郷愁を誘う「日本の無機質な匂い」
「郷愁を誘う匂い」についてSNSに投稿した
数年前、私が個人的に郷愁を感じる「日本の無機質な匂い」についてSNSに書き込みをしたことがあった。
「確かに、海外の旅先で荷物を開く時に感じますね」
「ぜひ自分もその匂いをかいでみたい、どんな香りなんでしょう?」
「父が仕事で行ったソ連からのお土産はどれも知らない香りがしました」
「私は、南アジアや南欧などの空港に降り立ったときの、有機的な匂いにワクワクします」
友人達から、たくさんの示唆に富むコメントをいただいて、匂いに関する話の広がりに驚いた。科学的に嗅覚は記憶と繋がることが多いらしい。みんな、それぞれに嗅覚をめぐる思い出があるのだろう。
伝えづらい五感 記憶とつながっている五感
伝え手として考えるに、写真や動画、文章などを駆使しても、最も伝えづらい五感が嗅覚だと思っている。擬似体験が最も難しいのではないだろうか。だからか、旅の一番の刺激が匂いであることも多い。
ロシアの古い家屋では、子供時代に空き地で遊んでいた光景を思い出した。東欧の建材には防腐剤としてコールタールのような薬剤が使われているのではないだろうか?幼少期によく見た黒い木製電柱を彷彿されるのだ。フランス系スーパーで買った家庭用洗剤は、悪臭と香料が混じり合ったパリの地下鉄を思い出し、ほのかに部屋に漂うカレーの匂いは、 以前よく利用したパキスタンエアーの飛行機の機内を思い出す。
私の場合、ふんわりと漂うぐらいの匂いの方が記憶を刺激する。強烈な匂いの場合は、圧倒されてしまい記憶とつながらない。
清潔で無機質な匂い
では、私が個人的に猛烈に懐かしく感じる「日本の無機質な匂い」とは、どんな匂いなのか。これが形容するのがどうにも難しい、清潔で中庸な匂いなのだ。
一般的に日本の匂いというと、醤油味噌などの発酵調味料の匂いなのだが、割と日常的に日本食を食べているので懐かしさはなく、私がここで指摘しようとしている「日本の無機質な匂い」とは、全くの別物だ。寺院や祖父母の家で漂っていた線香や畳の匂いでもなければ、出汁や魚の匂いでもない。考えてみれば、日本は多彩な匂いに包まれているのだが、それらには特別な郷愁を感じない。
湿気が多くて匂いが鼻に届きやすい気候帯に住む日本人は、匂いに敏感であると語られる事も多い。それで香料などが発達しているかと言えば、「香害」と言う言葉があるくらいに香料を避ける傾向もあるようだ。ドラッグストアでも、「消臭力」「ムシューダ」などとネーミングされた脱臭抗菌系の商品も多い。化粧品コーナーでも「微香性」と書かれたものをよく見かける。こうした無臭を尊ぶ文化と、私が感じる「日本の匂い」は密接に関係している様な気がしてならない。有機物の「芳香と悪臭」の両方を打ち消す様な中庸な匂いなのだ。
時折、出張者や友人が手渡してくれる飛行機などで読み終えた週刊誌などには、しっかりとその匂いがついている。深呼吸して日本の匂いを吸い込み、のんびりとページをめくりつつ、楽しませてもらう。一方で、真新しい紙には、その日本の匂いはついていない。自分が撮影した写真が掲載されたファッション雑誌などが、出版社から直接ミラノの自宅に届くのだが、紙とインクの匂いがするだけで、その匂いはついていない。
日本からミラノへ旅行で来ている髪の長い日本人女性と会うと、その匂いをまとっていることも多い。「日本の無機質な匂いがしますね!」と、変態っぽいコメントをする事は一応控えていて、実はこの「日本の匂い」に関しては、SNSで初めてカミングアウトした案件だったのだ。シャンプーなどの香りでもなくて、その奥で微細に漂う清潔感のある匂い。あえて言えば、真新しい工業製品を買って、初めて開封するときに、似た匂いがすることもある。
一時帰国した時には匂ってこないのに、突然立ち上がってくる「日本の匂い」
では、日本に一時帰国した時は、その匂いを十分に楽しめるではないか?と思うかもしれないのだが、これが日本にいると匂ってこない。他の全ての匂いと同化しているからだろう。
果たして、この匂いは、どこからくるのだろう?エアコン、建材、壁紙の糊、勝手に様々な推測を試みているのだが、決め手がない。もしも食べ物由来ならば、防腐剤?もしくは消毒された「水道水の匂い」というのも有力候補だ。そもそも消臭剤や抗菌剤の匂いなのかも知れない。だとしたら、形容が難しいことにも合点がいく。
とにかく、その匂いに最も驚くのが、一時帰国の日本からミラノの自宅へ戻った時、その匂いが、突然に立ち上がってくるのだ。自分の髪や服、スーツケースなどが鼻腔を刺激する。特に髪についた匂いは、イタリアの水で洗っても1週間ぐらいは消えないので、十分に堪能させてもらっている。一時帰国中は、全く匂っていなかったのだから、不思議で仕方ない。
匂いというのは相対的なもので、周りとの差異で際立たないと、なかなか匂ってこないものらしい。自分の体臭と同じで、一体化して慣れすぎた匂いは感じられない。自分は長期で日本から出ているせいで、その微細な「日本の匂い」に敏感になっているのだろう。果たして、逆に自分はイタリアの匂いをまとっているのだろうか?
去来する複雑な感傷
そして、この郷愁を誘う匂いが「清潔」で「無機質」で「中庸」である事に思いを馳せる。自分が、守られた結界の中にいるような安心感のある心地いい匂いだ。その中にさえいれば、平和に暮らしていけるような錯覚さえ覚える。映画の「Lost in Translation」や「Babel」に出てくる大都会の東京の風景ともマッチする。そこにあるはずの、一人一人の感情や体臭や存在感が、すっと消えてなくなりそうで、はかない感じだ。
この母国の懐かしい匂いが、土着文化の過去の思い出からではなくて、想像上の宇宙船で漂ってそうな未来っぽい匂いである事に少し戸惑う。
「恥の文化が関係しているのかな?」
「災害などの時に日本ではトイレットペーパーが売れるのはなぜだろう?」
「もうちょっと、匂いや表情を自己主張しても良いのではないか」。
「しかし、その辺りが日本人のモラルや良心の出所なのかもしれない」。
などと、勝手に自分の中にもある日本人性と対峙し、複雑な感傷が去来するのだ。
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