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「我々はなぜ感動してしまうのか」

マンションリノベーション
計画案@新福島

南西向きの位置に掃き出しの窓があるマンションで、夕陽が食卓まで射してくることが予測できる。

15階建ての13階。

眼前の遮蔽物が無いため、窓から見えるのは街並みと空、夕陽の射し込みも随分とヘルシーになりそうです。

ギャラリーメイクの場合、そのヘルシーさは邪魔だったりするのですが、絵や器を並べる時その夕陽の射し込みも日焼けしない程度に映ってくれそうです。

期待してます。

アートや器や映画やドラマやアニメーションや建築物みたいな作品と呼ばれるものを見たときなぜ感動するのか?を考えるのが今回のテーマで。

おそらくそれは、作品やストーリーの圧倒的な純粋さへの憧れや、圧倒的な集中や没頭で作られたことへの憧れ、自分では再現できない歴史的背景や質量の重さだったりの憧れなのではと。

共感とは違うのではないか?という結論に至ってます。

「そうなりたかった自分」に対しての「罪悪感の解消」を感動にスライドさせて我々は心を満たそうとしてるのではと。

とはいえ感動が無いと心が死ぬため我々は感動を探し続けるのですが、感動を手にするためには作品に対する集中や没頭が我々側に必要で。

その感覚は限りなく禅に近く「集中するために集中するのである」みたいな内側への意識が必要で。

そうなると、感動とは没頭の中にあるとも考えることができて、外からの情報はトリガーでしかなく、重要なのは心の内側なのではないかと。

消費されない感動を生むためには、自身の作品に没頭できる余白を作ることと、没頭に至るまでの「問い」という道標を立てること、その道標を押し付けるのではなく自身で繕ってもらうこと。

そう考えると「問い」こそが感動への導入とも捉えることができて、多くの問いを持っている人へ没頭しやすく、感動しやすいのではと。

ではなぜ「問い」を持つのか?で、求めてるのは理解や納得。

「分からないことがある」という状態は不安を生み、不安はノルアドレナリンを出し、不安を解消しようとする働きかけをするみたいで。

その不安が解消された時、ドーパミンとエンドルフィンが出て快感を得る。

っていう構造らしいです。

つまり過去にドーパミンとエンドルフィンの体験がある人は、それを再現しようと問いを探すわけで。

それを600年前とかにエンタメに昇華してる風姿花伝ハンパないです。

結局色気。

「瞼の裏の宇宙を見るのだ」


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