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「無心・自然法爾・おのずから」から見えてくる日本文化の特殊性

本稿では、先に上げた大野晋先生の「日本語の年輪」に関する論考https://note.com/nihonos2020/n/nb895b6503e08の、『敬語には「日本人の自然や神への畏怖の気持ち」が今も痕跡を残している』以降の内容を前提として
・「無心・自然法爾・おのずから」この三つの概念-言葉の関係を見ることで
・日本的な「無心の境地」の特殊性が見えてくること
を示します。

これは多くの人には「言わずもがな」の内容かも知れませんが、敢えて論拠らしきものを積み上げて言葉で説明してみました。

●「無心」「自然法爾」「おのずから」について
最初にこの三つの言葉がどのように日本文化で使われているか見てみます。
西田幾多郎先生は著書「日本文化の問題」で、日本文化の特色を以下のように記されています。
『私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向に於て、何処までも自己自身を否定して物となる、物となつて見、物となつて行ふと云ふにあるのではないかと思ふ。己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。』
「無心」「自然法爾」は『己を空うして物を見る、自己が物の中に没する』ことに近く、それは『日本人の強い憧憬の境地である』と記されています。

鈴木大拙先生は著書「無心ということ」で、親鸞の「自然法爾」に関する記述(「末燈鈔」に記載)を引用されつつ以下のように記されています。

『「自然といふは自は、自(おのづから)といふことで、行者の計らひにあらず。」
―無量禱經を読んでみても、處々に自然、自然といふことが出て来る。自分を標準にした計較分別でないといふことなのです。
「然といふは、然らしむといふことばなり。」
―卽ち自分の分別で測度したことでなくして、向うから、調はゆる客観的に、或は絕對的にさうなつて来るんだと云ふことです。』

親鸞は「自然」(じねん)を「おのづから・然らしむ」と説明しています。
鈴木先生は、自+然の自然(じねん)を「自分を標準にした計較分別でない」「自分の分別で測度したことでなくして」と記され、親鸞はこれに続く箇所で「然らしむといふは、行者の計らひにあらず」と説明しています。
親鸞-鈴木先生の説かれる「自分を標準にしない、自分の分別で測度しない、計らいを否定すること」は、現代の私たちの使う言葉の「無心」の意に近いと思われます。  

ちなみに現代日本の辞書に載っている「自然法爾」の意味ですが、例えば精選版 日本国語大辞典で「自然法爾」の項目を見ると

『〘名〙 (「自然」はおのずからそうであること、そうなっていること。「法爾」はそれ自身の法則で、そのようになっていること) 仏語。真宗で、自力をすてて如来の絶対他力につつまれ、まかせきった境界をいう。』

と記されています。本稿では西田先生、鈴木先生の記述を踏まえて
・「無心」と「自然法爾」と「おのずから」は日本人の認識の中で近い概念
・「無心」とは「自分を標準にしない・自分の分別で測度しない・計らいを否定する」状態
・「自然法爾」とは「おのずからそのようになっている」ものに「まかせきった」境界
と仮定させていただき、先に進めさせていただきます。 

●「おのずから」は自然への敬意-信仰に近い言葉
さて、先に上げた大野晋先生の「日本語の年輪」に関する論考の『敬語には「日本人の自然や神への畏怖の気持ち」が今も痕跡を残している』以降の内容 https://note.com/nihonos2020/n/nb895b6503e08を再掲します。
大野晋先生の「日本語の年輪」では敬語の「お着きになる」の「なる」を例に挙げられ 
『「なる」というのは、「木の実がなる」、「寒くなる」という例でわかるように、自然にものが移って行って、ある状態に至ること。「木の実がなる」というのも、自然に、木が実を結ぶことをいう。すると、「お着きになる」とは、「着く」状態に敬意をこめて言った「お着き」という言葉と、その「お着き」という状態に自然に「なる」と表現したのが、そのもとの意味であるということになる。』と説明されています。

似た敬語である「なさる」も「日本語の年輪」では説明されています。
「なさる」は「なす」に「る」がついたものなのですが
 
『「なさる」となった場合には、「つとめてするという状態に自然になる」という意味である。「お着きなさる」、「お着きになる」とは、いずれも自然の力で、自然にそうなるというのが原義で、この言い方は、昔は「着かる」とか「見る」とか、「る」「らる」という言葉を使って表わされた。』と説明されています。
 
このような「自然になる」ような表現が日本語では敬語になるのですが、
その理由について「日本語の年輪」では
  
『だいたい日本人の尊敬の意識は、自然に対する恐怖、畏怖にはじまり、神や天皇に対する畏敬に移り、人間に対する尊敬の念に発展した・・・。畏怖は大自然の暴風雨・地震などに対するものが、その最大のものであったろう。日本人は、その自然を、人間の力で左右しようなどとは考えず、ひたすらその自然の威力、霊力の前にかしこまった。それほど「おそれ多いもの」と考えていた。』
『「自然」のすることは、人間がもっぱら服従すべきものである。それゆえ、自分が今畏敬している人の行為を表現するには、その人の動作が、あたかも「自然」のするがごとくであるといえば、自分の服従の意志、畏敬の念を表現するに適切であった。また「自然」に出来上ったものであると表現することは、自分の意志が何も介入していないことを示すのであり、それは相手の意志のままであることを裏から表明しているわけで、これもまた、相手の行為を高く評価していることになる。それゆえ、自然に成立する意味をもつ「る」「らる」を添えることが尊敬の表現となる。』 

※上記引用の中の「自然」には「自然(じねん)」と、天地や神羅万象等の意味の「自然」の二つが混在しているのですが、文脈に沿って読めば混乱のおそれはないと判断しそのまま引用させていただきました。

ここで「おのずから」は「自然になる」とほぼ同じ意味であるのは明らかでしょう。そして
「おのずから」「自然法爾」の境地を憧憬する背景には『自然に対する恐怖、畏怖』があり『その自然を、人間の力で左右しようなどとは考えず』『「おそれ多いもの」』『人間がもっぱら服従すべきもの』と考える、つまり「自然」という神霊に対する信仰が働いていると考えると辻褄が合うのではないでしょうか。
また
『「自然」に出来上ったものであると表現することは、自分の意志が何も介入していないことを示すのであり、それは相手の意志のままであることを裏から表明しているわけで、これもまた、相手の行為を高く評価していることになる』
とありますが、この態度は親鸞-鈴木先生の説かれる『自分を標準にしない・自分の分別で測度しない・計らいを否定すること』、つまり『無心であること』に非常に近いでしょう。
「おのずから-無心-自然法爾」を憧憬する精神は、自然への敬意、より正確には自然への信仰を持つ精神 のように思われるのです。  

日本的な「無心の境地」の特殊性
現代日本の辞書に載っている、仏教用語に近い文脈での「無心」の意味を確認してみます。精選版 日本国語大辞典で「無心」の項目を見ると以下の項目が該当すると思われます。
『[二] 心中に何もとらわれた心がないこと。
① 仏語。固定的なとらわれがなくなった状態。凡夫の一切の妄念がとりはらわれた心。虚心。無念無想。⇔有心。
※正法眼蔵(1231‐53)三界唯心「心これ拈華破顔なり。有心あり、無心あり」
② 仏語。一切は空であると観ずる心。
※学道用心集(1234頃)「仏法以二有心一不レ可レ得。以二無心一不レ可レ得」
③ (形動) 心に何のわだかまりもなく素直であること。自然のままに虚心であるさま。』

とあります。
デジタル大辞泉の「無心」の項目では以下の項目が該当すると思われます。
『3 仏語。 ㋐心の働きが休止していること。 ㋑一切の妄念を離れた心。⇔有心(うしん)。』

これと比べて、本稿での文脈における「無心」、「おのずから」「自然法爾」と近い文脈における「無心」はどうでしょうか。
・辞書にある「心中に何もとらわれた心がない」「一切は空であると観ずる心」「心に何のわだかまりもなく素直であること。自然のままに虚心である」「心の働きが休止している」「一切の妄念を離れた心」・・・の意味と合致する部分も多いと思われますが、それに加えて
「おのずからそのようになっている」ものに「まかせきった」境界自然への敬意-自然への信仰を持つ精神 の在り様が「無心」に近いのです。

日本人の意識の底には、言わば「オノズカラの神」(自然そのものの神)への信仰が強く深くあるのです。
日本人が仏教的な「無心の境地」(辞書にあるとおりの「無心」の状態)に至ると、意識の底からこの「オノズカラの神」が「自然-おのずからを讃えよ、自然-おのずからにすべて身をまかせよ」と私たちに働きかけるのです。
私たちは、意識-無意識にこの呼びかけを感知し、喜びに満ちて「おのずから」を称揚し「おのずから」の働きに身をまかせ安心立命してしまう一面があるのではないでしょうか。

私たちは意識の上ではこのような信仰の自覚はありません。
一方で(西田先生の書かれたように)「無心」「自然法爾」「まかせきる」ことを強く憧憬している心性をいまでも持っている部分があると思います。
そしてその根底には『自然に対する恐怖、畏怖』があり『その自然を、人間の力で左右しようなどとは考えず』『「おそれ多いもの」』『人間がもっぱら服従すべきもの』と考える、
つまり「自然」という神霊に対する信仰が働いていると思われるのですが、
私たちはそのことに無自覚
なのではないでしょうか。 

現代の私たちは「無心の境地」と言われれば、
意識の上では上記の辞書的な「心中に何もとらわれた心がない」等の内容を想起します。
しかし、無意識も含む心の全体としては「おのずからそのようになっている」ものに「まかせきった」境界自然への敬意-自然への信仰を持つ精神の在り様を示している部分があるのです。

今の日本でも「無心・おのずから・自然法爾」的心性は多々見られます。
私たちは「この会社に就職することに決めました」と言わずに「この会社に就職することになりました」と言ったりします。「このような計画を私が立案いたしました」と言わずに「このような計画になりました」と言ったりします。
「日本語の年輪」にあった「なる」言葉は今でも多々使われており、日本人の集団、社会生活に「無心・おのずから・自然法爾」的な心性は強く影響力を行使していると思われるのですが、私たちはそれに無自覚なように思われるのです。

●無心の境地から広がる沃野
唐木順三先生の「日本人の心の歴史」から以下引用させていただきます。
唐木先生は、良寛の五合庵の静かな暮らし-落ち葉のかすかな音や暮鐘や遠渓の流水の音を聞く暮らし、その中で喜々として在る良寛を描写された後に以下のように記されています。
『p35私が良寛をもちだすことによつて特にここで言ひたいことは、究極処、寂寥境が案外に、声も色もある世界、リズムをもつた世界だといふことである。根源に参じて我執を離れた透脱境は、柳緑花紅、山高水長の、あたりまへの眼前触目の境だといふことである。ただ柳はいよいよ緑、花はいよいよ紅、蟬はいよいよ蟬を鳴き、山はいよいよ山であるといふだけのことである。  
このことは、たとへば西欧の哲学が、我とは何かを追尋しまた追尋して、「コギト」に達したり、根源存在は何か、第一存在は何かを究めて、或ひはイデア、或ひは物質、或ひは一、或ひは多、また時間や空間、力や生起といふ、無色無記透明なものに達したりしてゐることと比較して、中国の禅や日本の心情のひとつの特性を示してみるといへよう。 
究極処はたとへば寒山においては「尋究無源水 源窮水不窮」となる。水源を探求追尋して、その源に到りえたが、水は相も変らず潺々と音をたてて湧き来り流れ去ってゐるといふのである。そして良寛はまた究極処において、任運騰々、遊戯三昧である。
  風は清し月はさやけしいざともに踊りあかさん老の名ごりに
  かたみとて何か残さん春は花山時鳥秋はもみぢ葉
  時鳥なが鳴く声をなつかしみ此の日暮しつ其の山のべに』

無心の境地を究めた先には、緑の沃野が広がるーこれは日本人のみならず、中国の禅にも見られるようです。
無心の境地を究めた究極処、寂寥境においては
「おのずからそのようになっている」ものに「まかせきった」境界自然への敬意-自然への信仰を持つ精神 が喚起され
『柳はいよいよ緑、花はいよいよ紅、蟬はいよいよ蟬を鳴き、山はいよいよ山である』、自然なる神への賛美と感謝が喚起されるのでしょう。 

「死んだら無に還る」-日本人の場合は
「無心」-「無」の究極の先には「死」があるのではないでしょうか。
「死んだら無に還る」という言葉があります。魂も意識も残らない、天国も地獄もない、という意味で言っているのだと思います。
しかし日本人の場合-「無心・おのずから・自然法爾」的な心性を豊かに持っている人の場合は、「無に還る」と言いつつもその心の深く底には「まかせきった」境界、自然への敬意-自然への信仰を持つ精神、自然なる神への賛美と感謝が通奏低音のように流れていて、
「死んだら無に還る」と言いつつ、何か大いなるものに護られているような不思議な安心のもとにある場合があるのではないかと思われるのです。

日本文化の中のこれまで挙げたような精神の伝統のもとでは 
「無心」「死んだら無に還る」という言葉は、文字通りの意味とは異なっている場合があると思われます。
「無心」という言葉の底には大いなる自然の働きを感じそれに己をまかせきる信仰がひそんでおり、
「死んだら無に還る」とさらりと語る言葉の底には、「無」ではない、大いなる自然の中に自分が受け入れられるような信仰がひそんでいる。
そのような場合があると思われるのです。

これらは、多くの人には「言わずもがな」の内容かも知れませんが、論拠らしきものを積み上げて具体的に言葉で説明してみたものです。

以上

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