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#72-定住と遊牧の狭間でーー『Golden Days』の世界

Strip Jointが、2月21日に、新譜『Golden Days』をリリースした。
彼らの曲では初めて、日本語歌詞だということで、僕はそれを聴き、読むのを楽しみにしていた。
もちろん、それは作詞の岸岡の言葉の感覚を、話しているときから興味深く感じていたからでもあるのだけれど、彼らの曲が日本語の言葉と合わさることで、この日本の風景や現実味とどんな距離感を図ることになるのか、その事後的な現象にもとても興味があったからだ。
それはこれまで、彼らの紡いできた世界が、どこかフィクショナルで匿名的で、それゆえの普遍性を孕んでいたからだ。

Golden Days

淡い夏のビロード手繰り寄せたなら
幕間の合図を街の影が告げる頃
遠い国のバラード暮れなずむ彼方
僕らの愛した歌は今も胸にあるだろう?

名も知らぬ明日の誰かを思うこと
俯きがちな日も忘れずいたい
ひとりよがりの僕は涙ふわり浮かべた空に
変わりゆく季節の透明な風が吹いてる

青い水面のララバイ忘れそうなとき
はじめの二文字を僕の側でささやいて
やがて描けるサムデイ君と生きてゆく
矢のように過ぎた日々にとどまることはないだろう?

どこまでも不確かな道ゆくのさ
ひととき休んだら素敵な世界さ
不器用にもがきながら心ふわり浮かべた空に
変わりゆく季節の透明な風が吹いてる

Close your eyes, things remain
闇のなかでも
Close your eyes, things remain
夢のなかでも

海に手紙流すように時をこえて届け
わたし今も声をふるわせている
森の生命芽吹くように時をこえて届け
わたし今も胸をふるわせている

Strip Joint 『Golden Days』



自分が生きていくうえでの、生活感覚みたいな不確かで微妙な問題のこと。それはしばしばネガティブな発端で僕の前には現れるのだけど、たとえば、ある部屋に座っていることが理由なくどうしても不愉快に感じられたり、口に含んだ水の味がわからなくなったり、昼食に何を食べていいのか心の底からわからなくなったりするときに、その原因を探ってみてもうまくいかないことが多い。
そういうとき、たとえば人間の衣食住、みたいに大きなことで考えると安心する、と教えてくれたのは学校の先生だったと思う。そんな話ではなかったと思うけれど、僕には確かにそんなふうに聞こえた。
大きな縮尺で地図を見ることにしてしまえば、大体の方向は間違っていないと思えるからなのだろう。

『Golden Days』を聴いて、そういうふうな感覚を思い出した。
彼らの歌詞世界は、大きなもの、たとえば北、とか、あの山の峰、とか、そういうものを目指して歩き出しているようで、行く道のささいな風景や、音や、気候の感覚みたいな、些末ともいえる生活感覚のことに、気づけば触れていたように思わせる、そんなやさしさがある。まばゆいばかりの野心の中に、むしろ丹念さがあるのだ。

この曲を聴いて、歌詞を読んで、僕は「住」のことを考えた。どこに住むか、どこを目指すか、最終的にどうやって、どのあたりで死ぬことになるか、そういう話だ。

ダンゴムシの動き方が、「進む」と「止まる」の二つのコマンドの羅列でプログラムされているみたいに、僕らにもコマンドは二つ、くらいしかない。住む、か、移るか。定住か遊牧か。根を張るか、歩くか。そんな感じだ。
根を張るのには勇気がいるし、諦めにも似た腹のくくり方がいる。定住はすこしだけ、「諦住」だ。それは悪くない感じだ。悪くない響きの諦め方だ。
どこかわからないだだ広い海の上で、錨を下ろすのには、勇気がいる。それは船を進め続けることよりも、もしかすると、時に勇気がいるかもしれないと思う。だけど、下ろさなくてもいい。浮かんでいてもいい。いつかは下ろすのだけど、だからもう少しだけ漂っていても良いんじゃないか。
そんな狭間の時間、日々のことを、『Golden Days』と呼んでいるのではないか。
僕はそんなふうに感じた。


永遠にその場所に変わらないままにいられるのならば、もうそれを「幸せ」と名付けて安心してもいいのだろう。遊牧民からすれば願ってもない話かもしれない。
だけど、もしそんな永続的な「幸せ」が存在するならば、その瞬間に穴が空いた風船のようにみるみるしぼんで、言葉としての意味をなさなくなるだろう。永遠と幸せとは、そんなふうに、ナンセンスな組み合わせだ。

どんな場所も、幸せも、人間も、風化していくし、歳をとる。変わっていくことに、不安を感じるのは、本能めいたところがある。けれども、臆病さに垂直に向き合い、その不安に足をかけてぐっと宙に立てば、景色はそれまでよりもずっと遠くまで見渡せるようになるだろう。
その時、不思議なことに、変わることから逃れられないはずの世界が、ゆっくりとスローモーションに進行しているように、見えるはずだろう。
そういう情景を歌っているように、僕には思われるのだ。


もう三月になった。電車に乗りながら、季節を感じることが多い。窓の外を流れていく多摩川の河川敷の芝は、すでにほんのり青々として、草の匂いを僕に思い出させる。そういうとき、ふと思うことがある。
もし、等速で走り続ける列車の中で生まれた子どもがいたとして、彼らは窓の外を流れ続ける世界を眺めながら、実は窓の外の世界が静止していて、実は自分の電車の中の世界の方が逆方向に動き続けているだなんて、想像だにしないだろう、と。
それに気づいた時、彼らは自由を得るだろう。スローモーションの世界の中で解き放たれる、そんな感じになるんじゃないか、と。

いつか、僕が、どこかに定住することになったら、このことを思い出したいと思っている。僕たちは止まっているようで、動いている。世界が動くならば、それは僕たちが動き続けていることと同義なのだ。
そう感じたとき、僕たちは自由になるだろう、と思う。スローモーションの中で、僕たちは自由に動き回れるようになるだろう。
そんな日々の中で、青々とした野菜を食べ、あたたかい布団で眠り、太陽の運行に従って生きていられたら、それは素晴らしい日々だろうと思う。解放の中に居続けられるだろう。

そんな「定住観」のことを『Golden Days』は教えてくれた。
彼らの歌詞が、これから別の曲でも日本語のまるみや緩やかさをもって、また何かを僕にもたらしてくれるのだろうという予感がある。
それを今から楽しみにしている。

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