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一年も半分過ぎて


季節の移ろい、一日は望んでも留まるものではなく自分の力ではどうにもならないものです。ならば生かされている今、身近な自然に目を向けて丁寧に過ごしたいと思うこの頃です。同じ日は一日としてないということを感じることが多々あります。

季節は同じように巡ってきますが、春は桜の花、その蕾が膨らみ始める前に全ての草木が芽を吹き空気はやわらぎ鳥は新し命を育みます。

それは年ごとに自分のその時の気持ちで儚く見えたり春を満喫する希望の風景に見えたりと様々です。今年も会えたツバメのひな鳥は昨日巣立ったのか空っぽの巣跡はちょっぴり寂しそうでした。

今は庭のアジサイも六甲ブルーの花をつけ,街の至る所でピンクや白、形も鞠のようなものや、額縁みたいなと楽しむことが出来ます。

夏には六甲山の森林浴を楽しみハーブ園から見える神戸の街をながめると、遠い昔100万ドルの夜景と言われたこの地も震災でずいぶん様変わりしたのが分かります。

海の向こうの山並みはあやふやな輪郭で蜃気楼のような稜線を描いています。ことごとく町の姿を変えてしまったことなどもう遠い昔のように静かに青い空の下、細長い平野は広がっています。

ココは山が近くに迫り眼下にはどこまでも続く海。時折汽笛の鈍い音を聞きながら紅葉のハイキングコースは布引の滝へと続きます。数年前はイノシシの群れによく出くわしましたが、今はほとんど見かけることが無いのは少々物足りない気がします。

冬は六甲おろしと言われる寒風が山から降りてきて坂道の紅く染まった葉っぱを容赦なく掃いて行きますが、道の両脇の溝に勢いよく流れる山水に乗って滑るように海に向かいます。めったに雪が降ることはなくなりましたが、山の頂は白い帽子をたまにかぶります。

ここで暮らす人の多くは山の様子を見てその日の天気を知ります。

今朝は豪雨。いよいよ梅雨入り前の洗礼?庭のアジサイは重い花を支えきれずぐったりしています。水の好きな花ですが、過ぎたるは猶及ばざるが如しのようです。

そんな庭をぼんやり眺めているといろんな思いが巡ってきました。
四季の移り変わりと同じように子供の成長、もう会えない人の事。友達との関係、愛犬の成長。
これも自然の流れと同じで、一挙に変化があるわけではありませんが、それは徐々に一つの場所に向かっているということを感じます。

神戸に生まれて一時離れていたとはいえやはり帰巣本能なのかこの地を終の棲家と決めました。心躍ることの一つと言えば、素敵な人と出会うこと、いくつかの出会いが次の人へと繋がってそれはあたかも偶然を装っていますが、天の計らいなのか出会うべくして…。ということでしょう。

周りの知り合いは親の老化を急に認識して、「とうとううちの親にも!」とがっかりしたり、みんなが通る道と奮起したりしますが、小さな不安の塊が少し大きくなったことを認識します。

私は心配される側にいつの間にかなっていて、今までできていたことができない。少しはしっかりしていると思っていたらやっぱり年相応。親の介護を経験して自分もいつかはと思っていたのに実際いろんな小さなことが起きるとその時の子供としての思いとは違っているのです。

老いた親にも言い分があってそんなつもりでなくてもひとまとめ。それがいつかおたがい積み重なれば深刻な問題になりかねません。折れるのが必要なのは先行く親の方かもしれません。

年齢を重ねることはそれぞれの生き方暮らし方。それへの理解が必要なようです。いよいよ本当に自立する時。それは自由を得ると置き換えられるか孤独を感じるかで大きく変わってきます。

いくつもいくつも変化を知る場面が繰り広げられていくうちに出会ってはまた離れての連続です。それは豊かな人生を送ることが出来るということかもしれません。経験値の大きさが器を大きくするということでしょうか?

影響を受けたことは忘れてしまっていてもきっと自分の中に息づいていて私自身を作っているように思います。

出会いはその時必要な人だから、何かの意思なり願いが引き付けてくるようにも思います。また成長するのに必要な人やモノなのかもしれません。

この世に永遠がないのは人との関わりも同じ。恋人、親子、夫婦であっても別れの時が必ずやってきます。

別れはつらいですが森羅万象 宇宙の決めごと。それも成長するためには必要なのかもしれません。後は感謝の気持ちが残るのみ。

ならば辛さをいつまでも引きずるのではなく受け入れて自分をもっと大きなものにしたいものです。もっと知りたい、もっとたくさんの人に出会いたい。いくつになっても尽きることのない心はこれからも持ち続けたいと思います。

 まさしくいつ何時も私たちは季節の中で生きて、自然とともに巡っているのかもしれません。

熟成の時期になったなら、弧独を強く感じる人はいつも誰かと一緒にいることが充実した時間と思いがちですが、生まれる時も逝く時も一人であるということを知るべきかもしれません。

人に合わせるということは協調性があるようですが、社会的な同調を優先しているだけで「承認欲求」に走り過ぎてしまう場合があります。

本当は自分の道を歩いていきたい、人に影響されることなく自分軸を持っていたいと願っているならはっきり自分の意見を言える人!となりますがそこには何かを得る分何かが無くなることかもしれません。

人によっての倖せはそれぞれ違いますが、世間体を気にすることなく自分の思うように生きられること、自分を肯定できる人が幸せになれるように思います。

私たちは幸せになりたいとみんな願いますがその自分軸が歪んでいると幸せはどんどん遠くになっていくように思います。

自分があって相手がある。この関係の方が上手くいくような気がしますがいかがでしょうか?

孤独は死亡率を3割も上げると聞きました。
明日の事、もっと言えば1時間後、いやいや数分後の人生さえもわからない。これからのことを考えすぎるから不安で寂しくなっていくのかもしれません。

弧独は自分の気持ちの持ちようで消すことが出来ます。
幾つになっても何かを楽しもうとする気持ち、何これ?と言う好奇心。
そして人と会うこと。

年齢はただの数字。私はもうこんなに年を取っているんだとたまに認識してびっくりすることがありますが普段はすっかり忘れるくらい人と接しています。それが一番の妙薬かも。

ひとりで生まれてまたひとりで土に還る。それを分かっているだけでも今を大切にしようという気持ちが湧いてきます。同じ一度の人生楽しまないとソンソン!と言うところでしょうか。

親子の関係はどこでもいつでも変わりませんが子の思いと親の思いの温度差は家庭が安定して子育てや仕事の責任度が増すと、正直…。
そこは立派に巣立ったことを喜べる親になりたいものです。

孤独な老人は一日にして成らず!毎日新しいことに目を向けるだけでも気持ちが晴れます。

季節を肌で感じて生きる喜びも同時に味わえたら幸せな人生だと言えそうです。

雨音を聞いて散歩を諦めたニケは食事を済ませてそそくさと二階に。今日は一日中寝ることに決めたようです。

今日もいい日にしましょう!

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