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画家・ボナールの見た景色をテクノロジーで追体験「AIT」 の開発まで #1

はじめまして、日経イノベーション・ラボ 上席研究員の山田です。
AI、VR/MR、機械学習、IoTなど先端技術の調査研究や企画開発などを行っています。

現在国立新美術館で開催中のオルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展で展示されているArt Immersion Technology (AIT) の制作を担当しました。 

AITは様々な最先端の要素技術――8K 360度動画、独自開発したAIを用いたスタイル変換技術、最新プロジェクターを利用した5面プロジェクションなど――を組み合わせた新しい展示の技術です。AIT展示室ではボナールが絵を描いた、まさにその場所に立ち、画家が見た景色を追体験できます。

ボナールの風景画と実際にその絵を描いた場所を比較する事で、「その絵の周囲にはどのような風景が広がっていたのか」、「ボナールはどのような風景を見て、なぜその風景の中からこの画角を切り取ったのか」。「なぜこの景色をこの色で、この形で書いたのか」.....様々な想像を膨らませながら鑑賞することができるはずです。

もくじ
ピエールと言えばエルメ!の私がボナールに魅了されて
めちゃくちゃ脚が伸びてるのに、題名「白い猫」?
ボナールを求めて、だいたい2500里
意識の中にのみ存在する風景
自由な色彩を生み出した南仏のアトリエ
技術面の開発ウラ話は次回です

ピエールと言えばエルメ!の私がボナールに魅了されて

ピエール・ボナールは19世紀後半から20世紀にかけて生きたナビ派のフランス人画家です。日本でもファンが多い画家なので、とても詳しく知っている方も多い事でしょう。

しかしながら。
誰もが作品をイメージできるスーパースターのような画家と比較すると、ボナールの絵をあまりイメージできない方もいるのではないでしょうか。ピエールと言えばピエール=オーギュスト・ルノワールだ、いやいやピエール瀧だ、香山ピエールだという方もいるでしょう。今回はその中でも世界三大ピエールの一人、ピエール・ボナールのお話です。

この夏、私はAIT制作のためボナールの生涯を調べ、時代を超えて彼の足跡を辿り、彼のタッチを再現するAI開発のため彼の絵を調査しました。そしてピエールと言えばピエール・エルメだ、マカロン食べたいと思っていた私もいつしかボナールにすっかり魅了され、今ではボナールを知らない人にこそ、この画家の絵の面白さを紹介したい!と強く思うのです。

ボナールの絵は知れば知るほど奥深さが分かる嗜好品の世界のよう。
ある風景を見た時の自分の第一印象を、そのままカンヴァスに投影したようなボナールの作品は、じっくり時間をかけて鑑賞していると徐々に色を変え、形を変えその印象が変わっていきます

このように鑑賞中にどんどん印象が変わる不思議な感覚はピエール・ボナールの絵の魅力のひとつ。ちなみにピエール・エルメの魅力のひとつはクロワッサン。バターたっぷりのクロワッサンにフランボワーズがのってて、さらに中にはライチまで入ってる魅惑のクロワッサン....の事はさておき、ボナールと言えばまずはこの絵。

めちゃくちゃ脚が伸びてるのに、題名「白い猫」?

これは19世紀フランスで飼われていた足が非常に長い「伸び猫」と言われる珍しい種類の猫の絵...

ではありませんしそんな猫はいません。
この絵は猫飼いならば誰もが分かるでしょう。

猫がぐわっと伸びたあの瞬間!
猫が伸びきって、大あくびをして、さらにもうひと伸びしたあの瞬間!

あの瞬間への猫の変化を切り取ったかのように見えてこないでしょうか。じっくり見ているとこの猫がここからさらにあくびを一発かました後に、丸くなって毛なめしてふて寝するところまでが見えてくるようです。

そしてこの絵のタイトルは「長い猫」でも「伸びた猫」でも「変な猫」でもなく「白い猫」といいます。そう、ボナールにとって形なんてどうでもいいのです。

かつてポール・セリュジエはゴーギャンに「黄色く見えるなら一番美しい黄色で、赤く見えるなら一番美しい赤で塗れ」と言われ、それがナビ派がはじまるきっかけとなりました。自分の目がとらえた景色を描くのではなく、心でとらえた理想の形を理想の色で描く、それがボナールの絵なのです。

ボナールを求めて、だいたい2500里

パリの北に位置するヴェルノンにはかつてボナールが暮らした邸宅が今も当時のまま残されています。その部屋で、庭で、多くの作品をボナールは描いたのですがその中の一つがこの絵「テラスの犬」です。

実際にこの絵が描かれた場所に立ってみても、絵と同じ場所である事が最初は分かりませんでした。そしてウムムとうなってしばらく考え、ほてほてと周囲を歩きまわり、さてどうしたものかと全体を見回した後でようやく自分が今いる場所がまさに絵に描かれた同じ場所である事が分かりました。

ああなるほど!
ボナールはこの空間を絵でこう表現したのか!


絵と実際の風景の関係性を見つけた時、なるほど!とひざを打ちました。
実際は立って歩いてたのでひざは打てませんでしたが、心の中で二度ほど打ちました。

意識の中にのみ存在する風景

実際の場所がまったく分からなかった理由は、一目で分からないほど広い画角でとらえた構図をさらに圧縮して絵を描いているためです。実際に立った場所より広く、そして高い場所からの視点でボナールはこの絵を描いています。例えて言うなら、脚立に立ってパノラマで撮影した画像のアスペクト比を変えたような。

つまりこの絵の風景は実在しますが同じに見える構図は実在せず、あえて言うならボナールの意識の中にのみ存在するのです。

絵で見るとこじんまりしたテラスも奥まで15メートル以上はある広々としたテラスで、さらに奥に見える小屋はとても大きなボート小屋です。実際の風景と比較することで、この風景を自由にボナールは脳内で再構成をしていたことが分かります。是非この風景をAITの中で体験してみてください

さらに南仏のル・カネで描かれた風景画では実在しない建物が描きこまれていたり、色を大きく変えているものも多くあります。中にはフランスには生息しない鳥が書き込まれた絵もあります。色彩の魔術師と言われるボナールですが、色彩のみならず造形やモチーフ、あらゆるものを魔術師のように組み合わせてカンヴァスに描いていたんですね。

自由な色彩を生み出した南仏のアトリエ

こちらが今では文化財にも指定されており南仏でボナールが晩年暮らしたル・ボスケと呼ばれる自宅兼アトリエです。この家で多くの肖像画、風景画を残しています。

多くの裸婦画が生まれたあの有名な浴室も当時のまま残されており、リビングも当時の雰囲気のまま。このリビングで、妻マルトとどのような時間を過ごしたのでしょうか。

そして庭には多くの野良猫が今でも住み着いており、ドアを開け放しておくと我が物顔で自由に出入りし、そこらで昼寝をはじめます。残念ながら足はそこまで長くないので種類は伸び猫ではなく並み猫のようです。

このようにのほほんとした時間と陽光の中でボナールは絵を描いていたかと思うと、あの自由な色彩に至るプロセスが少し分かった気がしました。

そしてル・ボスケにおいて何より印象深かったのはボナールのアトリエです。ボナールは大きな壁にカンヴァスをかけて絵を描いていたので壁には多くの釘の穴、そして絵の具が飛び散ったあとが今でも残されていました。

絵を離れたところからでも確認できるよう、部屋の中には階段があり絵を俯瞰できるようになっています。管理人の方によると、時には数メートル離れた場所から長い筆を使って絵を描く事もあったようです。

そしてボナールが実際に使った絵の具や筆も残されていました。
しかしなんと!筆先はすべてネズミにかじられ失われてしまったとの事。
せめて猫でもいれば貴重なボナールの筆が失われる事も無かっただろうに....

と、思ってしまいましたが、
いましたね、猫。
目と鼻の先にいましたね。


さすが惰眠をむさぼる南仏の猫。ネズミを捕るなんてことは一切しなかったようです。見習いたい生き方です。

技術面の開発ウラ話は次回です

さて、このようにAIT素材収集のため一気にボナールの足跡を辿りました。まだまだフランスでのリサーチについては書き足りません。モネも乗ったアトリエ船からの見たセーヌ川の風景、美しいアンティーブ岬で見つけたボナールとモネとの意外な接点。そしてパリで食べたピエール・エルメのクロワッサン...の話はまたいつか別の機会に。

次回はこの取材内容をいかに技術に落とし込み、制作を行ったのかを書きたいと思います。

noteを読んでいただいた方はぜひ国立新美術館まで遊びに行ってください。
ボナールが過ごしたフランスの風景を感じる事ができるはずです。

最後になりますがAITの制作にはオルセー美術館、ボナール美術館、国立新美術館、株式会社カヤック、株式会社リコー、株式会社ノイジークローク、弊社文化事業局の協力を得て制作を行いました。多大なる協力を頂いたすべての関係者の皆様にここで改めて感謝をさせて頂きます。

山田剛(日経イノベーション・ラボ 上席研究員)