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体の中に耀る月 エピローグ

秋が深まってまいりました。


ここまで読んでいただけた方は、ありがとうございます。まだの方は、一話から読んでいただけると嬉しいです。




※この話を書いた頃、息子はまだ産まれていなかったので、発達障害を思わせるキャラクターはあまりよく描けていないと反省するところです。

 いくつかの表現は気に入っており、そのまま掲載しております。ご容赦ください。


体の中に耀る月 エピローグ

 

 深夜、血相を変えて睦の母親が病室に飛び込んで来たとき、典子は本来の落ち着きを取り戻していて、睦も浅い眠りから目覚めた。睦は、母親に対して「大事なミッションだから、帰るのが遅くなる」という意味不明なメールを送っていたらしく、傍で聞いていた典子を心底呆れさせた。

怪我に対しては、「西の家の階段から落ちた」と頑是なく言い張った。混乱のまま、どうしたのか、何があったのかと、睦と典子に交互に聞く母親の声は次第に甲高くなり、病室の内外から「うるさい」と苦情が飛んできた。それからは、典子は母親を宥めて待合室へと連れて行った。睦の急な入院の準備を手伝った後、午前零時を回る中、ぐったりと疲れた表情の睦の母親から、お茶でもと誘われた。

「先生、一体どういう事なんでしょう。アツシはああなったら、私には絶対話してくれません。でも、こんな事知らずに済ませて置けないです。アツシは何をして、何をされたのか、知っていたら教えていただけませんか」

真剣な顔で問い詰められ、隠し通せるはずが無い。睦の怪我の原因が、階段から落ちただけなどあり得ない。酩酊状態の敦子の母親に襲われたのだ。単純な腕力だけなら睦の方が上だろうから、敦子の母親に不意打ちで階段から突き落とされた後に、追い打ちをかけられたのではないだろうか。

ひょっとすると、敦子の母親は本当に酔いの勢いで睦を殺していたかも知れない。典子は辛くも睦の絶体絶命の危機に間に合った。

しかし、典子はやはり、その状況の土台を作った後ろ暗さがあって、知っている事から想像できる全ての事を包み隠さず話す事は出来なかった。それには睦への嫉妬もあるのかも知れない。睦は、何故か敦子の母親を庇っている。幼い、幼いと庇護欲や軽蔑さえ持って接していた少年が、その感情に罪悪感を孕むほどの責任を感じている事に、典子は敗北したような気にすらなっていた。

「睦君は、さっき目を覚ましたばかりで、私も詳しい事情は存じ上げません。西さんと睦君は親しかったようですけど、西さんはちょっと情緒不安定なところがあって…。西さんに相談したい事があると言われたので、睦君は、つい西さんの家に行ってしまったようです。よく分からないのですが、西さんの部屋に二人で居るのを西さんのお母さんに見付かって、怒られて…それで、ビックリして逃げようとしたのを、階段から足を滑らせた、と言う事だと思います」

睦の母親は片手で顔を覆い、あの子ったら…と深い溜息を吐いた。

「本当に恥ずかしい子。こんな夜中に女の子の家に行くなんて、何考えるのかしら」

典子は膝の上で拳をぎゅっと握った。

「けど、私にも大きな責任があります。元々、睦君にクラスメートの西さんを気にかけてあげて欲しいとお願いしたのは私ですし、睦君は、ただ浮付いて女子生徒の家に遊びに行った筈がありません。私のところに、西さんが心配だから今から行く、というメッセージを寄越してきておりますから。お母様に言わないのは、きっと心配をかけたくないか、私や西さんを責めるような気持ちをお母様に抱かせたくないからです。本当に…」

本当に、睦君は心根の優しい生徒で、羨ましいです。典子はそこで伏目にして、ことばを途切れさせた。何も奸計などありはしない。それは典子の本心である筈が、面映いのは、典子自身がことば本来の意味を軽んじる発言ばかりを繰り返してきたせいだろうか。

「まあ、先生。そんなに言っていただいて、ありがとうございます…」

 

睦は、心臓が止まった事があって、翌日に精密検査を受けたが、いずれも異常なし。外傷は、肩の筋挫傷、手首の骨折、尾骶骨にヒビ、この中で比較的重症と判断されたのは、手首の骨折だけで、残りは軽傷。それなのに全快までは一月以上かかると言うので、睦は両親から近場以外の遠出を禁止され、夏休みの半分は自宅療養という、つまらない結果を迎えた。

手首の骨が癒合する前に新学期が始まり、八重咲の花を咲かせていたクチナシも、今はもうすっかり花を落としてただ葉を茂らせるばかりである。睦があれだけ苦心したにも関わらず、いくら問うても、典子は敦子と敦子の母親がどうなったかは答えてくれず、敦子本人に何度も電話やメールをしても、ほとんど返事は来ない。

「ほとんど」というのは、つまり「全く」では無いという事だ。睦がメッセージを送ると、五に一ぐらいの割合で「なあに」という返事がある。詳しい事情を尋ねようとすると、そのうち返事が途絶える。

「大丈夫?」と問うても、ただ「大丈夫」という返事が来るのみ。睦は釈然としないまま、新学期を迎えた。実はあれ以来、敦子は頻繁に「プチ家出」を繰り返していた。行き先は典子の家か春の家、どちらかである。典子は、睦の二度目の入院騒動を利用して、少しパッシブな攻性を取った。

敦子の母親に、睦が彼女に被害届を出さないのは、自分が睦を説得してやったからだと恩に着せた。しかも睦は典子に絶大なる信頼を寄せていて、典子のことばひとつで睦の気がいつ変わるとも知れないと説いた。敦子の母親は、泥酔していた夜の事を覚えておらず、典子は彼女を心配するフリをしながら、その様がどれだけ醜悪で傍若無人で暴力的だったかを話し、訴えられれば鬼女の恥ずべき姿が白日の下に晒されるのだが、

「でも、私みたいな若輩者が、敦子さんのお母さまに対して余計なお世話を焼き過ぎたかも知れませんね?」

と問うと、敦子の母親は小さく

「そんな事無いわよ…」

と気弱に呟いた。敦子の話によると、それから敦子の母親は深酒する事が無くなり、敦子に対する締め付けを緩んでいるそうだが、事実かどうか確かめる事はできない。ただ敦子の気分が落ち込んだ時、典子か春の家に来る事を許した。

無論典子が敦子の「ホームテイ先」として、春のアパートを候補に挙げたとき、梅干し三粒を一気に口に入れて噛みしめたような渋い顔をした。「全く意味が分からないし、敦子とは仲良くないし、私にはなんのメリットもない」と、不満たらたらだった。典子が「春に断られるとなると、やはりアツシに頼むしかない。アツシはなんだかんだで、頼まれたら断れない性格だから、協力してくれるだろう」と言うと、それが春の矜持を刺激したらしく、

「女子の身の安全を、バカな男子に頼むなんてどうかしている」

と、典子を罵倒しながら、「敦子に寝る場所くらいなら与えてやる」と承諾した。典子は、春や敦子、敦子の母親、その誰にも睦に対して秘密保持令を敷いていない。典子は、敦子が自身のことばで睦に話すのを待つのが誠意だと判断し、春は、敦子と睦の仲の進展への牽制球として、敦子を家に上げている事を伏せた。敦子が睦に、何も言わなかった事への理由は、誰にも分からなかった。典子の剣幕に遠慮したのか、睦にこれ以上の心配をかける事は嫌気したか、あるいは春に催眠でもかけられているのか。

 睦は女の水面下で繰り広げられる争いの渦中に飛び込む程の勇気はなく、意識の閾下で何が起ころうと、察しても探りに行くだけの気概は無かった。

 三学期が始まった。両親の説教に辟易していても、学校でさして楽しみのない睦が登校すると、南戸が、「心配だったよ、大変だったね大丈夫?」と、落ち着きなく睦の周りを走り回って来る。

その傍らで、何故か春がスンと澄んだ顔で睦と歩調を合わせている。

 

睦はその二人を、もう当たり前のように受け入れながら、あの夜、睦に幸せな家族の話をしながら微笑んでいた、敦子の透明な水晶体の中に何が映っていたか、思い出そうとした。透明な美しい房水に手を入れ波紋を起こす、自分自身の夢想。



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