
『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』(ワレン・ファレル(著),久米 泰介(翻訳),作品社)
掻い摘んでいってしまえば、この本では、男性は《 使い捨てられる性 》であり、《 ガラスの地下室 》に押し込められているのだということを主張しています。
女性の社会進出や昇進を阻む 《 ガラスの天井 》 があるといわれます。一方で男性は、生命を軽んじられて《 使い捨て 》にされています。例えば、収入と引き換えに危険な職種に就いたり、過労死・自殺・病気・事故により死亡率が高かったり、国家権力によって徴兵されたり、死刑に処されやすかったり、暴力被害を受けやすかったりします。このような状況を表現する言葉として、ワレン・ファレルは 《 ガラスの地下室 》 という語を造ったのです。
『男性権力の神話』という題には、男性が権力を握っているというのは実のところは “神話” に過ぎないのであり、男性も女性も、男女の “非対称” なあり方により差別されたり不利益を被ったりする(あるいは利益を受けたりもする)のだという意味が込められていると、僕は解釈しています。
今回は、その第8章(タイトル:もし私たちがクジラを救うのと同じくらい男性を救うことを気にかけたらどうなるだろうか?)から一節を取り上げてみようと思います。
政治のことを話す際に、《 保守派 》と《 リベラル 》というくくり(あるいは《 右 》と《 左 》というくくり)が出てくることがあります。辞書で調べてみると、下のように掲載されています。
・ 保守:旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとすること。また、その立場。「―派」⇔革新。
・ 革新:旧来の制度・組織・方法・習慣などを改めて新しくすること。特に、政治では、現状を改革しようとする立場。「技術―」⇔保守。
・ リベラル:政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま。
両者の主張は対立することが殆どなのではないかと思います。 では、《 男性の使い捨て 》・《 男性差別 》についてはどうなのでしょうか。あなたはどう思いますか?
以下、『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』の、240~241頁より引用します。 原著者であるワレン・ファレルはアメリカ人であり、1993年に出版された本であるという点を念頭に置いておいてください。

保守派とリベラルの双方が女性の保護と男性の使い捨てを強化してしまっている。
保守派はそれを性役割と呼んで正当化する。
リベラルはそれが女性に損害を与えるとき性差別と呼ぶが、それが男性に損害を与えるとき男性を非難する。例えば、男性だけが入れる組織は女性に損害を与えるためリベラルはそれを性差別と呼ぶが、男性だけが義務を負う徴兵登録は男性に損害を与えるため、リベラルは、彼らはただ男性だけが戦うことを要求されただけなのに、戦争を起こしたとして男性を責める。
両方のグループはそれが女性を助けるかまたは男性だけを傷つけるとき生まれついての生物学的違いを理由にする。同じように、ほとんど全ての保護法の立法はそれが女性を保護するための場合、リベラルによって支持されている。
(リベラルは女性への暴力を防ぐ法律〔男性への暴力を防ぐ法律はない〕の立法を「ヘイトクライム」に対するものとして支持した。女性がほとんどであるセクシュアルハラスメントの危険からの保護を支持したが、男性がほとんどである死の職業からの保護は支持しなかった。子どもを持つ母親が手当てを求めやすいようにすることを支持したが、父親のそれは支持しなかった。そしてほぼ全ての女性だけの法的保護を支援した)
それが女性を保護し男性を使い捨てるとき両方のグループが保守派になる―そう、どちらもステージI(*)の政党になる。その暗黙の了解としての正当化の理由は、女性は被害者であるという誰も疑問に感じない思いこみである。
(*)ステージI:第2章で提示されている概念。ステージIは生きることに焦点が当てられる段階を指す。一方、ステージⅡは自己実現に焦点が当てられる段階を指す。

『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』
pp.240~241

どうでしょうか? 僕は、ここに書かれていることは、ほぼそのまま現代の日本でもあてはまると思います。
保守派が旧来の性役割を守っていこうとすることは、自然な事ともいえますし、その点で一貫していると思います。そういうわけで、本の中でも保守派についての記述は少なくなっていて、リベラルについて多く述べられています。
 
[1] リベラルはそれが女性に損害を与えるとき性差別と呼ぶが、それが男性に損害を与えるとき男性を非難する。
 
結局のところ、彼らは女性の受ける損害にしか興味がないのでしょうね。《性差別》と名付けられるのが、つねに女性が損害を被る事例だけになってしまうのも当然です。そして、損害を被っている側である男性が何故か非難されてしまうというのも、落ち着いて考えてみれば、理不尽極まりない話ではないでしょうか。
 
[2] 両方のグループはそれが女性を助けるかまたは男性だけを傷つけるとき生まれついての生物学的違いを理由にする。
 
これは良くありますね。“か弱い” 女性を守らなくてはいけないということを、保守派は旧来の性役割に則って言います。そして、リベラルもまた、“か弱い” 女性を守らなくてはいけないと言います。
“か弱い” 女性を守るために、“逞しい” 男性は、自らが傷つくことを強いられます。(現在の日本には徴兵制はありませんが)男性だけが徴兵されるのは、生物学的な違いから。これも、保守派・リベラル派に共通して言うことではないでしょうか。男性は“体力がある”からといって、重い負荷を背負わされ、歯車の一つとして使い捨てにされていきます。
また、男性の方が体力があるというのは平均値の議論であり、実際には、女性の平均値を下回るような非力な男性も存在しています。 彼らをも一律に体力強者とみなしてしまい、強者役割を果たすよう強いることもまた、深刻な男性差別の1つです。
 
[3] 同じように、ほとんど全ての保護法の立法はそれが女性を保護するための場合、リベラルによって支持されている。
 
DVの法律が出来たとき、男性の被害者は救済の対象になっていませんでした。男性の被害者を救済の対象とすることに対して、相当の抵抗があったようです。(現在では、幸いにして、男性被害者も救済の対象となるようになっています)
女性を保護する、もっと言うと、女性だけを保護する制度というのが、色々とあります。同じ問題を抱えているのに、男性だからという理由で保護されないということがまかり通ってしまっているのは、明らかにおかしいです。
《 ガラスの天井 》によって、女性が昇進したり指導的地位に就いたりすることが難しいのが問題であるとして、是正のためにアファーマティブ・アクションの導入を行う例も見られます。それを言うならば、《 ガラスの地下室 》によって、危険な職種に占める男性の割合が著しく高いことに対しても、是正のためのアファーマティブ・アクションを行わなければならないでしょう。( 註:筆者はそもそもアファーマティブ・アクションについては反対の立場である )

そして、結局のところは、引用部分の末尾に集約されます。
『その暗黙の了解としての正当化の理由は、女性は被害者であるという誰も疑問に感じない思いこみである。』
保守系の人は、性役割に則って、“か弱い”女性の被害には意識を向けるでしょう。
リベラル系の人の中には、イデオロギーに則って、常に女性を被害者に男性を加害者に位置づけるという、教条主義・原理主義的な人がいます。
しかし、そのいずれでもない人々もまた、女性を被害者に男性を加害者に位置づけてしまう傾向があると思います。それは言ってしまえば素朴な感覚であって、無意識に近いものなのかもしれません。
《 男性の使い捨て 》・《 男性差別 》について、是正される方向へ向かうためには、まずはこのことを自覚的に認識することなのだと思います。逆に言えば、「女性は被害者である / 男性は加害者である という思いこみ」に疑問を感じる人が増えてこない限りは、この問題は以後もずっと膠着したままということです。現状では、女性は被害者 / 男性は加害者というのは、多くの人にとって「あたりまえ」のこととなっています。そして、何事でも、「あたりまえ」が疑われることは難しいでしょう。
そのことも十分に踏まえた上で、この社会の中でどのように生きていくのが一番幸せなのか。“目覚めて” しまった僕たちは、それを模索していく必要があるのかもしれません。
マスキュリズム(男性差別撤廃のための理論と運動)は、フェミニズムとは比べ物にならないほどの、苦難に満ちた荊の道です。しかし、この社会が本気でジェンダー平等を実現したいのであれば、必要不可欠なものであるのは間違いないでしょう。

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