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今更聞けない!アジアを変えた日本海海戦の戦い。
日露戦争
日本だけでなくアジアの近代発展の火ぶたを切られた、世界史のうちで重要な戦争です。
なのに、今の日本人は昔の日本は悪いことしかしてないと考えがちですが、昔の日本は植民地状態にあったアジアを解放したんです。 ではそのアジア解放の発端となった日露戦争とはどのような戦争だったか。 日本海海戦とその後の日本と世界について書いています。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48558074/picture_pc_b4ae5fbff8ab5bed3ed4ec3000b20210.jpg)
1905年5月27日に日本の「信濃丸」がバルチック艦隊を発見し、「敵艦見ユ」と送ります。
この情報を受け日本の連合艦隊は対馬海峡にて、ロシアのバルチック艦隊と5月27日と5月28日の2日間にかけ対決することとなります。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48558098/picture_pc_c71654530d555c27ea83b6d5ed2fbff3.jpg)
1905年5月27日、日本
東郷平八郎が「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ擊滅セントス。本日天氣晴朗ナレドモ浪髙シ」とうち、開戦に臨みます。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48558133/picture_pc_f28213af15f3922b51db553c40a2a472.jpg)
と 東郷平八郎
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48558328/picture_pc_c3d6f55d65347d530a5629c9d6797160.jpg)
この時日本の艦隊にはz旗を掲げて旅立ちました。 z、即ち後がないということです。
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48558409/picture_pc_a2c7d2b8769b4c610b153143c3dddbf0.png)
5月27日、バルチック艦隊の司令長官であるロジェストヴェンスキーは対馬海峡を渡るか悩んでいましたが、濃霧が発生したため対馬海峡を通ると決意しました。
これがかえって逆効果となるんですが。
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48558538/picture_pc_0fe171a51432cb5f5a37a96754895078.jpg)
日本側にとっては濃霧は非常に困る、と思いきや。
逆に快晴だと湾に隠れている味方が発見されやすいので、日本にとっては薄霧が理想でした。
すると天が味方したのか薄霧になってきます。
そして、日本艦隊が霧を利用しバルチック艦隊に近づきました。
そうなると戦うには霧が邪魔でした。
するとまた天が味方したのか、晴れてきます。
こうして日本側は運により有利な状況を作り上げてきました。
いよいよ艦隊同士の戦いです。
戦力差
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日本 戦艦4隻
装甲巡洋艦8隻
巡洋艦15隻
他全108隻
![ダウンロード (2)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48561714/picture_pc_4787698620b84b26eb30d326621a6085.png)
ロシア 戦艦8隻
海防戦艦3隻
装甲巡洋艦3隻
巡洋艦6隻
他全38隻
最初の陣形はこうでした
![画像7](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48559522/picture_pc_5c1ecfdcab5aed9d34733aca6ad68877.png?width=1200)
赤線・・・日本艦隊の進路 紫戦・・・バルッチック艦隊の進路
日本艦隊は北西に進路を取っていたんですが(1)、バルチック艦隊と遭遇(2)し少し距離を置きます。 しかし、とった後少しずつバルチック艦隊に近づいていきました。
側近「司令長官、あともう少しでバルッチック艦隊の砲撃範囲です」
東郷平八郎「まだまだ、もっと近づけ」
側近「100m、50m、10m、0m・・・バルッチック艦隊の砲撃範囲に入りました!」
東郷平八郎「よし、動け!」
と、バルチック艦隊の砲撃範囲に入ったところで150度回転します。 これがあの有名な東郷ターンです。 この直後、バルチック艦隊の司令長官は「我、勝てり!東郷狂せり!」と勝ち確定と判断します。(艦隊の回転中は砲撃できなく敵は打ち放題となります。)
意味もなく回転したわけではありません。 球を打ち切った後、こちらの攻撃で相手を壊滅する。肉を切って骨を断つでした。
![画像8](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48561353/picture_pc_726f377ae01edb8ece957098a5b146d4.png?width=1200)
東郷平八郎は大きく回転し(1)、バルッチック艦隊に打たれまくりました(2)。それは船体が傾くほどで沈みかけましたが、何とかこれを耐え反撃に出ます。
![画像11](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48562150/picture_pc_6cf3f2a7be7e544ed9efeb1ef75be4f1.png?width=1200)
日本艦隊は何とかこれを耐えきり、ロシアのバルチック艦隊に球を打ち、攻撃します。 艦隊の中で唯一速さが上回っていたので、それを生かし雨あられと降り注ぎます。
バルチック艦隊は日本艦隊からの攻撃を打たれ(1)、21隻が沈没、6隻が拿捕、5000人が戦死、もしくは負傷しました。(残った船は巡洋艦1隻、駆逐艦2隻でした)
損害
![画像12](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48562629/picture_pc_7ee122a0e82d2e9bff379e87f4f03d9f.jpg)
日本艦隊
水雷艇3隻沈没
戦死117名
戦傷583名
![画像13](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48562663/picture_pc_41882db189b9b3c82d52af87f4224492.jpg)
バルッチック艦隊
21隻沈没
被拿捕6隻
中立国抑留6隻
戦死4,830名
捕虜6,106名
圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、30分で終了し、この大戦果。
今回の海戦がによりニコライ2世は諦め、ポーツマス条約にこぎつけることが出来ました。
日本海海戦は日本側の大勝利という結末で終了しました。
その後の日本とアジア
この敗戦を聞きニコライ2世は諦めポーツマス条約は結ばれました。
![画像14](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48563847/picture_pc_345e5a133b9d8ed02738ab9798a513c6.jpg)
内容 ・韓国の承認 ・満州鉄道の権利 ・樺太50度線以北の割譲 ・沿海州の漁業権の返還 ・旅順・大連を含む遼東半島南端部の返還 ・ロシアの満州からの撤退
ここまではよかったんですが、賠償金がゼロという痛手。 これにより日本国民の怒りは爆発、日比谷焼打事件に続きます。
![画像15](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48563898/picture_pc_ddd814adbcbe895ec5ea4c95c8285d0c.jpg)
さらに、賠償金がとてないことはかなりの痛手となり、昭和大不況につながり満州進出、太平洋戦争へつながっていきます。
日本にとっては泣きっ面に蜂・・ しかし、世界では劇的な変化が見られました。 今まで、独立運動したものの失敗、失敗。そのうちにこう考えてしまします。 アジア植民地「もしかした我々は本当に劣等民族かも・・・。我々が彼らに勝つことなど無理なのだ。」
しかし、今回の西洋列強国が初めて敗れた報を聞き、 アジア植民地「すごい、あの列強に勝ったのか。我々はやり方が間違っていたのだ。」
アジア植民地「日本を見習え、我々は独立するぞ!」 とその後の独立運動になっていきます。 そして、アジアで近代化が進んでいくことになるんです。
![画像16](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48564533/picture_pc_a811e1f4fabd876787e2d98864091039.jpg)
そう独立の主因だった孫文、ガンディー、は日本に育てられていきます。
このように昔の日本はメディアで徹底的に悪の帝国に位置付けられていますが、真実を見ればアジア解放の光だったのです。 なのに、日本人なのに日本が嫌い、という日本人がいます。 しかし、ここまで読んでくれた皆さんは昔の日本はどうだったのか、もう分かっていただけましたよね。 この事実を胸に日本を愛してください。
この記事の引用元:世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった(作者 神野正史) 発行:ベレ出版 http://sekaisi.com/
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