「岩」と名づけられた男の話
私はキリスト教徒ではありませんが、イエスのことは尊敬していますし、またその尊敬心を脇に置いてもなお、イエスの物語には圧倒的な力がある、と私は感じています。
そんなところで、数ある新約聖書の物語から一つ取り上げて今回の記事の起点としたいと思います。それは以下の一節です。
この一節で述べられているイエスの奇跡は、マタイ、マルコ、ヨハネの福音書にその記述があります。しかし、後半のペトロの挿話についてはマタイによる福音書にしかありません。
鑑みるに「信仰の薄い者よ」という言い回しはマタイ独特のものであり、信者としての生き方を重要視していたマタイは、信仰の有り様について、信徒たちが理解しやすいようにこの寓話を挿入したんだろうと思います。信仰を疑う者は自らの疑念に溺れてしまうのです。
さて、この「水の上を歩く奇跡」は、イエス・キリストの神性を示す逸話として語られます。また嵐を怖がり、自分が水の上を歩けると信じることができなかったペトロは溺れかけてしまいますが、イエスはすぐに彼に助けの手を差しのべます。たとえ信仰に躓いたとしても、助けを求めれば、慈悲深い神は助けてくださるのだ、と解釈することもできそうです。そうなるとペトロは私たちの姿であり、この寓話のために人々を代表して水に沈むという憂き目にあったのでした。
そして今回、私がこの話の主人公として取り上げたいのは他でもないこのペトロという弟子についてなのです。ガリラヤのシモン、ケファ、イエスにペトロ(岩)と名付けられたこの男は、弟子たちの中で誰よりも情熱的な男でした。彼はイエスの最初の弟子の一人であり、弟子たちの代表をイエスに任じられた男でもあります。
なぜペトロが「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言ったのか、なぜ舟を降りたのか、その時のペトロの心情についてマタイは何も語っていません。だからこそどう解釈するかは、読者に委ねられています。
私が初めてこの箇所を読んだとき、ペトロという人の性格がよく分かっていなかったので、彼は好奇心や傲慢に似た感情から舟を降りたのだと思いました。「それなら私にもできそうだ」と思ったのでしょう。私のこの思い込みは、直後にペトロが失敗し、溺れかけてしまうことによって、より強められます。いわば他愛もない滑稽譚のように解釈したのです。しかも、ペトロ(岩)なのですから、水に沈んで当然のように思えます。彼は自分に与えられた名前が示す比喩的な性質に従ったまでです。
ペトロは感情的な男であり、それが原因で失態を演じてしまうこともあります。彼はイエスが捕まりそうになったとき、大祭司の手下であったマルコスの耳を剣で切り落とすという暴挙に出ます。たぶんユダの裏切りに怒ったのでしょう。このとき、イエスは成り行きに静かに身をまかせ、あろうことか自分を捕まえに来たマルコスの耳を癒しさえします。ここでらイエスとペトロの行動は実に対極的に描かれています。
ですから、なおさらこの道化の役割、弟子たちの失敗を代表して行う役は、彼にぴったりのように思えます。裏切り者のユダや賢いルカにこのような役目は負わせられません。
ペトロは他の弟子たちと同様、はじめはイエス・キリストが何者であるか理解できていませんでした。イエスが嵐を静める奇跡を行ったとき、弟子たちはこんなことを言います。
しかし、聖書にはイエスの正体を一目で見抜いてしまう存在がいます。それは意外にも、イエスの旅先で度々姿を現す悪霊たちなのです。
というわけで、イエスの悪魔祓いの場面を二つ見てみましょう。彼は多くの怪我人や病人を癒しますが、それと同じくらい人に取り憑いた悪魔や邪悪な霊を追い払います。イエスは、カファルナウムの会堂で汚れた霊に取り憑かれた男に出会うのですが、その男はイエスを見た瞬間こう言います。
もう一つの例は、ドストエフスキーに霊感を与えたルカ福音書の有名な場面です。ゲラサ人の地方についたイエス一行は一人の男に出会います。その男は衣服を身につけず、墓場を住まいとし、長いあいだ悪霊に取り憑かれていたために、足枷を嵌められ、鎖に繋がれて監視されている。彼はイエスを見ると、このように叫びます。
このように、悪霊のような邪悪な存在は、瞬時に、イエスの正体を看破してしまうのです。なぜ彼らにはイエスが神の子であると分かるのか。それはたぶん、彼らが罪悪の側に立っているからでしょう。暗いところに長い間とどまれば光を眩しく感じるように、罪悪はその鮮烈なコントラストによって、イエス・キリストの神性をより強調するのではないでしょうか。
それならば弟子たちがイエスの神性を見抜けなかったのにも理由がつきます。彼らはいまだ無垢であり、自らに深い内省を促すような罪悪というものが欠けていたのです。
ペトロもまたそのような弟子の一人でした。彼はイエスのことを心の底から尊敬していたでしょうが、イエスが神の子であるという確信はなかなか持てなかったのではと思います。
実際のイエスは奇跡を起こしたりはしなかったでしょうから尚更です。人は何かについて確信したいとき、分かりやすい「しるし」を欲しがる。新約聖書で語られている超自然的な奇跡の数々は、実際に起きたことと言うより、あくまで福音書記者の想像の産物と見る方が現実的でしょう。分かりやすい「しるし」は、多くの信者を獲得するために必要なことです。
イエスが行った本当の奇跡は、諸々の超能力ではなく、弱き者、虐げられている人々に寄り添い、たとえ自分の肉体が滅ぼされようとも、彼らを愛し続けたことでした。こうした無条件の愛はイエスの教えの本質なのですが、一見したところではこれの何が奇跡なのか、よく分からないかもしれませんし、イエスの偉大さが見えてこない。
実際、弟子たちがイエスの愛を十全に感得できたのは、彼らがイエスを見捨て、十字架にかかった後のことでした。自分たちを愛してくれたイエスを見捨てたという罪悪が弟子たちに重くのしかかったからです。
そしてペトロには他の弟子たちとは違う事情がありました。というのも彼は、自身がイエスを裏切ることを予言という形で宣告されていたのです。
イエスは最後の晩餐のとき、ペトロに対して「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予言します。しかし、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなったとしても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い放ちます。
果たせるかな、イエスの予言は例によって的中してしまいます。ユダの裏切りによりイエスはゲッセマネで捕らえられ、弟子たちはイエスを見捨てて鼠のように逃げさっていきます。
イエスが捕らえられたあと怖くなったペトロは素知らぬふりをして薄暗い中庭に腰をおろしていました。すると、彼に目を留めた女中が、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言います。
焦ったペトロはそれを否定し、その場を立ち去ろうとして門の方へ行くのですが、それを見た別の女中がこう咎めます。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」。ペトロはこれも否定します。すると周りの人々が集まってきて、口々に「確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉づかいでそれが分かる」と詰め寄ります。
やがて追いつめられたペトロはイエスを呪う言葉さえ口にし、「そんな人は知らない」とうそぶきます。そして、彼がその三度目の「知らない」という言葉を口にした瞬間、遠くの方で鶏の鳴く声が聞こえてくるのです。ペトロは主の予言を思い出し、崩れ落ちて咽び泣きます。これもまた、ペトロが激しい感情を顕にする場面です。
その後もペトロは、イエスの磔刑に居合わせるという責務を果たすことができず、これらの罪悪は彼に重くのしかかり続けました。そしてイエスが復活した後も、この夜の裏切りは彼にとっての心残りであり続けます。復活後のイエスはペトロと会っても、彼の裏切りについて咎めることも赦すこともしなかったからです。ペトロには救いが必要でした。
そして、ヨハネの福音書21章でペトロはついに救済を得ます。イエスが復活してから弟子たちの前に姿を現すのは、これで三度目でした。
多くの読者は、この章でペトロが本当に情熱的な男であることを確信します。ヨハネがイエスに気がつき、「主だ」と言うが早いか、ペトロは上半身が裸だったので急いで最低限の身なりを整え、湖に飛び込んで、誰よりも早く一目散にイエスの元に向かうのです。
ここには最初に挙げた「水の上を歩く奇跡」との比較を見出すことができそうです。マタイ14章の方での時刻は夜が明けるころ、空はまだ暗い、しかも強い風が吹き、湖は荒れている。そしてイエスは水の上に立っている。一方、ヨハネ21章の方はというと、夜は既に明けていて、早朝の白い光が辺りに漂っている。湖は静まっていて、イエスは岸辺に立っている。ここにペトロ個人の信仰の夜明けを見るのは、私だけではないと思います。
思えば「舟を降りる」という行為もかなり示唆的です。舟の上はこの宇宙で唯一の安全地帯であり、弟子の中でペトロだけが、その安全地帯を捨て、真理であるところのイエスに向かって歩み始めます。マタイ14章では、ペトロもおそるおそるといった様子でしたが、ヨハネ21章での様子は全く違う。彼は水に飛び込んでいき、泳いで愛する師のもとに向かうのです。
このあと、ペトロとイエスによる息を呑むような驚くべき対話が続きます。
ペトロは救いを必要としていました。イエスは「私を愛しているか」と三回尋ねますが、それはペトロの裏切りの回数に対応しています。この対話は、ペトロを救済するための問答だからです。イエスの否定が三回あったように、彼に「愛しています」と三回言わせることによって、ペトロは自分が完全に贖われたことを知ります。
先述した哀れな悪霊たち同様、いまやペトロには、イエスが神の子であることがはっきりと分かります。それはイエスが「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と言った通りです。ペトロはもはや自分でやりたいと思うことができない。しかし、それは全く消極的なことではありません。むしろ彼は聖霊に満たされており、彼が成すこと全ては聖霊の導きによるものであるということ、神の心に適うものであることを意味します。そしてイエスは、ペトロに「私の羊を買いなさい」つまり、イエスの信徒たちの面倒を見るように命じます。カトリックの伝統において、イエスから天国の鍵を受け取ったペトロは初代教皇ということになっていますが、この対話はその証の一つになっています。ペトロはイエスが語ったように、教会を支える岩となったのでした。
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