トレハロースの話

皆さまはじめまして。私は大学院で化学系の研究をしている者です。名前は二ヒコテとでも呼んでいただけると嬉しいです。国語は苦手なので文章作成にはあまり自信がないですが優しい目で気楽に読んでいただければ幸いです。

今回ご紹介するのはトレハロースという少し変わった糖の一種です。大学入試でたまに題材になったり一部の教科書でも紹介されていたりと、何となく聞き覚えがある人もいるかもしれません。

トレハロースに入る前にまず糖類の説明から。糖類というのを説明するのは意外と難しいのですが、いくつかサイトを見ると糖類=炭水化物と書かれていることが多いかと思います。確かに間違いではありませんが、厳密なことを言えば、糖類は炭水化物の中の一種なので少々微妙なところです。正確にというか化学的な説明をすれば多価アルコールを酸化してできる生成物で、アルデヒド基(ーCHO)かケトン基(ーCO)をもつ環状構造をしたものが多い物質(必ずしも環状とは限りません!)となります。糖類の基本構造となるものを単糖(類)と言い、その中で恐らく最も有名だと思われるものがブドウ糖あるいは血糖とも呼ばれているグルコースです。他にも単糖は何個もありますが、トレハロースを話す上で必要となる単糖はグルコースのみなので先に進みます。トレハロースを含め、単糖が2個繋がってできる糖類のことを二糖(類)と言います。有名どころを挙げると家庭にある砂糖(蔗糖)の原料であるスクロースです。下の画像はグルコースの構造です。話す上で非常に大事なのでよーく確認しておいてください。1~6の番号は何番目の炭素Cかを表しています。

アルグル

ここで気をつけてほしいのは糖類=甘い絶対ではない!ということです。確かに日常的にお目にかかる機会の多いであろうグルコースやスクロースは甘いですが、中には甘味をほとんどもたない糖類だってあります。トレハロースの甘味度はスクロースの40%程と言われているので(甘くないと言えば嘘になりますが)思ったよりかは、と言った何とも微妙なラインです。

それでは本題のトレハロースに参りましょう。トレハロースは2個の(αー)グルコースグリコシド結合(ーOー)という結合をつくり、繋がったものです。たまにヒドロキシ基2個が脱水してできると言う人がいますが、それは大嘘です。多分グリコシド結合をエーテル結合だと思い込んでいるからだと思いますが、分類上はアセタール結合というものとなります(よく分からなければ読み飛ばしてもOKです)。グルコースの化学式がC₆H₁₂O₆であることを知っていれば、トレハロース化学式はC₁₂H₂₂O₁₁であることが分かるかと思います。正直化学式はどうでもいいです。大事なのは2個のグルコースの繋がり方です。繋がり方が変わると全く別の二糖ができてしまうからです。

ここで2つの糖を載せます。

トレはロ

マルトリ

上の二糖がトレハロースです。一方下の二糖はトレハロースではない、全く別の二糖です(麦芽糖とも呼ばれるマルトースです)。よく見てみると両方とも先程のグルコースが2個繋がっていることが分かると思います。実は、トレハロースとマルトースはどちらもグルコースが2個繋がることでできる糖であることは共通なのです。ではトレハロースとマルトースの大きな違いとは何でしょうか?先程も少し述べたとおり、繋がり方です。もっと言えばグリコシド結合の形成箇所が異なるのです。

アルグル

一緒に考えてみましょう。まず簡単なのは下のマルトースから。1の番号が書かれた炭素C(以下○位と表現します)がマルトースの左側になります。では、右側のグルコースは何番目(何位)の炭素とグリコシド結合を作るでしょうか?

答えは4番目(4位)ですね。これは楽勝だったのではないでしょうか?このように、マルトースは1位と4位の炭素の間でグリコシド結合を作って二糖となるのです。

上のトレハロースはどうでしょうか?トレハロースの左側はマルトースの左側と同様に1位の炭素原子ですね。ここで問題となるのは右側の部分。

右側のグルコースは1番目(1位)の炭素とグリコシド結合を作ります。つまり、トレハロースは1位と1位の炭素の間でグリコシド結合を作って二糖となるのです。

高校化学の知識が何となくある方は還元性の話を思い出してほしいです。糖類の還元性とは何なのか?ざっくり言えば、他の物質から酸素を奪って相手の物質を還元する性質の事です。その際に糖類自身は酸化します。酸化すると言うことは構造中に酸化しやすい構造をもつというわけです。還元性を確認する方法はフェーリング液の還元やメイラード反応と呼ばれる、還元性をもつ物質を酸化させることで褐色物質(メラノイジン)を生じさせる反応が挙げられます。ちなみに、メイラード反応は食品の着色や香気成分を生成する際に利用されています。

グルコースの場合だと、ヘミアセタール構造と呼ばれる構造がこれに該当します。下のオレンジ色の線で囲んだ部分です。この構造がトレハロースとマルトースにもあるかどうかを考えてみて下さい。

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すると、マルトースにはヘミアセタール構造が存在するのに対して、トレハロースにはヘミアセタール構造が存在しません。つまり、マルトースは還元性を示すのに対して、トレハロースは還元性を示しません。一般的に、1位の炭素原子がグリコシド結合(あるいは何らかと反応→メチル化糖や糖アルコールなど)している場合、還元性は消失します。トレハロースが還元性を示さない非還元糖であることは、後でちょっとしたポイントとなってきます。

ここからいよいよトレハロースの本格的な話です。前提が長かった・・・。

トレハロースの存在が確認されたのは1832年のこと、ライ麦の麦角菌から発見されました。その27年後の1859年にフランスのベルテロ(アセチレンを命名したことでも知られています)という化学者によって、ゾウムシが作るトレハラマンナというものから分離され、それに由来してトレハロースと名付けられました。その後、トレハロースはマッシュルーム糖とも呼ばれるほど、キノコ類から多く抽出される事が分かりました(乾燥キノコの2割近くにも相当するそうです)。また、酵母や海藻類からもトレハロースは抽出されます。

トレハロースの恩恵は人間よりも昆虫の方が受けているかもしれません。と言うのも人間の血糖はグルコースなのに対し、バッタや蜂、蝶といった多くの昆虫の血糖は実はトレハロースなのです。昆虫はトレハラーゼという分解酵素を体内に持っています。人間も小腸の刷子縁という部分に持っています(と言うよりかはトレハラーゼ自体は持っている生物が多いです)。厳しい環境で生きる生物こそ、トレハロースによる恩恵を強く受けるのというわけです。

現在はデンプン食品の老化防止、タンパク質の変性抑制といった食品加工の際の食品添加物として使われることが多いと知られています。しかし、トレハロースが日常的に使われ始めたのは実は結構最近になってからなのです。

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1995年以前は、トレハロースは抽出が難しい希少な糖だったのです(ちなみにですが現在でも希少な糖類はあります)。30年程前までは1kg辺り3~5万円もしたため、用途は殆どありませんでした。しかし、1994年に岡山市の株式会社林原(公式HP)というバイオメーカーがトレハロースの大量合成に成功し、価格が大幅に下がったのです(100分の1も下がったと言ってもいい程の(いい意味で)大暴落です)。合成方法は至ってシンプルです。グルコースがたくさん結合してできているデンプン微生物・酵素を使って分解していくというもの。デンプンの末端部分を次から次へとトレハロースのあの還元性をもたない形へと変えていくことと次から次へと切り離していくこと。即ち、それ専用のマルトオリゴシルトレハロースシンターゼとマルトオリゴシルトレハローストレハロヒドラーゼいう2種類の酵素の研究を行いました。当時は理論上は可能だが実現不可能という、言わば机上論だったのです。机上論を本当に成し遂げたわけですから世界中に衝撃が走りました。現在でもトレハロースは世界中で熾烈な開発競争が繰り広げられています。

具体的にトレハロースはどのような使い方がされており、また今後どのようにトレハロースが使われていくのでしょうか?ここからは用途と今後の展望の話です。

先程も書いた通り、トレハロースは食品科学の分野ではますますの活躍が期待されます。と言うのも食品添加物の中でもトレハロースは優等生です。それもそのはず、ありとあらゆる食品に対して有効だからです。トレハロースはスクロースの約40%といった、甘すぎず苦すぎずといった何とも絶妙なラインの糖であることに加え、トレハロースのもつ独特な風味が、他の栄養素(炭水化物・脂質・タンパク質など)に対して品質保持に役立ちます。他にも、強い水和性をもつので食品の老化に極めて強いです。水和性を利用した例として、干椎茸が水で戻るのはトレハロースの強い水和性よる現象です(いわゆる水和性を利用した復活反応ですが、これに関する研究も近年ちらほら見受けられます)。また、食べた際に臭かったり苦かったり、変なえぐ味があったりすると嫌ですよね。トレハロースには矯味矯臭効果もあるので、嫌な味を防ぐことも可能です。最後に、トレハロースは体内でグルコースに分解されるので体内に残る心配もありません。

意外なことに医療の分野でも大注目されています。既に幾つも例があるのですが、外科手術後のスプレー式の癒着防止剤、臓器移植の際の臓器保護剤(東大の獣医学研究所と株式会社林原による共同研究で上2つは有効性が確認されています)、ドライアイの点眼治療薬乾燥血液(先程説明した水和性が利用されています)、更には癌治療インスリン分泌(俗に言う糖尿病)の抑制などへの可能性等も示唆されています。

他にも高い水和性が生きるのは食品添加物と医薬品以外には化粧品育毛剤防臭シート、文化財保護の為の防腐剤などがあります。

糖類ってただ甘いだけじゃなくて、トレハロースのような少し変わった糖類もあるよ、って事を知って欲しかったので今回はトレハロースを題材に選びました。せっかくなら今後もこのような変わり種を紹介できたらな、って思います。

皆さまとの出会いに感謝、略してC₁₀H₂₂です!

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