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愛国主義とナショナリズム

通常、愛国主義とナショナリズムは区別されて考えられるが、ときには両者が混同される場合もある。どちらも自国に対する愛着という点では共通しているからだ。この両者の違いを端的に言うなら、前者は消極的であり、後者は積極的であるということである。

愛国主義者は自国の生活様式や民族の精神性を愛しているし、世界で一番良いものだと考えているかもしれないが、それを自国に住む他民族や他の国にまで押しつけようなどとは考えない。一方ナショナリズムは自国の生活様式や民族の精神性を愛しているのに加えて「最も優れている」と考えはじめ、結果として、傲岸で分別を知らぬ人間と同じように主義主張をおしつけ、自国の文化と同化するよう強制する。最悪の場合それは力ずくで行われ、隷属という形をとる。

愛国主義とナショナリズムの両者において最も重要な違いはその主義を持つにいたる動機だ。愛国主義は自国の生活様式や国民性を愛していることは先にも書いたが、その根本には子供時代の優しい思い出があると思う。つまり、自分が生まれ育った土地や、周りに生きている人々が思いやりに満ちたものであったからこそ祖国が好きになり、守りたいと思うのだ。もちろん、自国の精神性、文化、言葉、歴史を学ぶことで他国とは違う魅力を感じたために好きになることもあるだろうが、それはほとんど後付けの理由にすぎないだろう。

ナショナリズムの場合、愛国主義のような現実具体の情感がこもった動機ではなく、プライドや威信に強く依存しているのだが、これは他者にたいして優越感を得たいという浅ましい本能に由来している。他者を排斥し、低い地位において支配することで「自分は他のものとは違うのだ」という一種の不道徳な快感を浴びるために孤立を選ぶことが多い。ドナルド・トランプ元大統領の「アメリカ・ファースト」などがその典型だろう。

だがナショナリズムが脈打つ心臓の最奥には、もっと曖昧とした未知に対する本能的な恐怖があり、洞窟の隅の暗がりでぶるぶると震えている臆病な小鬼がいるように見える。なぜなら、ナショナリズムには真の想像力がまったく欠けているからだ。ナショナリズムが行きつく先であるところの「ウルトラナショナリズム」の本質が外国人嫌悪であることがその証拠である。たいていの場合、恐怖というのは対象にたいして無知であることから生まれる。

この外国人への無知を解消するものは何なのか、それは新聞でもなければ、旅行のパンフレットでもなく、しかつめらしい統計のグラフでもなければ、直接会話することですらない。意外にもそれは文学なのである。が、それを考え始めると本題から逸れてしまうので、このことは次の機会にまわそうと思う。

話を戻すと、ナショナリズムの分かりやすい顕現が外国人嫌悪である以上、最終的にこの不埒な思想が成し遂げようとするのは外国人を排除することである。それはいくつかの方法によって為されるが、代表的なのは同化政策と民族浄化だ。この施策は人間をシモーヌ・ヴェイユが言うところの「根こぎ」の状態に陥らせる最もおぞましい犯罪行為に分類される。ひとつの文化や言語、そして故郷というべきものが人間の手によって死に絶えるのである。

もうひとつナショナリストには注目すべき重大な特徴がある。それはこの思想が非常に尻軽であるということである。ナショナリズムという言葉自体に少し曖昧なところがあり、日本語では解釈の仕方によって変化する。国家主義、国益主義、民族主義と訳されることが多く、いずれにしても自身が所属する国家や民族をもとにして形成される思想であることに変わりはない。

だがナショナリストが忠誠を誓う相手は別に自国でなくとも構わないのである。たとえばそれは何らかの神であったり、特定の組織であったり、攻撃的な思想であったりする。ナショナリストの目的は恐怖の源泉である(と思い込んでいる)他者を排斥して安心感を得ることなので、インノケンティウス13世や、ナチ党や、ボリシェヴィキの革命思想に忠誠を誓ったりする。

ジョージ・オーウェルのナショナリズムについての文章に次のようなものがある。

そしてひとたびそれが見つかれば、自分ではとうに脱却したつもりでいる、神とか、国王とか、帝国とか、ユニオン・ジャックといったものにつながる愛情に身をゆだねて平然、という思いがけない結果になる。こういう、とうに覆されたはずのさまざまの偶像がふたたび名前を変えて現われ、その正体を認識できないまま、良心のとがめもなく崇拝するということになるのだ。忠誠心の対象を移し変えたナショナリズムというのは、犠牲の山羊を使うのと同じで、みずからの行いは改めないまま救いを得る、一つの方法なのである。

『オーウェル評論集』―「ナショナリズムについて」、小野寺健訳、岩波文庫

もしナショナリズムを悪しきものと考えるなら、まずは内省につとめるべきだ。なぜなら他者にたいする恐怖はありふれたものだからである。この恐怖はおそらく、私をナショナリズムのほうへと突き落とすことになるだろう。恐怖で我を失った小鬼が何をしでかすか知れたものではない。さらにたちの悪いことに、この小鬼は集団となって理性を凌駕しようとするのである。古来より邪悪なものというのは集団だった。新約聖書に出てくる悪霊は「レギオン」と名乗るが、これは集団という意味である。集団心理というものは良心を麻酔にかけてしまい、ジキルが眠りこけているあいだに信じられないほど邪悪なことをさせることができるものである。もし、自分が集団心理という甘美な妄執に飲み込まれそうになったら、ただちに薬を飲んでジキルを叩き起こさなければならない。


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