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「教育」という名の「調教」

    昨日、かなり衝撃的な記事、そして調査を目にしたので、今回はその問題について書いてみたい。

 上の記事はこうツイートしたような内容だったのだが、この記事が紹介している、OECD48カ国・地域の小中学校段階の教員を対象に行った『国際教員指導環境調査査(TALIS)2018』という調査。実際に詳しく見てみると、本当に驚愕するような内容であり、日本の教育の異常さ・異様さが見事に浮き彫りになっているのだ。

 紹介してきたような「批判的に考える必要がある課題を与える」、「明らかな解決法が存在しない課題を提示する」という、子ども自身が自分の頭で考え、自ら答えを導きだすようにしようという指導が、教育で重要なのは言うまでもない。
事実、グーグルやマイクロソフトなどの企業では、こういう入社問題を出して、就職希望者の知識ではなく、発想力や思考力そのものを問うというのは常識になりつつある。

 そういう「教育」を他の国に比べて日本の先生が全くしないという信じがたい現実がある一方、この「OECD国際教員指導環境調査」の報告書をつくった文科省がそれこそ冒頭で胸を張っている調査結果もある。

 これが【学級の規律と学習の雰囲気】という調査項目で、日本の学校は諸外国と違って、授業を始める前や、授業中に子どもが騒いだりするような事がなく、学級の規律がよく守られている、と文科省は自慢しているのだ。

……これは本当に「教育」なのか。

 私のツイートに対してこういうメンションを頂いたが、正にその通り。これは自分の頭で考え、学び、問題を解決する能力を培っていく「教育」ではなく、ただ教師など上の命令に従い、規律を守るだけの人間をつくる「調教」なのではないのだろうか。

 ただ、これは単に子どもを教える教師が悪い、という問題ではない。

 冒頭の記事中でも紹介していた日経新聞の記事によれば、教師を目指す学生が大学の教職課程で学んでいる間に、どんな意識を形成していくのかを調べたところ、卒業に近づくほど授業技術のウェイトが増し、政治や社会への広い関心、友人や社会との繋がりを議論するような傾向が減少したというのだ。

 つまり、日本の大学そのものが現実を批判的に捉えて独創的に工夫して子どもを教育する教師を育てるのではなく、決められた内容を堅実に子どもたちに教え込める教師、謂わば「教師」ではなく「調教師」を育てているということ。
そして、これは上の文科省の自慢でも判るように、大学の方針というよりも、文科省や政府、この国の方針と考えざるを得ないだろう。

 今の日本の問題点の多くは「思考停止」「権威・権力への盲従」、逆に「弱者への差別・いじめ」などといった、全体主義に繋がる「権威主義的パーソテリティ」という社会的性格で説明可能なのだが、それもその筈。75年も前の敗戦で大日本帝国という全体主義国家は滅んだ筈なのに、実際には今もその大日本帝国の全体主義教育をこの国はしているし、あってはならない事だが、私たち国民はそんな教育を受けているのだ。

 最後にもう一つだけ、つけ加えれば、

 この「民族に対する固定観念を減らす」、「移民の背景を持つ生徒と共に活躍出来るようにする」、「文化的な多様性に適応させる」といった、人種や国籍による差別や偏見をなくす教育もこの国では全く行われていない事実にも嘆くしかないのだが…。

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