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僕が食と関係ないこと発信する理由


なんで料理写真やらレシピをアップせんのや


先日お世話になっている商工会のスタッフの方がうちにいらしてくださり、色々公的に提出する書類に関してのアドバイスをいただくことがあった。

「石橋さんって料理教室とか出張料理やってる割に人ばっかり上げててレシピとか料理写真上げないですよね(笑)」

いやいや色々日々の中で新しい料理作り続けているのよ。というか、同じ料理作るのが面白くないからむしろ作るたびに何かパーツごと実験して、創作し続けているので、むしろレシピにするとしたらもう万を超えるんじゃないかという種類、作っているのよ!

というようなことがあり、ここでどうしてそうなのかと自分でも不思議に想い、見つめ直してみた。

そう言っても説得力がないので、行動で示さなあかんねということなのだけど。

食のことを仕事にしているなら食に関するコンテンツをバンバンアップしていくのが筋やないか、何やっとんねんと自分でも薄々思っていたので図星だったのと直接口にしてもらえたのがいいきっかけでした。

うーん、自分で自分のことってよく分からないと言う姿勢がいいのか悪いのか分からないけれど、兎にも角にも見つめてみた。

どうも自分には全体像をできる限り、しかも一気にきちんと伝えたい欲求がコミュニケーションにおいて人より強い傾向にあるらしく、簡単に言うと料理ってレシピで伝わる情報量が少ないから、諦めてしまっているのが一つ。
もう一つは「食べる」という行為が料理だけを食べているわけではないと思えてしょうがない、というのがもう一つ。一番大きな理由は僕が「料理を作る」仕事でなくて料理教室にしても出張料理にしても「食卓を創る」仕事だから。と言うものだった。

商品と言ってしまうともう本質とずれてしまうけど、(この違和感は後日「同じ釜の飯を食う」という記事に記します。)僕の商品のテーマは「料理」だけでなく「食卓」なんですよね。みんなで食べ物を囲む時間。

こういうすれ違いって技術職とか専門職と言われる方は悩みとして持ったことありそうなんですが。どうですか?

いや、そう言うて僕もあなたを一部しか見てないのかしれません。
ほんとごめんなさい。


レシピが嫌、ほんと嫌。

教室のメンバーののりちゃそが授業の内容をまとめてくれた「生きるための食のレシピ」


伝わらねえ!!
なんでみんなレシピのことばっかり訊いてくる?!

と言うのが教室をはじめた頃の率直な感想だった。

誤解されると申し訳ないので、言っておくと、僕はレシピ自体を否定しているわけではなくて、「形式」で括られること全般が本当に嫌なのである。

発信をはじめた頃はコピーはキャッチーじゃないとダメだーという思い込みで、それに携わる人のことを考えず白黒つけすぎな表現で嫌な思いをさせていただろうなーと思いつつ・・・。(反省)

今思い返すと、小中高大、一定の居心地の悪さから、現実に映画見に行ってしまうとか、いまここにはいないよー、話しかけて来ないでーという精神的不登校を繰り返していたのである。どちらかというと個人的な感覚の問題。

事実、レシピ自体は「大まかに」こういうふうな手順を辿ると「大まかに」こういう風な料理になるよーという目安にするか、自分が大体の目標値として、メモしておく程度で使用するのには大いに役立つのである。誰かが言ってくれたのだけど、多くの人がレシピに対するリテラシーが育ってないとのこと。


レシピから何かを学ぶというのは英単語だけ意味なんとなく分かればいいやーというのに似ていて、結局、生きた英語は喋れないのである。

レシピを知りたがるというのは正解が常にあるという日本のなかなかアップデートされない学校教育の構造の弊害に思えてならない。

私は何者であるというは血肉ある試行錯誤の上で削り出されていくものであって、それは私は何がしたいのかを旅路の中の頼りないコンパスのようにして進むしかないのと同じではないか。

だからレッテルを貼るのも貼られるも気をつけている節があります。もっと深掘りするとそうやって分断されてきた幼少期からの様々な痛みに行き着くのだけど。

レッテルを欲しがるわたしというのははわかりやすく愛されたいと言っているのわたしなのでは。でも命の仕組みはレッテルを貼られれば貼られるほど知らぬ間に傷ついていく側面もあると思うのだ。

なんかMr.Childrenみたいになってますけども。



私たちは私たちを食べている。

お弁当用おからハンバーグ。同じ顔がひとつもない。


ストレングスファインダーの上位5つ以内に「運命思考」がある自分にとって、これは独特の感覚なのかもしれないが、食べるという行為は料理だけを食べていないように感じています。

例えば教室で最初によく話す話しなんですが、山頂で親友と食べたカップラーメンは最高!という話で。料理人いらんという話ではありません。

その時に主に食べているのは三分で出来上がる即席麺料理というより、山頂までの景色や苦労、親友とそれを分かち合っている感覚。今目の前の風景。

自分はたとえば目の前の人参を齧ったとき、そこで育った土地の風景、降り注ぐ日差しや雨、風、土の味、育てた人の想いやなんかが流れてきて。

それが排出されて、菌たちに分解されながら土となったり、海に流れて、プランクトンの餌となったり、汚染したり、浄化されたり、雨となりまた、作物になんらかの影響を与えるんだなあ。とかいう映像が浮かぶ。

広く広く風景を見渡して、長い長い時間のことを思えば、事実、私たちは私たちを自身を食べている。命の曼荼羅食合戦なのである。万華鏡。

「食べている」という瞬間、それはその曼荼羅を感じやすくなっている状態なのでは。

「私たちは繋がっている」ことを忘れないで。

そのために私たちは何らかの形で食べる。
今日も内臓であなたを食べるのだ。


結論。やりたいように、やらせてくれ。

伊豆大島で出会ったカピバラ先生。

というわけで、今のところ僕はこれからも一見関係ない写真や記事も発信していきます。僕が伝えたいことがアーカイブされていった時、それを見届けた人が何かを食べる時、感じることがより多くの経験をもたらすかもしれないし、僕と仕事にせよプライベートで関わってくれた時、より全体として関わってもらえた方が双方ハッピーだと思うから。

結論。やりたいようにやらせてくれ。
自己承認欲求丸出しかもれん!!僕を知ってくれ!!
愛してくれえ!!!(笑)

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