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6/9 『渇水』

 映画館で観てきました。
 原作は1990年に出された河林満さんの小説です。
 私が育ったのは四国なのですが、その頃(数年後かな?)渇水のため毎日早明浦ダムの貯水量をテレビで確認していたのを思い出しました。

 僅かなお金を置いて親が出ていき、二人の娘だけになってしまった世帯が渇水の中、滞納のため水道を止められてしまい……という話。
 語り手は水道局員の岩切です。

 原作は未読なのですが、映画とは描かれている時代も設定も違うものなのかなと感じました。
 
 とはいえ、父親がタバコをたくさん吸う感じ(これは主人公が、なのかもしれないけど)、食事や身の回りのことができないことで別居している妻の気を引けばいいという同僚の発言、近所の人も親が不在がちなのに気づいているのに家庭のことに踏み込み切らない(通報しない)感じ。
 いろんなところで「昭和だったらそうかもしれない」という感覚がありました。とはいえその頃の私は十分子どもだったので、大人のことはあまり見えてなかったと思うのですが。

 いまなら、どのような立場の人であっても、ここは子供だけの家なのではないか? と気づいたら自分が手を差し伸べるのではなくとも行政の手が差し伸べられるように通報すること、誰かしらと情報を共有することがまず自然と浮かぶんじゃないかなと思ったりしました。


 子供達の、親に対する文句ひとつでてこない、誰も頼らず立ち入らせようとしない頑なな感じ、それから親が帰ってくると信じている健気な感じは、ほとんど信仰で、外の人が考えるだろう本当に困ったら助けを求めるだろうという予測は裏切られる。

 彼女達は現実を否認する(親が必ず帰ってくると信じる)ことで自分たちが親から愛されている感覚を手放さないでいる。親もそのように手紙を置いていくのだから尚更信じないわけにはいかない。

 内心真実がわかっていたとしても、自分から助けを求めることは親の愛を自ら手放すことであり、親からの愛を諦めることだと感じてしまう。
 愛してほしければ死んでも信じ切るしかないのだ。死ぬその時まで親が愛してくれるかなと思っているかもしれない。

 放置子といえば『誰も知らない』や『八月の母』が浮かびます。
 『八月の母』では母親のようになるまいと誓って親になったその人が子供達を放置してしまうというストーリーになっています。
 その人はかつての自分のような居場所のない子供達を集めて彼らの親代わりのように振る舞い、そしてゆっくりと目を塞いでいきます。
 丸抱えしておいて手放すのです。

 
 『渇水』の二人の娘を丸抱えする大きさの愛を与えてくれる人はいないかもしれない。だけどそれなりの関心を寄せて、どうか無事で幸せでいてほしいと思う人たちは映画の中にもいた。
 だけど関わり方がわからない。丸抱えはできないのに期待させてはいけない。手を差し伸べて悪感情を向けられたらたまらない。過度に依存されたら困る。誤解されたら?? そう思って目を塞ぐ。

 みんなまず自分が大事で、余力でできる範囲でしか関われない。それは当たり前のことだと私は思う。
 もしも自分を削って差し出さないことを責める人がいたなら、搾取しようとしている危ない人だと思っていい。距離を詰め自分を削ってまで差し出してくる人も同様に、その人の側になんらかの都合があると見ていいだろう。

 時に自分のことを差し置いてまで子供に対応するという親の仕事は、その準備と覚悟ができている人にしかできない。それでも子供が期待するほどにはなされないのが通常だ。(それが程よさでもあるだろう)
 子供は全存在全人格をかけて向き合ってくれる存在を必要とするけれど、誰もが誰もに対してできないといけないことではない。完全にできる人は存在しない。

 だから例えば単なる近所の人の挨拶、映画の水道局員なら近くによったからアイスでも程度の会話、店主が小さな万引きの常連が気になることを誰かに話し、小さな、大した負担にもならないものを重ねて気にかけていることを示し、何か話ができる相手になる。
 何か大きな覚悟をしないでも、息をするようにできるようなことをする。
 そういう社会にしていきたいなあって思う。

 そんなこんなを考えた映画でした。


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