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12/27 『天上の葦』読了

 『天上の葦 下』ネタバレしないと大事なことがメモに残せない、ということでネタバレ満載読了メモです。
 記録は読んで自分が思い巡らせたことがメインです。
 あらすじはこちらがわかりやすかったです。(後半はネタバレ感想となっています)



 日々ちまちま読み進め、本書のテーマとは別にいろいろ思うところについて日記に書いてきました。

 現在後期高齢者となっている、太平洋戦争末期に若者だった人々の回想とその後の生き方が描かれているのですが、それぞれの思いが胸に迫りました。

 印象的だったのは満州事変の年に生まれ、終戦時まだ14歳であった勝利さんの抱えた痛みとそれを受け止める年長者の気持ち。
 物心ついてこの方、言論が不自由な世界しか知らなかった勝利さんは、学校や社会で学ばされる「正しい日本人像」の刷り込みが最も大きく働いていただろう。

 「子らにあんなもん持たせるようになったら、もうおしまいじゃ。勝てるわけがない。どうせ負けるなら、あの子らが戦争に行く前に負けてほしい」 
 竹槍訓練をしている子供たちを前にそう呟いたスミちゃんの父の言葉を聞いて、勝利さんは「非国民だ」と断じ、こっそり憲兵に告げ口した。これまで彼にうんと可愛がってもらってきたというのにだ。
 戦争に異を唱えたり、苦しい心情を素直に表現することは「日本人として正しくない」。だから憲兵に告げ口するのは当然だ。勝利さんはただ軍国主義教育の中で良い子であろうとした。「間違っていることは許せない、正しいことをしたかった」それだけだったんだ。 

 告げ口のせいでスミちゃんの父は懲罰召集を受け戦死した。スミちゃんが泣き喚いてるのを見て、勝利さんは「立派な戦死と喜ぶべきなのに。スミちゃんを咎めない家族はやっぱり非国民だ。自分のしたことは正しかったんだ」と思おうとする。

 だけど、彼の中の無意識は知っている。自分のしてしまったことを。これが正しいはずがない。本当に正しいのは弱きものを助け、暴力を許さない友人豊治のような人間だと。自分は弱い。だからこそ正しさを傘に着ようとしたのだと気づいていた。
 勝利さんは、父の戦死を悲しむスミちゃんの家族のことを非国民だと憲兵に告げ口することがどうしてもできなかった。体が動かなかったのだ。

 敗戦の後、勝利さんは自分が死ななくてもいいことに心底ホッとしていることに気づく。それこそ非国民の感情ではないか。でもこれは誰しもが持つだろう当たり前の感情だった。

 あの時、スミちゃんの父は今戦地に行けば死ぬとわかっていた。だから「子供らを戦争にやりたくない」と吐露した。
 そんなふうに自分達の幸せを思ってくれた人を自分が死地へと追いやった。
 勝利さんが罪悪感を抱いたのは自分の当たり前の感情を認められた時だった。
 一旦認めてしまうと、どんなに意識の上で正しいことをしたのだと思おうとしても、もう同じようには感じられない。

 スミちゃんの暮らす狭い島で勝利さんは一生を送った。
 スミちゃんは戦時何をしていたか話そうとしない喜重さんを憲兵だったと決めつけ、憎んでいた。
 父を殺した憲兵への憎しみをみんな喜重さんに押し付けて。
 そのスミちゃんの姿を見て勝利さんは何を思っただろう。

 告げ口したのは自分だと誰にも打ち明けられないまま、勝利さんは七十年もの間、罪悪感を背負い続けた。

 私はそれがたまらなかった。自罰感情に囚われても、打ち明けることも謝ることもできない、臆病で弱い勝利さんが痛ましかった。
 彼の人間性を批判することは、私にはできない。

 『はだしのゲン』でも子供たちがゲンの家族を非国民と罵り石を投げている姿が描かれる。彼らが自分を間違ってないと思うように、勝利さんも「正しくありたい」「認められていたい」と望む、ただの幼い子供だった。
 石を投げた彼らのほとんどがそうだったように、無意識の声を聞かず、自ら行った加害に気づかぬふりをして生きていく道もあった。
でも、それは一所懸命自分を正当化せずにはいられない一生になると思う。私は間違ってないと証明するために、正しさにしがみつく一生に。

 戦争の後、こうして正しさを証明せずにはいられない人でいっぱいになったのではないかと思う。
 勝者の側も確実に傷ついているはずなのだ。
 たくさん殺したことも、言論を封じたことも、子供を戦地に送ったことも、自分の考えや思いを無視して命令に従ったことも、無意識は知っている。身体は覚えている。
 加害の傷を知らず抱えている。頑なに目を逸らしているだけで。目を逸らして正当化することで安心しようとする。あるいは問題があったのは相手なのだからと責任を押し付けて、暴力を正当化する。わたしは正しいと無意識に対して証明するために、不感症になる。
 傷に向き合うその時まで。

 十四歳の勝利さんには、すぐに傷に向き合う時が訪れた。敗戦によって世界が変わった時、自分のしてきたことは正しくなかったのだと自分に認めた。認め自分を許さないで生きてきた。でも、
 敗戦を迎えた後、思うままを表現することが許されるということがどういうことなのか、初めて知ることになった幼い勝利さんに罪があるだろうか。 
 そうして初めて自分が誰かの感情を塞ぎ追い詰める行為に手を貸していたことに気づいた勝利さんに罰が必要だろうか。

 行動する勇気を持てなかった勝利さんは、スミちゃんや豊治に自分の加害について打ち明けられなかった。その間ずっとあの加害の記憶に縛り付けられてきた。
 そして物語の舞台である八十四歳の時、勝利さんは初めて豊治らの前で自らの罪を口にする。戦争時代の記憶に蓋をするように口をつぐんだ年長者たちが、実は各々似たような加害の傷を持っている。そしてそれを今償おうとしているのだと知ったからだろう。自分と同じだと。
 後悔、罪悪感。本当の感情が溢れ出る。受け止められて初めて、自分の感情や、してしまったことに責任を取る勇気が湧くのだ。

 勝利さんに必要なのは受け止められることだ。許せない自分も、認め難いがために正当化してきた自分も、償う勇気のなかった自分も、そのまま認め受け止められること。良い悪い、正しい正しくないと価値判断する(責める・責められる)ことなく、そんな私だったことを理解して受け止める。そういうことを安心して自分自身に対して行えるような場を得ること。

 勝利さんのように向き合う準備ができていた人だけでなく、頑なに目を背けて自分を正当化したり、相手のせいにしてバランスを取ろうとしている人に対しても同じだ。その人なりの文脈に耳を傾け、自分とは違う人の心がわからない悪魔や人非人のような扱いをして尊厳を傷つけないこと。「今は」しがみついたままでいても「いつか」認め受け止める時が来るとただ信じること。まだその安心感が持てていないだけなのだと理解すること。

 そうして加害者の側にアプローチすることが、謂れなく傷つけられたり、自分を守るために誰かを傷つけなくてはならない子供を生まないことにつながると私は思っている。

 自罰感情に囚われ行動することができない臆病で弱い勝利さんの人間性をどうこういうことができないのと同じように、頑なに自分を守り歪んだ文脈で世の中を見ている人を非難することはできない。
 それは、どれもいつかの私のように思うからだ。

 昔、ある事件に対して犯人の人間性を非難するコメントを聞いた友人が「どうして自分とはまったく違う存在であるかのように線を引くことがことができるのか? 一歩間違えたら私がその人だったかもしれない、そういう種は誰しもの中にあると思うのに」というようなことを言った。私はそれにとても共感した。

 私は間違う。ずるかったり弱かったりしてしまう。実際に行為に及んだかどうかの差は大きいという人もあるかもしれない。でもその差はわずかなのかもしれないと恐れる気持ちに私は共感する。
 むしろそのコメンテーターのように全く相手を怪物のように言い、自分は正しい、自分の中にそんな種はないと証明しようとする人こそ、そうしなければいられない理由があり、そのためには人を傷つけて平気な状態にある。不感症になっているのだと思う。加害の傷を持ち不感症になっている誰かは、いつかの私であり、将来陥るかもしれない私なのだ。

 話が持論にだいぶ逸れたけれど、『天上の葦』には終戦時十四歳の子供であった勝利さん以外にたくさんの年長者(と言っても当時二十代の青年だった)が出てくる。それぞれ戦時自分のしたことに気づき、悔いて生きている。だれにも二度と同じ思いをさせることがないようにと願って生きている。
 そのうちの誰かは勝利さんのような子供たちに「正しい日本人はこうあるべし」と刷り込んだのは自分だと責任を感じている人も出てくる。戦地に人を送り出した女性や子供たちを安心させるために、辛い思いを拭ってやろうとして、却って人の心に蓋をさせてしまったことに気がつく。行動を操っていたことに思い至る。そうして身動きが取れなくなった人が空襲で何人も死んだのだと罪悪感を持つ。

 私は彼に他に何ができただろう! と強く思った。これ以上何ができただろう。できる限りのことを、いやそれ以上、できそうもないことまで踏ん張ってやってきたんじゃないかと。それでも現実に起きたことは彼を責め苛んだ。
 彼も勝利さん同様に戦争時代を封印してきた一人だった。

 人間は不完全で不足だらけだ。そしてとんでもなく人生は不公平だ。
 私たちは心を分かち合う勇気も持てず、傷つきを認めず、ただ自分を恥じて抱えこみ、恥に囚われているのと同じだけ目の前の相手を見逃して気づかずに生きている。
 子供はそんな不完全で自分を十分に受け止めることのできない親であっても、しがみつき、承認を求める他ない。

 心に蓋をされた青少年期を送り、価値観がぐるりとひっくり返るような経験をして、大きな傷を抱えこんできた人たちに、自分を支えることすら目一杯な人たちに、戦後の子供たち(今の団塊の世代)は育てられてきたんだな、と改めて思いを馳せる。しかも食べるものにも事欠き、政治も不安定な世情の中で、自分の心や傷つきに目を向ける余裕なんて親たちにはなかったかもしれない。
 生まれ順や性別によっては、子供も労働力や家族を支えることを期待されただろう。十分に子供ではいられなかったかもしれない。
 そうして育った子供たちが団塊ジュニアの私たちの親なのだ。
 勝利さんたちの傷は、何も知らない今の私たちにつながっている。


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