見出し画像

概念の伝達の手段としての言葉

言葉とは音であり文字であり概念である。

概念は経験の積み重ねで意味を成してくる。 個々の経験は異なるものだ。
だから概念を伝えようとしたときに言葉を使用した場合、共通した経験をもとにした概念をもつ言葉を使用しないと伝わらない。
言葉を使用してもその概念が理解できないと結局は正しく伝わらないのである。

普段生活していて同じ母国語を使用していて言いたいことが伝わらなくてもどかしいときより、大体は伝わっていることが大半である。
個々の経験が異なっていても、いろいろな経験と言葉の概念が結びつきが積み重ねられると、共通の経験や、交流による概念の修正を重ね、個々で言葉の概念が形成され、共通の概念として意味が似通ってくる。

しかし、すべての言葉は個人個人で浮かんでくる概念は厳密には異なる。やはり個々で異なる経験から形作られる概念は異なる。
言葉は正しく伝わらない。受け取り方も千差万別なのである。
個々で形作られる人格や思考回路や感性が異なっていることも影響する。最初の第一印象や着想や発想が異なるからだ。
言葉が使われる状況にも影響される。やはり言葉を発する側と受け取る側では厳密には一致しない。

だからと言って概念が伝わらないかというとそうでもない。
なるべく正しく伝えようとするならば、最低限言葉の意味がイメージでき伝わるような多くの情報を付与する文脈や修飾語や状況を用いるのだ。
共通の言語ルール上では厳密な文章を用いて数理論理的に意味を伝えることができる。
一般的な言葉には一般的な概念が宿っている。物の名前など固定的なものほど対象を絞ることができるので概念を共有できる。
名前とは区別するためのものでもあるので当然なのだが、状況が限定されるほど、純粋なものほどそのものの言葉の指していることを表すことができる。

名には言霊が宿るという。心の内情をストレートに表現できた言葉にも言霊が宿るともいう。
広義ではすべての言葉と音階には言霊が宿っていると考えている。
神事において祓清めることが重要なのは、神様に心の禍の影響を与えないことも重要だが、心にある概念を正しく伝えることを必要としていることも関係している。

さて、では概念を伝えたいけど、その概念を知らない、現状理解できない人に伝えるにはどうすればよいか。
知らないことは愚かではない。相手が理解ができないのは説明が悪いというのもまた違う。
相手の持っている概念や言葉を汲み取り、それに合わせて咀嚼して説明することも技術が必要で、それなりの経験と語彙と感性が必要でもある。
そして、分かりやすく説明できたとしても正しく理解され伝わるとは限らない。経験がないものに疑似的な経験をさせているようなものだからだ。

自分にもはっきりと捉えきれない表現できない概念など伝えきれるものではない。 自分がどのような過程で経験で得た概念すらもはっきりしない状態では表現も難しい。

言葉で言いあらわせないけれども、体の動きや音楽や絵で表現できる人もいる。表現に至る過程で感覚的にこれは自分の表現したい概念と合っているか合っていないか判断し表現する。
つまり、表現の試行錯誤、取捨択一を感覚で繰り返し行うのである。
一方通行の表現に対し、受け取った側は言葉の場合と同じように受け取った側の経験により形成された感覚により解釈し概念化するのである。

それは言葉による伝達と本質的に変わらない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?