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どう生きていくのがいいのか?

ある団体を退会したことから「生きるってなんだろう?」そんなことを考え始めました。
くも膜下出血を起こさなければ気が付きもしなかったことと思います。


退会の決意

先日、10数年所属していた音訳ボランティア団体を退会しました。決意するまでかなり悩みました。退会したらすっきりするかと思いましたが、なかなかそうはいきませんでした。

音訳ボランティアは、半年に及ぶ講習を受け試験に合格してやっと団体に所属出来ます。所属してからの指導もなかなか厳しく、10人ほどいた同期も気がつけば半分になっていました。

「ブラックボランティアだよね」
そう口にしながら、多い時には週の半分以上を費やしてきました。仕事ではないけれど、賃金を貰えなくてもやりたい、生きがいと言える活動だったと思います。

数年前には転居に伴い現場の活動が出来なくなりましたが、どうしても音訳を続けたくてオンラインで参加させて貰っていました。

しかし、くも膜下出血の後遺症である高次脳機能障害により音訳の録音が難しくなったこと、健常者である他の会員とのやり取りで辛くなることもあり退会を決意しました。

退会を届け出て

転居後はオンライン参加であったことや、くも膜下出血後あまり活動に参加出来なかったことで、私が退会をしても会の活動には何の支障も無かったことと思います。

退会願いのメールを出したところ
「受理いたしました。長い間ありがとうございました」
の返信と共に呆気なく手続きは終了となりました。

現場で活動しているときは親しくしていた人もいましたが、転居した後はどうしても関係が希薄になっていました。その上、障害を負ってからは健常者である会員の方々とのすれ違いも多く、自ら距離を置いていました。
そのせいもあってか「退会したんだってね」とお二人ほどからラインをもらいましたが他は何もありませんでした。

もちろんボランティアですので「やめます」と言って引き止められることはまずありません。病気などが原因の場合は特にです。

ただ、自分としては10数年という月日を過ごし、思い入れがありました。引き止められることはないとわかっていたけれど、あまりの呆気なさに
「今まで一体何をして来たのだろう?」
「会にとって自分の存在ってその程度のものだったのだ」
そう思い知らされました。

亡くなっていたら

「もし、くも膜下出血を起こしたとき亡くなっていたらどうだったのだろう?」
そんなことを考えました。

「くも膜下出血を起こしたけれど助かりました」
今回退会した音訳仲間や他のコミュニティのメンバーに知らせた時には
「助かってくれてよかった」
そんな言葉をもらいました。泣いて喜んでくれた人もいました。

でも、実際あのとき亡くなっていたとして、1年9ヶ月経った今誰か私のことを思い出すだろうか?
私の存在なんて何ほどのものでも無かったのではないだろうか?
そんな風に思います。

家族はどうだろう?
「忘れられたくない」という気持ちと「忘れて楽しく過ごしていてほしい」相反する気持ちがあるなと思います。

実際に友人が亡くなった時は悲しい思いをしました。インパクトのある人だったので今でも時々思い出します。でも、毎日思い出しては涙にくれるなんて状況ではありません。

私は第一子を流産しています。当時は悲しくて悲しくて
「こんなことなら、もう子どもなんていらない」
そう思って過ごした時期もありました。
けれどもその後2人の子宝に恵まれ、ごくたまにしか思い出さなくなりました。

人間ってそんなものなのかもしれない。いつまでも記憶に残っていたら生きてはいけないのだから。
「忘却は人間の救いである」
太宰の言葉に頷きながらも、裏寂しさを感じる自分もいます。

明日死ぬかもしれない

ある日突然身に起きたくも膜下出血。人間とは本当にいつ死ぬかわからないのだと身に沁みて思いました。

「いつかは死ぬのだ」と「明日死ぬかもしれないのだ」との間には大きな差があることを病によって知りました。

もう亡くなられましたが、私と同い年で希少がんを患っていた知人がいました。
遠方にいる娘の近くに住まわれていて、時々連れ出しては食事をご馳走してくださったり色んな方に引き合わせてくれました。

想像でしかありませんが、幼いお嬢さんがおられたので、大きくなった我が子の姿を娘の中に見ていたのかなと思っています。

希少がんということでご自身の余命等についても良くご存知でした。
ある日娘に
「明日死ぬかもしれないと思ったことないでしょう」
そうポツリと言われたそうです。

「だから毎日を大事に生きろ」
「だからやりたいことをやっておけ」
などではなく
「明日死ぬかもしれないと思ったことないでしょう」
それだけだったそうです。

今、彼がそれだけしか言わなかった気持ちがちょっとわかる気がしています。

私自身、明日どころか「今日死ぬかもしれない」そう思うことがあります。無論それはくも膜下出血を経験したからです。

けれども、だからどう生きたらいいのか?

明日終わる命かもしれないから
"自分のやりたいことをする"のがいいのか
"誰かのためになることをする"のがいいのか?
はたまたもっと違う何かなのか?

ただ、私の一生なんて誰かの記憶に残るようなものではないのだろうと思っています。今回、音訳の会を退会してみて、去ってしまえばそんなものなのだと悟りましたから。

ここから先どう生きて行こうかな?

人生って何だろう?ここしばらく考えています。
ここから先どう生きていくのがいいのだろう?そうも考えています。

答えが出る前に命が尽きてしまうのか?
そもそも答えが出るようなものでもないのか?

自分でさえどうして良いのかわからないのだから、
「明日死ぬかもしれないからこうした方がいいよ」
なんて言えません。

だから知人が
「明日死ぬかもしれないと思ったことないでしょう」
ここで言葉を終えた意味がわかる気がしています。

私も誰かに伝えられるとしたら
「今日無事に一日を終えられるかなんてわからないよ」
という言葉くらいかなと思っています。

このブログを書き終えた後どうなっているかさえわかりません。 自分の一生がもしあと数時間だとしたら、残りの人生をどう生きていくのがいいのでしょうか?

命の終わりが見えないからこそどう生きていくのがいいのか?
禅問答の様ではありますが、一生の課題なのかなと思っています。