文学と聖なるもの

ミサに行くと聖別されたパンをもらいます。これは聖体拝領といって、パンはキリストの体であり、水で薄められたぶどう酒はキリストの血であると信じられています。信徒たちはぶどう酒に浸したパンを口にする。こうして信徒は実体化したキリストの体を食べることになります。

これだけ聞くとなんだかカニバリズムのような気配がしてきます。話が逸れますが、キリスト教の聖者の身体の扱いについてはけっこうバイオレンスな部分があってなかなか面白い、興味がある人は調べてみるとよいかもしれません。トマス・アクィナスの遺体をバラバラにしてシチューにした話は抱腹もので、教授が可笑しそうによく話していたのを覚えています。

以前、文学は特殊性に突き進んでいく芸術だと書きました。たいていの人には「自分の好きな作家がいる」という事実がそれを証拠立てていると思います。私は夢野久作の小説が好きです。だが泉鏡花も江戸川乱歩も同じ日本語を使って小説を書いているのに、なぜ夢野久作のほうが好きだといえるのか。それは私が彼の小説に他者と違っている特殊性(すなわち個性)を見出しているからに他ならない。スタンダールにしろフローベールにしろ、偉大な作家は他の有象無象の作家よりも個性的であるがゆえに偉大だと言われるのです。だから文学は特殊性に突き進んでいく芸術なのだと言えます(他の芸術についても同様のことが言えるかもしれませんが、私は畑違いなので定かなこと言えません)

一方「聖なるもの」はどうでしょう。「聖なるもの」は、文学とは正反対の性質を持つものです。それは「究極の無個性」だからです。中世ドイツの神学者マイスター・エックハルトが言った「何も書かれていない木の板」のようなものです。この観念的な木の板は人間の魂を表していて、自分のことを「私」と言いうる普通の人間は、この木の板に何かが書いてある。魂が空白ではないということです。一方で、消滅した人間、この木の板に何も書かれていない人間、無我の境地に達し、魂を真空状態にした人間、その魂には神が入ってきます。バタイユ的に言えば「連続性」に至ったとでも言えばよいでしょうか。完全に個性を廃し、俗物的なものから離れ、超本性的な必然に服従して生きる人間は「聖なるもの」となる、あらゆる宗教において信仰が重要視されるのはこのためです。キリスト教徒であれば、キリストが神の三位の一つになったことを信じなければならないし、イスラム教徒ならムハンマドが神の使徒であること、コーランが唯一の聖典であることを信じなければならない。仏教徒であれば、シッダールタが示した四つの聖なる真理と八つの正しき道を信じなければならない。ここにあなたの個人的な解釈はいりません。信仰とは個性を捨てることなのです。

別の例で考えてみましょう。ここに「1+1=2」という数式があります。この数式からはいかなる個性も感じられません。あなたが小学一年生の教師でテストの採点をしていたら、多くの生徒が「1+1=2」と書いているのを見るでしょう。だがもし「1+1=5」と書いている生徒がいたらどうか。この誤った数式には個性がある。この数式の後ろに、一人の人間の姿が見えるのが分かる。数学には「1の次は2、2の次は3、……」という教義がある。この教義を信仰する人間から見れば「1+1=5」というのは明らかな誤りです。ここは和気あいあいとした教室なので、「1+1」を間違えた生徒はテストにペケをもらうだけで済むでしょうが、ここが仮に中世の尋問室で問題が神の三位一体についてのものだったら、火炙りでは済まないかもしれません。

また話が逸れました。上で見た通り、「聖なるもの」とは無個性なものです。が、没個性だということではありません。没個性的なものとは俗物的なもののことだからです。俗物的な人間とは、頭の天辺からつま先にいたるまで因習的なものに支配された人間のことです。俗物は大抵の場合、感情的なので悲哀の情に溺れやすく、映画や小説に感動させられることを好みます。一方で無個性な人間は自我を殺し、感情ではなく掟に従属しているがゆえに、感情を排そうと努力するのです。

補足ですが、真の信仰と偽の信仰はきっちりと区別されなければなりません。真の信仰は献身的であり、暴力を苦しみに変質させるのに対し、偽の信仰は苦しみを暴力に変えてしまう。偽の信仰は俗物的であり、したがって感情的です。

文学は究極の個性、「聖なるもの」は究極の無個性なのだとしたら、両者の一致点はどこでしょうか。文学はとても柔軟に物語を作れる芸術なので、「聖なるもの」を物語に組み込んでしまえばよいかもしれません。たとえばニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で超人を描いたように、アッシジの聖フランチェスコのような、生身で「聖なるもの」の域に達した人間を小説で書いてみるということです。しかし、それはちょっとズルいというか、なんか違う気がします。文学で「聖なるもの」を表現しようとすれば、作家自身が「聖なるもの」になってひとつの物語を作るしかない気がします。あらゆる作為を排し、必然にしたがって筆を動かす。はたしてそんなことが可能なのか……もう少し考える必要がありそうです。








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