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「鳥かごのハイディ」第七話

Haze

(2)

 エレベーターホールに着くとレベッカの姿はなく、既に戻ってきていたアガサと鉄柵の前に立つ警備のモーヴィーが二人で話し合っている。
「おかえり! アガサ」
 名前を呼ぶと、ようやくわたしの姿に気がついたアガサはすぐにモーヴィーとの会話を切り上げてこちらへと歩いてきた。
「ごめん! モーヴィーをからかってたら、あなたがいることに気づかなかったわ」
「へえ?」笑顔で答えるアガサに、わたしはわざと訝しむような不敵な笑顔を浮かべて言った。
「怪しいわね。フロイト博士の人体実験で、頭の中でもいじくられたんじゃないの?」
 それを聞いたアガサはお腹を抱えて笑い出す。子供のようにケラケラと今この瞬間だけを大いに楽しんでいる。昔のわたしとエレノアみたいに……。
 こんな風に無邪気に笑う彼女でさえ、その心には大きな闇を抱えている。もしアビーがアガサを描くとしたら、一体あの真っ白な画用紙には何が浮かび上がるのだろう。
「チャーリー! ついて来て」
 突然アガサはそう言うと、モーヴィーの前を通り過ぎる。
「待ってよ! どこへ行くのよ?」
 わたしは慌ててアガサの後を追った。モーヴィーが警備に励むエレベーターホールを横切って、この白い廊下をさらに進んだ右手側には、看護師たちの待機するナースステーションがあり、その向かい側にはレクリエーションルームがある。
 その部屋は、主にグループセラピーなんかをするときに使用されると聞いたことがあったけれど、一度だってそんなものが開催されたことはなかった。だから普段は外部からダンスやヨガの先生を招いて開かれるスタジオだったり、感謝祭やクリスマスシーズンなんかにはちょっとしたパーティが開かれて、名前も知らないようなバンドの演奏会場になることもあるとか。
「チャーリー、姿勢を低くして……そっとよ! そっと」ナースステーションの近くまで来ると、アガサは身を屈めて人差し指を口の前に立てて囁いた。「さっきモーヴィーに聞いたんだけど、レクリエーションルームの扉の鍵が最近壊れたみたいで、今は鍵をかけてないんだって!」
 その嬉しそうな表情を見るだけで、アガサがどんな悪巧みをしているのかは大方の予想がつく。
「まさかアガサ、忍び込むつもり? あんなところに入り込んだところでなにもないわよ? 談話室のがマシよ

 呆れてそう言うと、アガサはそんな忠告などまるで聞く気がないように、ひとり屈んだままレクリエーションルームに向かって進んでいった。
 部屋に忍び込み扉を閉めると、ガランと広い部屋の窓からはたくさんの陽の光りが差し込んで、部屋に舞う埃が照らされてキラキラと輝くダイヤモンドダストのように見える。
「すごく静かね……」
 アガサは黙って奥へと進んでいく。誰もいないこんな閑散とした広間も悪くはない――見慣れた部屋を見渡しながらわたしはそんなことを思った。
「でも、アガサ? こんな場所に来て、一体何をするの?」
 呼び止めるとアガサは振り返り、この広間の片隅にある、照明スイッチなどの配線が集まる裏部屋の扉を指差して言った。
「これも、さっきモーヴィーに聞いたんだけど、どうやらあの部屋で看護師たちが夜中にこっそり煙草を吸ってるらしいわ! 煙草は建物の外でしか吸えない規則なのに!」
 目を輝かせながら嬉しそうにするアガサは、まるで他人の秘密を悪戯に暴こうとする子供の無邪気さそのままだ。
「煙草なんて見つけてどうするつもり? あなたって案外子供なのね」
 アガサをからかうと、彼女はまた意地悪そうな気持ちの悪い笑顔を浮かべて言った。
「チャーリーこそわかってないわね? 普段、『規則! 規則!』って口煩い看護師たちが規則を破ってるのよ? 弱みを握るチャンスだわ!」
 息巻くアガサを見て、やっぱり子供だとわたしは呆れた。
 奥にある扉を開くと、ようやく一人が通れるほどの狭い階段が中二階へと続いている。階段を上りきると、少しだけ広くなってるその部屋は、狭苦しいレコーディングスタジオのようになっていた。正面には幅広いガラス窓が備え付けられていて、階下のレクレーションルーム全体が見下ろせるようになっている。
「見て! チャーリー! 思った通りだわ。煙草どころか灰皿まで用意してあるわよ!」
 部屋の隅の方でゴソゴソとなにかを物色していたアガサが、青色のプラスチック製の灰皿と、幾つかの銘柄の煙草を抱えて得意顔で戻ってきた。主人が投げたボールを意気揚揚と咥えて小走りに舞い戻る飼い犬みたいだ。
「さてと!」
 アガサは抱えてきた煙草を中央に置かれていた小さな丸テーブルの上に広げると、幾つかある銘柄の中から適当に選んで一本取り出し、おもむろに火をつけた。
「ちょっと?」
 彼女の突発的な行動に驚いたんじゃなく、煙草なんてとても吸うようには見えないアガサが煙草に火をつける様を見てわたしはひどく驚いていた。
「あなた、煙草を吸うの? とてもそんな風には見えなかったけど」
 アガサはそれには答えず、火をつけた煙草の煙を大きく吸い込むと、見る見るうちに青ざめて苦しそうに咳込み始めた。
「アガサ?」
 真っ青だった顔を今度は真っ赤に染めながら、咳き込んで苦しそうに悶えるアガサを、一体何が起こったのかわからないままにただオロオロと見守ることしかできない。
「苦しい……口の中が気持ち悪い……」
 ようやく咳も落ち着いて来た頃、アガサが声を振り絞って、気持ち悪そうにつぶやく。
「ねえ……大丈夫?」
 まだ訳がわからないままに、眉を寄せて苦しそうに疼くまったままのアガサの背中をさすってやると、充血した目をこちらに向けながら、彼女は引き攣った笑顔で答えた。
「煙草の味でも覚えて家族の目を引こうと思ったけど、これは失敗ね。あなたの言う通り、わたしに煙草は合わないみたいよ」
 再び顔を青くして、真っ赤に充血した目からは涙が滲み、さらには鼻水まで垂れ流してアガサは笑う。
 そんな汚い笑顔を見ながら、わたしはおもいっきり笑ってやった。お腹がよじれそうになるほど、おもいっきり。
「バカなんじゃないの? 今さら反抗期を迎えて、一体どうするつもりよ?」
 大笑いするわたしを恨めしそうに見ながら、彼女はふて腐れるようにつぶやいた。
「別に良いじゃない! チャーリーには関係ないでしょ?」
「…………」
 ――チャーリーには関係ない……。
 このアガサの言葉をきっかけに、わたしは大学の寮に入るために、家族の元を離れ、住み慣れたラクロスからこのミルウォーキーに向かった日のことを思い出していた……。
「なんで? 煙草なんて体に悪いだけよ? それにチャーリーに煙草なんて絶対に似合わないもの!」
「エレノアには関係ないでしょ? わたしの体をわたしがどうしようと!」
 すごい剣幕で怒りながら詰め寄って、わたしの手から煙草を奪い取ろうとするエレノアに、わたしはそう吐き捨てた。あのときのエレノアの悲しそうな表情が頭にこびりついて離れない。「嫌だよ! チャーリー! そんなの絶対にチャーリーらしくない?」
 エレノアは目に涙を浮かべて煙草を捨てるように懇願した。煙草を吸う――たったそれだけのことなのに、そんなことは絶対に認めない。エレノアは、煙草を吸うわたしの一切を拒絶するようにそう喚いた。
 そのときの彼女の心の痛みが、彼女のあの悲しそうな表情と一体になって、今でもわたしの胸を締めつける。それでもわたしが煙草をやめなかったのは、きっと今のアガサと同じ理由。
 エレノアの気を引きたかったんだ。

「チャーリー? どうしたの?」
 アガサの声に我に返ると、彼女は不思議そうにわたしの顔を眺めていた。
「なんでもないよ? わたしにも一本くれない?」
 わたしがアガサに煙草を催促すると、彼女は首を振った。
「未成年に煙草なんて吸わせるはずもないでしょ? それに、そんな機嫌悪そうに仏頂面で頼まれたって、煙草をあげたいなんて気分にならないわ」
 別に機嫌なんて悪くなってたつもりはなかったけど、エレノアみたいな口調でアガサにそう言われると、気持ちを見透かされているみたいで本当に不愉快な気持ちになっていた。
「関係ないでしょ? それに来月には十七の誕生日よ!」
「どのみち足りないわ」
 自分でもわからないけれど、とにかくわたしの内側から真っ黒な煙みたいな怒りが無限に湧き起こっている。わたしはそれをどうにもコントロールできずに、ただ飲み込まれていくのを待ってるだけだった。
 そして、真っ黒に染まっていく自分が許せずに、子供の八つ当たりのようにこの怒りをアガサに向けている。言葉で説明なんて到底できそうにもない、このモヤモヤをすべて彼女になすりつけるように。
「ケチなこと言わないで一本くらい頂戴よ! どうせあんたは吸わないんでしょ?」
 詰め寄ると、アガサは困惑したように苦笑いを返した。
「わかったわよ! 少し落ち着いてよ、チャーリー」
 わたしは受け取った箱から煙草を一本取り出し火をつける。そして深く吸い込み、ゆっくりと煙を肺の奥深くへと導いた。この訳のわからない気持ちが落ち着くことをただ期待して。
 しかし大きく深呼吸をして、この苛立ちを静めようと吸い込んだ煙草の煙は、わたしの舌の上を痺れさせると、さらにか細い喉の奥へと流れ込んで、強烈な痺れと痛みを与えた。やがて煙は肺に達し、言いようのない苦しさと不快感で満たしていく。
 肉眼では捉えられないほど細かなガラスのかけらが、無数にこの肺の至るところに勢いよく突き刺さっていくような感覚。
 そしてわたしはそれらをすべて排出するように、疼くまってひどく咳き込んだ。苦しくて気持ち悪くて息もできない。
「チャーリー?」
 さっきアガサを笑った自分が恥ずかしくて顔が見れない。でも無様に疼くまって苦しむわたしの背中を、アガサは笑い飛ばすどころか優しくさすってくれた。
「チャーリー? 大丈夫?」
 肺の中に混ざり込んだ不快感は少し和んでも、貧血を起こしたあとのように身体はふわふわとして頼りない。
「どう? 少しは落ち着いた? ねぇ、チャーリーは普段どんな銘柄の煙草を吸ってるの?」
 まだ咳の残るわたしを労わりながらアガサが訊ねる。
「……」
 吸っていた銘柄――? わたしは何を吸っていたんだっけ……。頭の中がモヤモヤして、吸っていた煙草の名前さえ思い出せない。「たしか……白っぽい箱で緑のマークが入ってたやつだった気がするけど、名前が出てこない……」
「自分が吸ってた煙草なのに、名前がわからないの?」
 そんな風にアガサが驚くのは当然。きっとわたしでも同じことを言うと思うから。
「きっといつも飲まされてる精神安定剤のせいよ。あれを飲むといつも頭がぼんやりするもの。きっとわたしの脳細胞の幾つかは、あの薬でやられちゃったのよ」
 もっともらしい言い訳をして取り繕うと、アガサはテーブルに広げた煙草を指差し、首を傾げながら訊ねた。
「ほら? その中にどれかに見覚えはないの?

 でももう煙草を吸いたいなんて気分にはなれなかった。自分が吸っていた煙草も思い出せない不安と情けなさより、アガサに変に思われたくないって気持ちの方が強かった。
「もういいよ、部屋に戻るから」
 言いようのない不安に襲われたわたしは、とにかく一刻も早くその場から逃げ出したくてそう言い残すと、呼び止める彼女の声を振り払うように鳥かごへと戻った。
 やっぱり変な風に思われただろうか? ここに来てからずっと、自分でも信じられないくらいに記憶が抜け落ちてしまっていたり、自信がなかったりする。わたしはどうしてしまったんだろう?
 アスピリンを大量に摂取した後遺症なのか? それとも本当に精神安定剤のせいなのか? ――情緒不安定による自殺防止更生プログラムに参加してるはずなのに、このままじゃ死ぬことどころか自分のことさえすべて忘れてしまって、自分が自分でいられなくなるような惧れに駆られる。
 そしてわたしは、一人辿り着いた硬いベッドの上でシーツに包まって目を閉じた。
 ママに、そしてパパに会いたい。
 何よりもエレノアに会いたい。
 そんなことを想いながら、その夜わたしは眠った。

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