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発達障害児の就学 一旦終了



発達障害児の就学 一旦了



 就学まで、まだ時間がありますが、もう気持ちが定まり届出を出すので、一旦終わります。


 前のnoteをお読みいただいた方はご存知かと思いますが、テンションがジェットコースターどころかほぼ転落並みで、だめな息子・だめな母親のネガティブイメージが大爆発し、本気で心中を考えました。


 ある日の平日は、帰宅したら、まず家事ではなく、遺書を書こう、いつ世を儚んでも良いように、と思っていました。

 息子をどうすれば苦しませずに、私も速やかに後追いできるか考えていました。

 飛び込みは、息子を手放すかもしれない。後追いだと、遺体が息子と離れてしまう方法は嫌でした。


 一瞬でも、そんなふうに本気で悩んだのは、私は期待していたからです。

 小学校に。


 求めれば支援は与えられるもの、と、保育園での生活で、そんなふうに思い込んでいたから、就学相談にあたり、表向きにはウェルカムを装いながら、その期待を「息子は厳しい」と婉曲の拒否で「面倒くさがられる」ことを、想像していませんでした。


 


 こちらもやはり私のnoteを読んでいただいたらわかる通り、支援コーディネーターなる先生のいう、「どちらかを選べる」を額面通りとらえ、私の意思で、ふたつのグッドポイントとネガティブポイントを並べ、選ぶつもりでした。


 けれど、選択肢は実は、私ではなくて「先生方」ひいてはむしろ「学校」のほうにあったというか、



 ここでひとつ、大事なことを忘れていたのですが、   



 うちの学区の支援クラスは「抽出」という授業形態なんですね。

 抽出の逆のことばはわからないけど、抽出とは、一日の普通クラス授業の、一時間とか二時間だけ、支援級に行ってもらうというもの。


 対して、支援クラスをガッツリ設けた普通校があるのです。


 欲をいえば私は、まだこっちのほうがよかった。


 次に、先生と生徒の数の比率です。



 就学相談なる面談で、支援コーディネーターなる人物から「うちの子は普通校支援クラスでも難しい」と、めちゃめちゃな大ダメージを喰らい、死にそうな気持ちを吐露すると、他の地区の支援クラスには、まだ先生の数が多いことが分かったのです。



 もちろん、うちの学区よりもさらに支援クラスに力を入れていない学校というのもあるのでしょうが、支援制度が脆弱で、当面変わる気配が無いものだと感じました。


 と、言うのは、ようは説明をしてくれた支援コーディネーターの方から、できないことしか聞いていない。


 と、言うのは、面談の中では、うちの息子にはできないだろう、ということを言われまくったのですが、できるように努めます・教えるつもりです、ということを、一切聞いていないんですね。




 その先生個人の問題ではなくて、体制が変わる様子を見せず、中にいる先生たちも諦めている、と、いうのが正直なところだと思いました。



 たちが悪いのは、市の定める方針では、さも制度が整っていますよと良さげなプッシュするところです。


 そもそもの話、支援クラスをガッツリ設けて、先生を増やしてくれれば、ある程度視野に入れたでしょうが、支援級というものはあるし、タブレットの導入や冷暖房完備の違いはあれど、小学校とはこういうものです、という戦後教育とあまり変わりないお役所ぶり



 ビジネスの世界の問題は、大抵お金か時間があれば解決しますが、公の小学校は、保護者が私的にお金を出すと言っても、外部の人間を入れたがらないようです。理由は個人情報保護。





 違和感は、就学相談なる面談で、私は支援を受けた生徒の名前を教えてと言ったのではなく、どの程度まで支援が受けられるのか事例が知りたい、と聞いたはずなのですが、





 それはお答えできないんです、守秘義務がありますから。




 


 ふむ・・・守秘義務、コンフィデンシャルと言われたらね?その場は、そうですか分かりましたと言ったんですが。


 なんか、よく考えるとおかしいな?って。「どの程度まで支援が受けられるのか事例が知りたい」もう全く自然な想定されるべき発達障害児のお母さんの質問だと思うのですけど、


 守秘義務。

 事例を与えない。



 何が起こるかは、あなたのお子さん次第だけど、まあ頑張れ




 出口のないトンネル、紐なしバンジー、はしごのかかっていない崖。




 うちの子はそんなにダメなのか、とメンタルがベコベコでしたが、よく考えますと、やっぱり、変だな?って。



 選択肢があると言うけど、支援学校に行かせようとしているかのような、そういえば学校って、そういうところでした。先生も人間だから、で許される話とはちょっと違うと思うんですけど、面倒くさがるんですよね。


 で、え〜面倒〜〜といえば良いのに、いえない立場だと気にして、「諦めさせよう」としてくるんです。



 ハッキリいって、私このやり方、大嫌いです。でもこれは先生個人の問題じゃなくて、組織の問題なんですね。民間企業でいうクオリティカルチャーなんです。


 営利目的の企業なら、ニーズに応えるため知恵を絞りますが、残念ながら公の学校は違う。それでも子供が好きとか、その子にあった教育をと、発想に富んでいれば良いのでしょうが、少なくとも落ちついて考え直すと、2回も面談の機会があったにも関わらず、私は先生個人と話したという感覚が希薄です。





 あの人たちは学校の意志を学校の代わりに伝える人で、私の子どものことを、面倒くさそう、と、思ったのだな、と、感じました。



 回りくどいやり方に、一応人間不信から回復している私の柔らかくなった精神は見事に大ダメージを受けました。

 先日は胸が詰まってご飯も食べられなかったですが、やはり思い返すと、私が高校生の頃、似たようなやり方で先生が友人に、旧センター試験の選択科目を諦めさせようとしていました。




 化学、物理のほうが点数取りやすいというので、自称進学校のわたし共は、選択科目の選択権を取り上げられていたのですが、

 職員室まで生物教えを請うた友人に、あなたのためだといって、諦めさせようとしていました。彼女は泣いていました。


 

 まあ彼女のすごいのは、面従腹背じゃないですけど、自力で勉強して選択科目を取ったことですね。

 私は、彼女からいい影響を受けています。




 なぜその先生が、選択科目の選択を諦めさせようとしたかというと、先生のほうが、バラバラになるとカリキュラムを組むのが大変、指導するのが面倒だからです。


 

 

 

 ではなぜ、素直に現在組織の瑕疵を認め、せめて代替案ー外部組織を提案するなど、前向きな検討すら、それほど面倒くさがるのでしょうか。


 先生とか教育機関の威信、ということでしょうか。また、不登校ユーチューバーゆたぼんにも一定の理解ができた瞬間です。



 足並みを乱されることをここまで敬遠する組織が、まだ幼い子供の教育機関にズブズブに食い込んでいるのです。

 それは、あたかも若い魚が、自分がいる場所を水だとも気付いていないほどに、学校とはこういうものです、どこもそんなに変わりませんよ、とでも言うように。




 基礎論文の引用激減など、日本の教育機関、アカデミックな世界が凄まじいほどの後進性と頭では知っていたつもりだけれど、ここまでとは、と、改めて、愕然としますが、私や息子をダメだと思わず、運が悪かったといい意味で諦めがつきました。



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