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8/3#物語のつくりかた「平野啓一郎さんの回」から

 平野さんへのインタビュー動画を見て、心に残ったことがいくつかある。

  • 書き進められないときは書き手の理解が足りていない。

  • 分人主義

  • マーケティングをして書くことと、自分の中にあるテーマを追求するように書くこと。


 「書き進められないときは書き手の理解が足りていない」
 かつて、私はそのことに無自覚だった。小説を書いていても「なぜかしっくりこない」「感覚が拒否する」などとただ感覚的に捉えていた。話の行き先は「わかってるのに」動けない。意識と無意識が乖離しているようで、もどかしかった。
 「わかってないんだ」と自覚したのは、もうゴリ押しすることもできなくなってから。知っていると思い込んでいるだけで知らない。だから思い描くことができないと思い知る。認めればできることはいくらもあった。

 この日記の入ったマガジンの説明部分に書いた書く目的「誰かに向けて書く意識を高めるという技術向上的な意味合い」を満たすのはとても難しい。
 わかりやすく伝えることは既に十分に理解し、全体を客観視できていないとできないことだから。
 私はとりあえず書きながら発見することが多い。人と話しながら、掴みきれていなかった気持ちを見つけることもしょっちゅうだ。
 日常生活ではそれでいいんだと思う。通常人はそれほど自分を把握し切れてはいない。
 書くにしても軽い日記なら何とかなる。だけど誰かに何かを伝えようとするなら、それでは足りない。小説ならなおさらだ。自分でもわかっていないものを差し出して、相手に正確に受け取ってもらおうなんて、無理だよ。なんてことを思った。


 それから「分人主義」
 平野さんが考えた「一人の人の中に、場面に応じて出てくるいくつもの人格(分人)がある。その人格の集合体が一人の人間であるという考え方」だそうだ。
 自分でも認め難い部分を恥じたり、否定したりするのではなく、「そんな私もいる」とただ置いておく。認め難い部分があることが私全体を汚すものではないし、消し去らなければならないものでもない。ただ「あるなあ」と眺めることをめざしている。

 私の認め難い部分というより、分人として切り離すことで抵抗が減り、受け止めやすくなる。酷い扱いを防ぐ効果がある気がする。

 自己受容という言葉には受け入れるというニュアンスがあると感じるが、本来は平野さんがいうような、「受け入れなければ、もしくは消さなければ」ともがくのではなく、ただ「あるなあ」と置いておくことをいう。あっても別にいい、それも私の一部分、と居場所を確保してやることなのだ。やだなぁと感じながらも、認めてやること。
 自己肯定感という言葉にも、肯定できる私(良い部分)であるという誤解があると思うが、実際は素敵な私も、認め難い私も同じ一人の人間の中に存在することを認め、私から生まれたどの感情もあっていいと受け止める(肯定する)ことで感じられるものなんだと思う。
 分人主義=色々な私をそのままに眺め、消し去ろうとせず認めていくことなのだとしたら、それは平野さんの言う通り、心に平安をもたらすと思った。


 最後に「マーケティングをして書くことと、自分の中にあるテーマを追求するように書くこと」
 これについては、同日目にした小説家になろうで書籍化した作家さんの記事と対比して興味深く思った。
【お便りコーナー】第112回: ただのぎょー先生
 ぎょーさんのマーケティングをして書く姿勢は、私に必要なものだと思う。「テンプレを書いていても消せないものが個性」というのはその通りで、物語には型がある。読者に望まれた展開がある。今、何が望まれているのかを知らなければ、差し出すことは不可能だ。その枠組みの中でも、自分のテーマ、作家性を表現することはできる。
 学生の時にデビュー作で芥川賞を受賞し、以後ずっと注目されてきた平野さんは、マーケティングを意識して書いてはいないという。自身のテーマを追求することが、対象とする読み手の望みを満たすことになる作家さんなのだろう。商業的には、ファン、特定の読者を獲得することで初めて可能になることだ。
 今ある市場のニードを満たそうと考えるのか、自身の興味の追求によって新しい価値を提供しようと考えるのか。意識するにしろしないでいるにしろ、誰かの、自身がまだ認識できていないものも含めた、ニードを満たすものになる必要がある。
 そんなことを考えた。


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