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つい本気で語ってしまった「ありがとうみつけ」を学校でする理由

学校にはアクションプランっていうのがあって、「ここを目指してるよ」「そのためにこんなことをがんばるよ」っていう決め事があります。
毎年更新するんです。

1学期の振り返りをするとき、全校で数年前から取り組んでいる「ありがとうみつけ」の話題になったんです。

「ありがとうって言ってもらえない子もいませんか。それはさみしかったりするのではないでしょうか。それについてはどう思いますか」

もちろん非難しているわけではないのです。
いたって普通の考え方だと思います。


でも「ありがとうみつけ」を導入した張本人として、私はアツくなってしまいました。




私が「ありがとうみつけ」を導入したのは、それまでに行っていた " 良いところみつけ " では逆に自己肯定感が下がる子がいたからです。

「良い」を見つけるということは「悪い」が生まれてしまう。

それこそ見つけてもらえない子や、自分と思っていることと違うことをほめられて「そんなことかよ。ぜんぜん僕のこと見てないじゃん」ってなる子もたくさんいる。

これはちがうよな。って思ったんです。



私は幸せな子ども達を育てたい。

小学校時代だけではなく、中学校、高校、大学、社会人から老人になって死ぬまで、これからの人生を幸せに生きてほしい。

死ぬまで役立つスキルをつけてあげたい。

どんなことが起きても、全てに感謝できるようになったら、その子の世界には良いことしか起こらないですよ。

だってどんな出来事にも感謝できることを見つけるんです。

大嫌いな友達も、大嫌いな上司も、うまくいかない毎日にも、青ざめるような失敗も、全部感謝の対象になります。

これはとてもすごいことなんです。


実際大人もできてはいない。

幸せは人それぞれ。
幸せは見つけたもん勝ちなんです。
だれかにありがとうと言ってもらうことではない。

だからこそ、ありがとうと言われるのではなく、ありがとうを見つけられることの方がずっと重要なんです。彼らが自分の力で幸せをつかむためには。

「ありがとう」と言われなくてさみしいのであれば、それはもっとほかのところにある心の問題です。
ちがうアプロ―チで、その子の心をまず満たさないといけない。

ありがとうって言われなくても、条件なんてなくてもあなたは素晴らしいんだよって伝えていかなければいけません。

「他人に評価されないと、感謝されないと自分を認めることができない。なんでありがとうって言ってくれないの?」ではなくて、誰にも見られなくても「自分はこう生きたい。こんな自分が好きだ。感謝されるかされないかはどうでもいい。私が自分に感謝するから」って思ってほしい。

それが何にも左右されない、幸せな人生をおくるために必要な力だと考えています。

だから、「ありがとう」を見つけることで、脳の癖をつくり、ありがとうがたくさん見つかるように、感謝する対象が増えていくように習慣化することが大事なんです。

すると、自然に良い面が見つけられるようになって、粘り強く、強く、明るく人生を楽しめるようになるからです。

これはスキルです。鍛えれば鍛えるほどにその力は伸びていきます。



そんな話をしました。

もちろん、話は続きます。

校長先生や教頭先生も意見されました。


校長:ニキチャコ先生のいっているのは、ものすごく高いレベルだよね。そしてかなり宗教じみているよね。

おっしゃる通りです。
去年は子ども達にも、親にも、" ニキチャコ教 " と呼ばれました。
ランチタイムのラジオの架空のスポンサーに「ニキチャコ教会」とおふざけで出されるほどです。

校長:そうなんだ。笑 でも、そんな人はいるよね。どんなことにも感謝している人。そういう人はステキだなと思う。
みんなから愛されるし、良い人だってわかる。そんな人たちばかりになったら、それはすごい社会になる。

そうですね。そうなってほしいです。〇〇さんのおばあちゃんも、下校指導でお会いしたらいつも笑顔で「ありがとう」って言ってくれます。良い人だって感じます。

教頭:ありがとうみつけは、誰かのためではなく、自分のためにやっているということですね。そういう考え方でやっているって、お家の人には伝わっているのかな。協力はしてくれているのだろうか。

それは、完全には伝わっていないと思います。
本当であれば、両親がいつも「ありがとう」を言い合っている状態であれば理想です。ですが…… 
懇談でもそこまで家庭事情に踏み込んだことは言えてないですね……

教頭:ではこういう考え方でやってるよって、お家の人にもっと知らせなきゃいけないと思う。ありがとうみつけは友達の良いところを見つけるためではなく、自分のためにやるんだね。そこのところが共通理解できてよかった。


こんな話になりました。


自分が子どもたちの未来について、本気で話すようになるとは。
人生分からないものです。

燻っていた教員時代も、無駄ではありませんでした。
そんな経験も有難い。

この世にはやはり、有難いことしかないようです。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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