見出し画像

読書記録 「脳が壊れた」 1〜4章


「脳が壊れた」との出会い

後遺症は左下肢の軽い麻痺のみ、日常生活に支障はないでしょう。
手帳や介護保険も必要ないと言われて回復期を退院しました。

ところが実際に生活を始めて感じる数々の違和感。
スーパーでの会計に戸惑ったり、日常会話が理解できなかったりということが出てきました。

家族に訴えてみましたが「もともとじゃない?」「年のせいでしょ」
と取り合ってもらえない。後にスローペースになっていることは感じていたものの、気がつかないふりをしていたと言われました。
誰にも理解されないもどかしさを抱えている中で出会ったのがこの本でした。

本屋さんでたまたま見かけた
「脳が壊れた」
衝撃のタイトルに思わず手に取り前書き部分に目を通しただけで即レジに向かいました。
これは私のための本だ!そう直感しました。

前書きを読んで

前書きだけでうるうるしてしまう内容。のちにもしかしてこれも感情失禁の症状なのか?とも思いましたが、そうでなくても最初の数ページで私の思いを代弁してくれていました。

著者の鈴木大介さんより遥かに軽い症状の私。
鈴木さんさえ軽度とされてしまうならば家族を含め周囲に自分の病状が
認識されなくても仕方がない。
それより何より自分自身が感じる違和感を言語化できないばかりに誰にも訴えることができなかったのです。

高次脳機能障害はないと言われたので、私も家族も「高次脳機能障害とは」ということを調べることすらしませんでした。
もちろん「こういう症状が出たら高次脳機能障害の可能性ですよ」
なんて説明もありませんでした。

急性期や回復期で重度の方を目にしたことはありました。
ゆえにそれほどでなければ高次脳機能障害ではないのだ
という認識でいたのです。

前書きに書かれている
『僕自身、以前当たり前のようにできたことが出来なくなっている苦しさに対して、周囲から「考えすぎ」「気の持ちよう」と言われることが、何よりも苦しく悔しいことです』

『苦しみを他者に伝えられないこと、他者によってその苦しみが「ないこと」にされるのがこんなにも残酷で辛いということも、僕自身が今回高次脳という障害の当事者となって初めて知ったことでした』

まさに私が感じ苦しんでいたことでした。それを前書きの時点で的確に言語化してくれているこの本をそれから一気に読み進めていきました。

1章から2章

ここではどんな風に脳梗塞を発症し、体にどんな変化が起こってきたのかを自分ごとではなく他人目線のように書かれているのが面白いと思いました。

私はくも膜下出血であったため救急車を呼んだところで意識が無くなってしまいました。しっかりした記憶があるのは術後2週間頃からです。
しかも両眼の視力を失っていたためその記憶も非常に曖昧なものでした。

ただ、女子トイレ不法侵入について書かれているところを読み、私も見えないがゆえに男性病棟不法侵入事件を起こしたことを思い出し、思わずクスリと笑ってしまいました。

その後に書かれている
『いや、僕は脳梗塞をやったけど、その中身の本質は変わっていないし、変質者になってもいない。』
この部分はとても刺さったところです。

鈴木さんは著書を読む限り見た目の変化もあったにも関わらず、それでも障害は軽いとされていました。

私は見た目の変化もないため「何かがおかしいんです」と訴えても
「いや全然わからないですよ」と言われました。
でも、正直まったく嬉しくないコメントでした。

「あなたにはわからないのかもしれませんが私は辛いんです」
私が理解してもらいたかったことはこれなんだなと思いました。

『反則空間無視の症状や左側への注意欠陥、右方向への注意亢進は、
医学的にその原因や症状、それによって起きる不具合については認知されているものの、当事者が具体的にどう感じているかなどリアルに語ろうとした前例はあまりないらしい。ならばこの拙い言語化も、きっと当事者やその周辺者の役に立つに違いない』

まさにそうである。私は自分で伝える自信がなかったので家族には直接この本を読んでほしいと頼みました。

このブログのタイトル「リハビリの夜明け」は当事者研究をされている
熊谷晋一郎先生の著書「リハビリの夜」をもじってつけさせていただいたものです。

医療従事者がどれだけ研究してもわからない当事者の思いや感覚を言語化することは、同じ立場の患者や家族だけでなくもっと多くの人のためになるのではないかと思っています。それゆえ、これから当事者研究というものがもっともっと進んでいくことを期待したいと思います。

3章から4章

ここからはリハビリについて書かれています。

私がまずハッとしたのは『やればやっただけ回復する』の部分です。
『回復しない障害もあるが、諦めた瞬間に一才回復はしなくなる。諦めない限り、回復の可能性はある。これがリハビリの基本精神だ』

急性期の時に目が見えていたら、回復期の時にこの本に出会っていたら、私のリハビリに対する心構えはもっと違っていたものになったかもしれないと思いました。

これは発症から9ヶ月経った今でも当てはまるのだろうか?
当てはまるとすれば諦めず可能性にかけてみたい!
このブログを書くために読み直してみて強く思っているところです。

それと共に『リハビリの先生がたは、様々なテストや巧みな観察眼で、僕が脳梗塞によって失った機能を見つけ出し、その部分を効率的に刺激するための課題を出してくれるのだ』という部分には羨ましさを感じました。

急性期では目が見えなかったためにあまりにもできないことが多く、
失った機能を見出してもらうことが困難であったと理解しています。

ただ、残念ながら回復期では「高次脳機能障害はない」という前提のもとに皆が立っていたと思うのです。

思い返せば神経的疲労で寝てしまうこと、病棟で迷子になってしまうこと、売店の会計時に時間がかかってしまうことなど多々あったサインを
見逃されてしまっていた気がします。

『失った機能とは、失った日常に他ならない。そして老い先短い高齢者にとって脳卒中などで心身の機能を失うことは、得手して諦観に繋がる。
もう日常は戻っては来ない。生きていてもいい事がない。
けれども、リハビリ医療はそんな諦観や失望から人を救い出しもう一度生きる勇気をくれる医療だ』

これは老い先短い高齢者にとってだけでしょうか?
私の後遺症は他の人に比べたらとても軽いものです。
しかし、私にとって生きがいだったものは現在どれもできない状態と
なっています。老い先が短いともまだ言えない年齢です。
けれどもくも膜下以前の日常は戻ってきません。
生きていていい事がないと思う日がないかといえば嘘になります。

日常生活云々について考えられるようになったのは回復期に移った後であり、さらに言えば現実を見つめるようになったのは退院後のことです。 

でも回復期で生きる勇気をくれるような療法士さんには残念ながら
出会えませんでした。
さらに退院してしまえば回復期の方との接点さえなくなってしまいます。
リハビリが生きる勇気をくれる医療だと私が感じることはできませんでした。

幸い私は現在自費のリハビリに通うことができているため、
もう一度生きる勇気をもらえる医療を受けるチャンスがあります。
でも、回復期を退院して終了だった場合にはどれだけの人が
その恩恵に預かる事ができるのでしょうか?

療法士さんにもいろんな方がおられることとは思います。
『リハビリ医療はそんな諦観や失望から人を救い出し、もう一度生きる勇気をくれる医療だ』
この本を読んでそんな熱い思いで接してくれる療法士さんが
一人でも増えてくれることを望みたいと思います。