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毒親の記憶

こんにちは、虹子です。

アラフォー、首都圏在住、
IT企業勤務(非正規)の虹子です。

私は眠りに入るまでが苦手でして、
恋愛漫画に無限に課金するのをやめるべく、
noteを始めました。

誰にも言えないことをここに書いていこう。
そう思って、人生初、
ひょんなことから書き始めたエッセイ。

何と、第二話です。
飽き性の私が、続いている。
すごいね。自分でびっくりしています。

何を書こうか迷ったのですが、
今日は生まれと毒親のことについて語りたい。

自分が1番困る質問に、
「ご両親は何をしているの?」
というものがあります。

何しろとんでもない生い立ちの自分。

びっくりされると思うんですけど、
本当に生い立ちがやばいんですよ。

具体的にいうと、私は、
小学校6年間ずっと栄養失調でした。
髪の毛はボサボサで、
カラスの巣、なんて呼ばれていた。
いつもしわくちゃの服でした。

母は専業主婦だったはずなのに、
家にはいつもいませんでした。

私も家に帰りたくなくて、
なるべく遅くまで公園や図書館で遊んでいました。
今で言う放置子ですよね。

毒親から生まれて、
19歳で身一つで家を出てから、
一度たりとも会ってない。

どこにいるかもわからないし、
生きてるか死んでるかわからない。

ご両親は?という質問をもらうたび、
そんな質問をするなんて、
この人は当たり前に愛されて、
大事に育てられたんでしょうね。

いいなぁ。
っていうちょっと複雑な思いも感じる。

今日は毒親の話を少しだけ。
ずっと話したかったのですが、
結局消化するのに20年もかかってしまった。

生みの親がどのくらいやばいか、
説明するのにちょっと悩みますね。

まず母親のポジションだった人。
呼び方からして他の家とは違っていた。
お母さん、ママ、と呼ぶのはNG。
名前をちゃん付で呼ばせていました。
仮にMちゃんとしましょう。

「あんたを産まなければ、
私は医者と結婚できるはずだったの。
生まれなければ良かったのに」
と、Mちゃんは良く言ってました。

愛の対義語は無関心だと言ったのは、誰だったか。
それを悟ったのは、物心がつくかつかないかの頃です。

Mちゃんは、私の身なりについては無関心でした。

例えば、私が5才の頃、
髪の毛をブラシでとかしてくれってMちゃんに頼みました。

普通の親だったら、
自分の子供がブラシ持ってきて、
とかして、とお願いしてきたら、
可愛いなー!
と微笑ましく思うことでしょう。

Mちゃんの目は、みるみる釣り上がりました。
豚の毛を使ったブラシを乱暴に掴んで、
無言で、ぐりぐりと頭をとかしました。

やめて、と言ってもやめてくれません。
鬼の形相で。

怖くて、痛くて。
もう二度と頼まなくなりました。

また、髪型についても、選択権はなかった。

散髪屋に行くことになりまして。
「髪の毛を長くしたい。伸ばしたいんだ」
と私はMちゃんに一生懸命伝えました。
いつも男の子のように短く切られていたから。

お店に入って、美容師さんに
「お子さんの髪型、どうしますか」
と聞かれるわけです。

彼女は無表情で、
「できるだけ短く切ってもらえますか?」
と言ってましたね。

美容院から出て、悲しくて号泣する私。
Mちゃんはそれに腹を立てたのか、
目尻を釣り上げて、
足早に1人で家に帰って行きました。

ずっとこんな調子だったから、
子供の頃はきつかったですね。

私には3才年下の弟がいました。
Mちゃんは何故かその弟を可愛がり、よく褒めていました。
可愛い、賢い、よく気がつく、など。
抱きしめていい子いい子していました。
私は一度も抱きしめたことがないのに。

私の方がテストでは点数が良かったにも関わらず、
褒められるのは何故か弟だけでした。
これなら褒めてくれるだろう、
そう期待して出した100点ばかりのテストを見て、
ふーん。って興味なさそうに言っていたのを覚えています。

父親はといえば、場末のスナックのバーのマスターで、
これまた一緒に出かけた記憶がない。

たった一度きり、
近くの公園に一緒に来て、ジュースを買ってくれた。
嬉しかったので種類もはっきり覚えている。
ネクターという桃ジュース。

父親の怒り出すセンサーは、本当に読めませんでした。
ある日、私が箸を取り落とすと、急に顔色を変え。
大声で怒鳴り始めました。
窓ガラスがびりびりするくらい。
私の服の首根っこを掴んで、
玄関のたたきからドアの外側へ放り出されました。

静かに待てども、家のドアは開かず。
私は号泣し、
ひたすらその状態が終わるのを、
待つしかなかったわけです。

そんな感じの、
むちゃくちゃ理不尽な、
愛のない環境で育った私。

ずっと悩んでいました。
衣食住、十分ではなかったとはいえ、
屋根のある環境で育てられているわけですよ。
たばこの火を押し付けられたわけでも、
首を絞められたわけでもない。

これは虐待にあたるんだろうか?

「親に飯を食わせてもらっているのに、
よくそんなことが言えるね」
「こんなの虐待って言わないよ」
「それでも親は親だよね」
っていう声が聞こえてきそう。

最近毒親サバイバーという本を読みました。
心理的虐待をされた子供のことがたくさん書かれていました。

衣食住はあるけど、
意思を尊重されずに育てられた子供たち。

彼らは、私と全く同じ状況にいました。

そして彼らは、自分の生い立ちに苦しみ、
カウンセリングに通ったり、
社会生活ができず生活保護を受けて暮らしている。

読んでいて涙が止まらなかった。
辛かったよね、苦しかったよね。
よく頑張ったよ、よく生きてきたよ。

小さな私を抱きしめるような気持ちで泣いていて、
鏡を見たら目が腫れていて、
シンプソンズのキャラクターみたいで、
ちょっと笑ってしまいました。

「あんたは社会ではうまくやっていけないよ!」
と呪いのように吐き捨てていた母を思い出します。

10代最後の年、夏の少し手前。
小さなボストンバッグに服をぐちゃぐちゃに詰めて、家を出ました。
そのままあの街には帰っていません。

家を出た日の夕暮れの景色を鮮明に覚えています。
あの山に囲まれた盆地の、
低い家々の向こうからはっきり見えていた暮れなずむ街なみ。
もう二度と見れないだろう、と記憶に刻みました。

呪いは苦しみもがきながらも20年すると解けました。
私は綺麗な北欧風の家で、
可愛い保護犬2頭と一緒に幸せに暮らしています。
一流のIT企業の片隅にお世話になり、
十分なお給料をもらい、
友達もいて、会社でうまくやり、
何不自由ない生活。

一方、噂づてに聞く彼らは、
離婚をして、どこに住んでいるかもわからず、
時々連絡をとって偵察をしてくれているMちゃんの妹(私の叔母ですね)から、
Mちゃんは警察と喧嘩をしただの、
転んで前歯を折ったまま放置しているだの、
職場を転々としているだの、
よくない話を聞いています。

その度に、私は、ふーん。
と気のない相槌を打ちます。
人は接してきたように接されるようで、
愛を感じたことがない彼女には、
もはや他人のようにしか感じない。

死んだと聞いても、
ああ、そうなの。という感想しか出てこない。
葬式に行く気もない。
呪いはとけ、もはや愛は冷めて、
愛の対義語しか残っていないのでしょう。

彼女に満たされるはずだった心は、
他の人や自分自身で十分満たされ、
幸福を感じるまでに育った。
40年過ぎてからようやく一人前になったけど、
遅すぎるとは思わないです。
他の人よりもずいぶん低いスタートから、
這い上がるまでに要した時間だ。

自分をヒーローのように感じ、
引け目には感じていない。

ご両親は何をしているんですか?
という質問をもらいます。
そんな時は、自然に笑いながら、
「うちの親、両方とも医療系なんですよ。
すっごい両極端な親で、、、」

と、生みの親ではなく、
育ての親の面白エピソードをして、
脳みそを切り替えています。

そう、自分には毒親とは別に、
ほぼ成人してから出会った育ての親がいるんです。

それはまた別の眠れない夜の時間に話しますね。
こんなにとりとめない話を読んでくださって、ありがとうございました。

#創作大賞2023 #エッセイ部門



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