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イラスト名建築ぶらり旅 with 宮沢洋&ヘリテージビジネスラボ③

祝・重要文化財指定!魯山人ゆかりの味をモダン料亭で

今回の行き先
八勝館(はっしょうかん)

「きっかけは、そちらにいらっしゃるニシザワさんですよ」。女将(おかみ)さんの言葉に、目の前にいるニシザワさんを二度見してしまった。思わず懐石料理を食べる手が止まる。えっ?この連載の案内役である西澤崇雄さん(日建設計 ヘリテージビジネスラボ)が、今回のキーマン?

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歴史的建物とともに暮らす豊かなライフスタイルを伝える「イラスト名建築ぶらり旅」。3回目の今回は、昨年(2020年)、戦後建築としては5番目の重要文化財に指定された料亭「八勝館(はっしょうかん)」を訪ねた。「特別な日に、正装で出かけたい場所です」と西澤さん。すみません、ポロシャツで来ちゃいました。

場所は名古屋から地下鉄で30分ほどの鶴舞線「八事(やごと)」駅のすぐそば。写真で見ると郊外の山中にあるように思うが、意外なほど都会の風景の中に、緑に包まれた一画がある。

冒頭の西澤さんの件。聞けば、八勝館が重要文化財に指定されるに当たり、その審査に必要な資料を中心になって作成したのが西澤さんと堀口捨己の孫弟子である早川設計事務所の岩橋幸治さんだという。西澤さんはヘリテージビジネスラボの業務活動の一環として、資料を作成したとのこと。「八勝館様のお手伝いをしたいと思ったので」と照れ笑い。この人、どれだけ建築が好きなのか……。

魯山人が認めた旬の味覚を味わう

八勝館は、敷地外からも見える「正門」などを含め、9つの施設が重要文化財(以下、重文)に指定された。複数件の指定なので「いつ完成」と言いづらいのだが、特に有名なのが1950年、昭和天皇の宿泊(行幸)のために建てられた「御幸(みゆき)の間」だ。建築家・堀口捨己(すてみ、1895年~1984年)の設計で、これ以降、堀口が八勝館の増改築に関わるようになった。

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ちなみに、八勝館よりも前に重文に指定されていた戦後建築は「広島平和記念資料館本館」(丹下健三、1952年)、「世界平和記念聖堂」(村野藤吾、1954年)、「日土(ひづち)小学校」(松村正恒、1958年)、「国立西洋美術館」(ル・コルビュジエ、1959年)の4つ。八勝館と同じタイミングで「神奈川県立近代美術館」(坂倉準三、1951年)が加わる。今年5月に「国立代々木競技場」(丹下健三、1964年)が内定し、戦後建築の重文は計7件となった。「登録有形文化財」は世の中にたくさんあるけれど、「重文」はそのくらい珍しいものなのである。

そんな貴重な建物を見られるだけでも役得なのだが、「料亭は料理を食べてこその料亭でしょう」と主張し、昼食を含めての取材に。この連載、引き受けて良かった。

昼食の場所は「桜の間」。ここは堀口捨己の設計で1958年に完成した建物で、八勝館では堀口最後の作品。西澤さんの言葉を借りれば「堀口捨己の集大成」だ。ただ、そんなフレーズは途中で忘れるほど、料理がおいしい。旬の食材が小ぶりな器で次々と目の前に現れる。これが伝説の食通・北大路魯山人(ろさんじん)も好んだという味か……。

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食通として名を残す魯山人は、本業は陶芸家・書家で、自作の器を八勝館にも納めていた。八勝館との交流は1930年代初めから魯山人が亡くなる1959年まで続き、頻繁に宿泊もしたという。

食事の後半、庭に突き出した縁台で料理人さん2人が鮎を炭で焼いてくれた。背景は一面の緑。気分は魯山人。映画を見ているようだ。

明治の材木商の別荘を旅館に

そのまま非現実の世界へと昇天してしまいそうになるが、任務である建物のリポートに戻ろう。まずは、文化庁の重文推薦文を読むのが分かりやすい。

「八勝館は、名古屋市街東方の丘陵地に所在する料亭である。明治時代中期に材木商柴田孫助別荘として建設され、明治時代後期からは料理旅館を営業した。その後も建物を整備、戦後は愛知国体への天皇行幸に備え、昭和25(1950)年に『御幸の間』が堀口捨己によって建設された」。

女将さんによれば、堀口捨己は料理旅館だった時代の八勝館のお客様で、天皇行幸が決まった後、急きょ設計者に抜擢されたのだという。

「堀口捨己」って誰?という方が多いかもしれない。堀口は戦前から戦後への日本の建築デザインの変化を考えるうえで、とても重要な建築家だ。

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堀口は戦前、東京大学在学中から建築界で名を知られていた。というのは、東大の同級生だった石本喜久治や山田守らと立ち上げた「分離派建築会」の中心メンバーだったからだ。分離派建築会は「建築は芸術である」という強いメッセージを掲げ、百貨店などで展覧会を開いた。その頃に堀口が提案した建築は、「表現主義」とも呼ばれる自由な造形の建築だ。

しかし、分離派建築会の活動は当時の建築界のお偉方の反感を買い、堀口は官庁や大手財閥へ就職する道を閉ざされてしまう。その後、戦争が深刻化していったこともあり、堀口は実作から離れ、茶室など日本の古典建築の研究に没頭する。その研究成果がようやく発揮されたのが、終戦から5年後に完成した「御幸の間」だった。

桂離宮とは似て非なるモダンテイスト

堀口渾身の建築、御幸の間に足を踏み入れてみよう。

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「あ、明るい!」。御幸の間は、京都の「桂離宮」をモデルにしたといわれるが、空間の印象は全く違う(ちょっと自慢になるが筆者は桂離宮も取材したことがある)。あちらは、暗がりの中で障子越しに庭の緑がちらちら見える感じだ。まさに「陰影礼賛」の世界。だが、こちらは片面が大判のガラス窓。畳の間も、照明が欄間にまで付いていて、和室には珍しいほどに明るい。

古代裂

写真1 御幸の間のディテール(古代裂)

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写真2 御幸の間から庭を望む、そして特徴的な鴨居位置の照明

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写真3 御幸の間から 緑が眩しい開放的な室内空間

個々の構成要素には「和」の作法を採り入れながらも、空間としては明らかに開放感重視のモダニズム建築。魯山人は八勝館の中でも「梅の間」という古い部屋を好んだそうだが、御幸の間のこのモダンテイスト、どう思っていたのかなあ……。

などと考えながら写真を撮りまくっていると、女将さんが「以前、ガラスを真空ガラスに取り換えた際、建て具を全部外したときにはすごい開放感でした」とナイスなエピソード。確かにすごい開放感だろうなという想像図に驚くとともに、ガラスが高断熱の真空ガラスに変わっていたという事実にも驚く。

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ちなみに照明は、当初の蛍光灯からLEDに変わっているそう。重文でありながら機能的には最先端なのだ。

「菊の間」の方が堀口捨己の本領発揮?

建築好きは、機会があれば「菊の間」も見てほしい。これは、既存の木造を堀口が改修したもの(1958年完成)。なんてグラフィカルな空間。御幸の間はやや優等生的な印象もあるので、筆者にはこちらの方が「建築は芸術である」と言っていた頃の堀口の本質に思える。

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写真4 菊の間

帰りがけに、重文の賞状を発見。これは初めて見た。登録有形文化財には金属製のプレートがあるのだが、重文は紙の賞状のみなのだという。

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写真5 重要文化財指定賞状

最後に女将さんから。「文化財になったことは大変うれしいですが、それによって訪れにくさを感じる方もいらっしゃるかもしれません。決してそんなことはありませんので、お気軽にいらしてください」。女将さんの言葉で、ポロシャツで来てしまったことへの後ろめたさが吹き飛ぶ。

8月には重文指定後初の見学会(弁当付き)が7回も開催されるので、実物を見てみたいと思った方は狙い目だ。(見学会の詳細はこちらhttps://www.hasshoukan.com/kengakukai/

■建築概要
所在地:名古屋市昭和区広路町石坂29
完成時期:既存の主な木造建物は明治期。「田舎家」は築400年(移築)。「御幸の間」と「残月の間」は1950年。「菊の間」(改修)と「桜の間」は1958年。
設計:1950年以降の主な新築・改修は堀口捨己

■利用案内
定休日:2021年8月は8月4日(水)、11日(水)、18日(水)、25日(水)。および12日(木)から17日(火)は夏季休業
料理:平日昼の特別料金2万2000円、平日夜・土日祝日の通常料金2万5000円、八勝館らしい懐石料理3万円~3万5000円(最も申し込みの多い価格帯)、より贅沢な素材を用いたコース4万円~5万円、お持ち帰り用の折詰・松華堂弁当:1万円
公式サイト:https://www.hasshoukan.com/

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取材・イラスト・文:宮沢洋(みやざわひろし)
画文家、編集者、BUNGA NET編集長
1967年東京生まれ。1990年早稲田大学政治経済学部卒業、日経BP社入社。建築専門誌「日経アーキテクチュア」編集部に配属。2016~19年、日経アーキテクチュア編集長。2020年4月から磯達雄とOffice Bungaを共同主宰。著書に「隈研吾建築図鑑」、「昭和モダン建築巡礼」※、「プレモダン建築巡礼」※「絶品・日本の歴史建築」※(※は磯達雄との共著)など


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西澤 崇雄
日建設計 新領域開拓部門ソリューショングループ ヘリテージビジネスラボ
アソシエイト ファシリティコンサルタント/博士(工学)
1992年、名古屋大学修士課程を経て、日建設計入社。専門は構造設計、耐震工学。
担当した構造設計建物に、愛知県庁本庁舎の免震レトロフィット、愛知県警本部の免震レトロフィットなどがあり、現在工事中の京都市本庁舎整備では、新築と免震レトロフィットが一体的に整備される複雑な建物の設計を担当している。歴史的価値の高い建物の免震レトロフィットに多く携わった経験を活かし、構造設計の実務を担当しながら、2016年よりヘリテージビジネスのチームを率いて活動を行っている。



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