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炎上中不登校youtuberさんから義務教育を考える



不登校ユーチューバーさんから義務教育について考える。





 私はゆたぼんさんの動画を見て、どうこう思うことはないです。なぜなら見ていないので。


 興味ない!っていうほど強い気持ちもなくて、ゆたぼんさんは「他所の子」だし、応援したくなるほど、可愛い♡とか、主張に賛同できる!ということがない。



 メンタリストのDaiGoさんが言うような

 「13歳が何百万円という寄付金を募れる云々」という擁護意見も、なかなか微妙な側面型あるように感じる。


 彼は一時期ホームレスなんか居なくなれば良いという発言をして、炎上していたけれど、「こういう(芸能関係の)人たち」と言う事って、ひとつの共通点があります。


 視聴者には見えなくて当たり前のところなんですけど、そう、芸能人「なのに」視聴者にみえるところでしか、モノを言っていない。


 と、いうのは、金銭を生み出すに至った経過とか利益率とか、そういう話をしていないんですよね。

 もっと分かりやすくいうと、たとえば10年20年研究が続けば、人類科学の発展に繋がる素晴らしい基礎論文が発表されたとして、少し考えれば、それは「10年20年研究が続けば素晴らしい○○に」という

 「判断ができる」人間がたくさんいて、その研究が「素晴らしい」とわかるわけで、


 その研究に「どれだけの価値を見出す」かは「人間社会のレベル」に依るんです。


 時価というわけね。


 分かりやすい極端な例でいえば、今原始時代にスマホを一台持っていったらどうなるか?ということを考えてもらって、充電が続く限りちょっとしたゲームができる、暇つぶしにはなるかもしれないけど、狩猟民族にスマホ一台は無意味なんです。


 これは原始時代の人間が今の人間よりも劣っていると考えているわけではなく、あくまで文明レベルの違いです。文明は個人の能力によって決まるものではありません。


 メンタリストさんであったり、ゆたぼんさんのことを養護する人の発言って、ゆたぼんさんが今この時点でどうか、という話しかしていないんです。(お金を稼げているか?芸能人としての知名度、など)

 今の仕事のやり方が別のキャリアにつながるか?とか、スタッフとのコミュニケーションはどうか、とか。

 動画やクラウドファンディングの数字は視聴者に見えるけれど、彼の将来に繫がるような何かっていうのは、視聴者には絶対に見えないから。

 だから、13歳という見ようによってはまだ子どもの年齢で、大人が「嫉妬しているだけだ」と彼を擁護すること、無責任に見える一面はたしかにあるんです。


 学校に行かないのはひとつの選択だけれど。

 逆に言うと「動画配信やお金稼ぎは大人になってからでも出来るかも知れないけれど(※年齢によって内容は違うものになるだろうが)、少なくとも日本では義務教育の年齢を越えてから、やっぱり小学校・中学校に通っておけば良かったと思っても、通うことはできない」


 だから行け、というのは確かに大人の意見なのですが、ゆたぼんさんは本当に自分の意志で不登校を決めたのか?

 これもまた、彼をどうみて良いか分からない人間を増やす一因なんですね。


 エンターテイメントコンテンツと見るのであれば、視聴者は企画者が見せるものしか見られないのは事実なのだから、「心配するな」と言われても、


 初代モーニング娘が飲酒喫煙でバッシングを受けたときのような不透明感・不安感は、やはり付きまとうわけです。


 あと、ある「仕事」を、ひとつの結果として裏も表も見ない評価の仕方を好む人は

 ものすごく合理的に見えて






 子どもを育てたことがない人






 正確にいうと、

「思い通りにならない存在」を愛して育てたことがない人の意見って、どんなに正確に見える理屈よりもハッキリ伝わってきます。


「理屈では割り切れないもの」ということです。


 ビジネス系の「芸能人」の中には、「独身の男性層に支持が厚いけど、主婦層からめちゃくちゃ嫌われている人」が、いるんですよ。



 私の意見は前者に比べて複雑なようでいて、少し後ろに下がれば単純なんです。

 なぜお金を稼ぐか?なぜ大金を稼ぐと偉いのか?

 少し昔の考えと同じで、大金を稼ぐことは、たくさんの人を養うことだからです。

 

 

 こう書くと私の考えも昭和なようで、一応筋は通っているんです。

 要は、仕事のお金の基礎となる「人」は一年や二年で育ちません。


 この考えから、子どもにお金を使いましょうよ、引きこもりの就労支援しましょうよ、という稼ぎを「人」に還元していく考えが広がるわけですが、


 少子化問題のマイナス面として、この考え、「イマイチよくわからない」という対立的な考えを強力にしていると思う。


 むしろ、たくさん稼いで、たくさん子どもこさえて、という昭和の考えのほうが、親和性が高かったです。


 

 仕事にも運にも恵まれない人にとって、配偶者と子を養うなんて、欲しても現実的ではないでしょうし、

 配偶者と子を養うのは一世代遡れば当たり前の感覚ですが、そういう感覚から比べると、「今」の、人生の大半の時間を仕事につぎ込んで、給料・インカムを自分のために投資したい、そのほうがお得だとか合理的な感覚へシフトは、お金を軸にすれば分かります。


 人を軸に時間を流すと分岐します。一度分岐した線が交わることはありません。これは世代間の断絶です。

 構造を考えると「同世代でも並行線の思想を持つことが大いに有り得る」ことがわかると思います。



  



 

 さて、ゆたぼんさんについて話を戻すと、これは見る人によって冷酷、非道、嫌味、または、アンチの一人と見られてしまう意見かも知れないけれど、彼を冷静にエンターテイメントコンテンツのひとつとして捉えたときの、私の正直な意見です。




 たとえば、

 不登校の子供に勇気を与える


 →どうやって?

 子供が学校に行きたくなくなる気持ちはわかる。他ならぬ私が、時を経て支援コーディネーターという肩書をもつ小学校教諭と話をし、いかにサイエンスが発展しても、いちぶの小学校教諭のパーソナリティは、戦後の遺物というべき価値観がこびりついていることを感じた。

 その意味は、子どもを管理したがる。自分の頭で考えられるようにというが、小学校教諭自身が理解できないほどの独創的な発想を嫌気する。

 落伍者のレッテルを貼ろうとする。


 たしかに子供はある意味で大人より未熟です。大人顔負けの弁がたつ子供が何人もいたら、不気味でしょう。


 加えて、相手を批判する文化を持たない日本での教育は、こうだと言ったものがいかにポイントを狙っても、まるでそのまま人格否定のように捻じ曲げられ広がることがあります。


 大人は多少理屈が通っていなくても「肩書」さえあれば、周囲が黙るという特権がありますが、先生に対して子供はこの特権を持たない。


 いや、教師にこそ、その特権があるのです。

 

 だから「おかしい」と思ったことも、先生がこうだといえば、そうなる。

 そうして植え付けられた偏見が、子供の将来に与える影響は、計り知れません。


 そこまでのプレッシャーを感じて教諭という仕事に心血を注いでいる人は、どのくらいいるのだろうか。


 

 と、いうわけで、行きたくなくなる気持ちはわかるし、不登校大いに結構なのだけれど、


 ゆたぼんさんを見たときに、「自分には同じように振る舞うことはできない」と、直感的に思う子供も・・・少なくないのではないか?


 また、別に学校にいっている子が悪いわけではないし、もちろん親もそのほうが安心するという構図、これがマジョリティで、このパターンを守ることは、子供にとって長い目で見ると裏目に出ることも多いのだけど、学校に疑問を感じない、もしくは妥協できる子を、わざわざ刺激する必要はないのでは、と、思う。



 彼の活動方針そのものに未熟さを感じるというか、アピール上手や下手もあると思うし、彼を子どもとして応援するなら、すべての子ども、なるべく平等に応援したほうが良いと思うけど


 ゆたぼんさんは人気ユーチューバーだ。(あと、プロレスラー?)

 それに、そもそも親の主義主張、ひいてはそのバックアップ体制に、大きなばらつきがある。


 彼のいうような、不登校の子に勇気を与えるというのが、私には自分の力を過信する子供らしい妄想のように聞こえます。



 いや、いいんじゃないの?

 夢いっぱいで・・・みたいな。





 けれど、アンチとして彼の行動を批判している人の意見とは、私は反対の意見であることが多いです。





 ひとくちにアンチといってもいろんな人がいるでしょうから、十把一絡げにはできないんですけど、大体ひとつふたつに集約されるんですね。




・ゆたぼんさんを心配しているフリをしているけれど、別に心配してない。むしろ失敗したら、そらみたことか、と、手を叩いて喜ぶであろう人

・有名人に対する嫉妬





 と、いうのは、私、元内親王の眞子さまの旦那様、小室圭さんが、3回目の司法試験に合格したというニュースを見たときに



 あ、合格したんだ、でも、

 落ちたほうが芸能ニュースとしては面白かっただろうね、と、思ったんです。


 我ながら酷いと思いますが、「知らない人への正直な感想」なんて、こんなものです。



 よく芸能人の結婚出産報道をお祝いするファンがいますが、私には、その心情がわかりません。


 芸能人であるからには、発表しないわけにもいかないんだろうと思うけれど(すっぱ抜かれるよりは)、儀礼的な「おめでとう」以外に、心からのお祝いを贈れるかというと、私はそうではないんですね。


 身内とか友達とか、それ以前に双方向性のコミュニケーションがあるからこそ、「我が事のように喜ぶ気持ちが湧く」んです。あくまで、私は。




 なんでも、動画で、ゆたぼんさんの父親が日本の原爆投下の日を間違えたらしく、その誹謗中傷を受けているのがゆたぼんさんだというニュースを見たのですけど、


 それに対する意見は、私は脳科学者の茂木健一郎さんと同じでした。



 かいつまんでいうと、茂木さんの意見は「原爆の落とされた日を正確に知っているかどうかで、知性は測れない」という話なんですけど、



 アンチの意見には、それなりに

「ソレは日本国民として常識」とか

「長崎県民と広島県民に失礼」というのが多かったんですね。



 たしかに後者の意見は明らかに揚げ足取り、何を目的としている意見かもわからない。 





 日本での原爆投下の日付を勘違いしていたら、被爆者(二世、三世)が怒るのだろうか、海外の人が怒るのだろうか・・・?


 知ってるのが常識というけれど、「なんのために」覚えているのだろうか?


 どれだけの知識を詰め込もうが、世界平和を死にものぐるいで目指せる集団が権力を握っていない。

 社会的に下層の人間が上層に文句をいうことこそ自由だが、明確な解決に向けて組織的な行動ができない。







 それがこの日本の事実で、日本の教育はそういうものだからです。

 


 私の脳は、無駄だというものをしょっちゅう忘れようとする。

 結婚記念日すら忘れる笑

 

 良いようにいえば、結婚してコミュニケーションを取る今が大事で、その日、自体にそれほど意味を感じないから。



 それと同じで、たしかに日付とともに大事なことを覚えておくこともできるけれど、その「大事な日」は、学校で定められて教えられるものだろうか?





 私達は、グローバル化が進む世界の中で、他人にとっての大事な日を尊重できるか、そちらのほうが圧倒的に大事なんじゃないの?



 記念日にはふたつあります。



 何かを喪った日

 何かを得た日



 


 ラジオの朝番組では毎日今日がナニかの日だと報道していて、私はそれら、ひとつひとつを覚えていられません。



 毎日毎日、記号と数字に触れていて、その大半は意味のない記号の羅列、忘れていっています。




 にも関わらず、作家希望というのは、他人の心に触れて動かしたがる願望が強い。そのためのツールが文字です。




 何かを喪った日についての意見は、割れます。覚えておきたい人と、悲劇を忘れたい人に分かれるからです。

 どちらも正誤は決められない、蔑ろにしていいものではない。

 



 大事なのは「原爆投下の日」そのものではありません。その日を通じて、自分と、そして他者の大事な日を尊重することでは無いのか。




 茂木健一郎さんの言っていることは、この日がこうという知識ベースの意見ではないんですよね。



 知性も知識を積み上げれば形成されるという人もいるかもしれませんが、そうでもありません。


 ただの喧嘩好きとかサイコパス、相手を閉口させることが勝利条件と捉える人も多いですし。




 私がこういうことを考えているのは、はたして義務教育の賜物なのだろうか。小学校から中学校まで不登校気味でした。

 ちゃんと行くようになったのは、親に色々言われるのが面倒になったから。


 ちなみにペンネームの「にひろ」二尋は、マーク・トウェインから取りました。


 彼は晩年人間不信になったらしく、トム・ソーヤーの冒険から見ると、その作風の落差に驚がくする人もいるかも知れません。


 けれど彼は、人生単位で尊敬する作家の一人です。数多くの名言も、今なお広く残っていますが、その中で私の中に印象強く残っているのは


I have never let my schooling interfere with my education


私は学校に自分の教育を邪魔させたことは一度もない・・・



 しかし、マーク・トウェインが不登校だったという話は聞きません。

 面従腹背がいいのか?と聞かれても、悩みますが。どうであれ、集団での協調性がどーたら最低限の知識がなんたら、義務教育は必要だという意見にろくなものはないですね。


 53歳の新人という本でも読みましたが、「義務教育」って、誰でも当然行くものという面の皮の割に、障害があるとなると先生に医療行為はできないからという理由で、平気で拒否してくるんです。


 行きたくても行けないマイノリティがいるんですよ。

 

 でもだからといって、マイノリティが大人としてやっていけないかというと、そうでもないです。


 義務教育は必要だという人がいちばん嫌なのが



 「義務教育は必要ない」と証明されることです。


 

 だったら自分はなんだったのか、と、サンク・コストの原理とか、ともかくいろいろ、義務教育を否定する存在を否定しないと安心できない心理に陥るんでしょうね。


 


 個人的には性教育、また、税金や日本社会の仕組み、世界での立ち位置など、もっとシッカリ考え教育してほしいところですが、やはり「都合の悪い部分は隠す」「特定の政党を教師が支持してはいけない」いろんなルールが、子どもの自由な発想を育む妨げになっていることは、もはや隠しようがありません。



 核開発から不拡散条約、その意義まで教えるのも良いですが、


 古今東西・様ざまな美の基準、

 

 ネグロイドの鼻と環境との関わりを教え、人の容姿の些細な違い(鼻が低い、目が小さい、化粧をしていない、その他体質を含む)から、人格を貶めることがいかに浅はかで悪質か、教えるのもいいでしょう。


 

 


 ・・・文部科学省検定済教科書っていうのがそもそも、その時々の大人の事情がふんづまりなんですよね笑

 探せば良いところもあるんだけど(スマホアプリとリンクしていたり、英語のビニエットが世代背景にあっていたり)





 ただ単に知識をためれば良いのなら、文部科学省検定済教科書や先生からの教えにこだわる必要は全くなくて、な。だっていつでも勉強はできるし、私が習った20年くらい前の常識って、今と比べると半分くらいは役に立たないです。

 

 言葉の意味とか日常会話で使えもしないことわざや熟語をおぼえることにハマる人もいて、趣味としてはいいですけど、ことばはコミュニケーションツールなのだから、


 若い人たちが使う


 それ、ま?


 が、わからなくてキレてる年配のほうが、どう考えてもヤバいと思うんですよね。


 だって、どうしようもない若者が増えた!って言っているうちに、年老いた者は生きている人間社会から少しずつ追い出されてマイノリティになるのだから。

 


 マイノリティはつまり間違っている人たちです。義務教育が教えるこの構図は変わらない。


 

 



 まあ、経験しておくといいと思うのは、運動会とかそういうイベント事の方ですよね。

 どれだけ嫌な思いをして、お互い心の底から信じているとはいえなくても、人と人とは支え合わないと生きていない、というのを肌で感じるためには、そういう組織的な行動を経験することは必要と思う。




 私はどちゃくそ運動音痴で、あらゆるイベントが大嫌いでしたが。今から考えると、一生懸命やってるって分かってもらえたら、うまく出来なくても集団からはじかれることはなかったし・・・

 なんだったら、もっと家でも苦手克服に頑張れば良かったかなあって。


 走りが遅いとかも、たぶん練習して、分析して、苦手克服のためのアプローチをしていたら、全体的に、並みになっていたと思う。

 苦手のレッテルは無かったかもしれない。




 



 

 


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