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なぜ声をあげるのか

このところ、SNSを始めとしたメディアで「人種差別問題」が大きく取り上げられている。

映像や画像の投稿、飛び交うコメントを見つめながら、色々な感情が湧き起こると同時に、思考は複雑に絡み合った。

頭のモヤモヤを一度整理する為、ノートに自分の考えをまとめてみた。そしたら「みんなが声をあげているから」ではなく「自分が声をあげなければならない」理由が明確になったので、ここに示そうと思う。

※これから書くことは、様々なメディアを通して得た情報を元に私自身が導き出した考えです。問題に関する記事などをまだ読んでいない方がいたら、まずは問題について知ることを推奨します。私自身も全てを理解した訳ではなくまだ学んでいる過程にありますが、この問題について一人一人が「どう考えるか」が大事だと思うからです。

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私はこれまで「人種差別」に関して言及することを、できるだけ避けてきた。

学生時代、多様性を描いたエンタメ作品を論文のテーマとして扱った際も、障害者や性的マイノリティについては章に纏めても、人種問題についてはあえて「深く追求しない」という選択をした。また、映画界や音楽界で人種差別問題が話題に上がった時も、それについて自分の意見を述べることは控えるようにしてきた。

それについては、主に3つの理由がある。

①黒人差別はあまりに根深い問題であり、安易な発言は許されないと思ったから。

②私は「人種差別」について専門的に勉強しているわけではなく、語れるほど充分な知識を持ち合わせていないから。

③何より、私は黒人ではないから。
日本社会に日本人として生まれ、少なくともこの国では人種を理由とした差別や生きづらさを感じたことも無い。そんな人間が、実際に差別を受けている黒人の生きづらさに容易く共感できるわけがないから。

ただ、様々な記事を読んだり、当事者の声を聞いたり、問題を描いた作品を見る中で、こうした理由によって燻っている自分が堪らなく嫌になったのだ。

なぜなら、先程述べた理由は単なる言い訳であって、問題意識はあっても「では、それを踏まえた上で私はどうすべきなのか?」という「その先」まで考えることをやめていたからだ。

だから私は、先程述べた言い訳の「その先」を考えることにした。

①たとえ「差別に反対」という想いがあったとしても、サイレント・マジョリティという言葉があるように、沈黙は「賛成していること」になってしまう。取りこぼしのない発言も大事だけど、まずは目の前にある問題に対して、自分が賛成なのか?反対なのか?その声をあげることが重要なのではないか。

②完璧な知識を持っていなくたっていい。それを勉強している間にも、不当な扱いを受けたり、命を落としている人がいるのだ。納得がいくまで理解が深まるのを待っていては遅すぎる。まずは、自分が今持っている知識の範囲で判断すればいい。間違っていれば、誤ちを真摯に受け止め、その度に学び直せばいい。
「○○ in progress」という言葉があるように、その問題について知識を蓄える過程であっても、自分の意思を表明することはできるのだから。

③私がいくら黒人の生きづらさをわかろうとしても、日本人である限り共感することなどできるはずがないのだ。むしろ、当事者でもないのに100%理解できると思うこと自体が傲慢だと思う。
それは、私のように日本社会に生きる日本人だけでなく、アメリカで黒人と密接な関係にある白人も同様だ。たとえ同じ国に生まれ、黒人の多いコミュニティで育ち、ブラックミュージックを聴いたり、黒人コミュニティから生まれたファッションを身に纏っていたとしても、彼らが白人であることは変わらない。
その間には、見えない壁が存在するのだ。

「私たちは同じではない」ということ

よく「私たちは皆同じ人間だから」という声を聞くこともあるが、同じ人間なんているはずがない。黒人であること、白人であること、日本人であること。違う人種であることは、変えようのない事実だ。

ただ、違う人間にも「人権」というものが存在する。

大切なのは、「同じ」だからとか、共通点を見つけることではなく、その「違い」を認め、互いを尊重することなのではないだろうか。

だから私は、「違い」によって差別される人たちがいる限り、声をあげなければならないと思うのだ。

Black Lives Matter



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