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ネットに見る日本語の新記法

 結論から言うと、日本語の文章の体裁が世代と状況によって異なってきたよねという話です。語彙や語法が変わってきているのは「若者言葉」というやつで相当有名になっていると思うんですが、記法の違いについてはあまり見たことがなかったので書いてみます。校正オタクなので多分長くなりますがご了承ください。

個人的な意見

 最初に断っておきたいのですが、僕はこういった新しい日本語に対して嫌悪感を持っているわけはありません。高校の英語の授業で習ったのですが、言語学者の仕事は従来の文法で説明できない世間の言葉を批判することではなく、新しい話し方もカバーできる文法理論を構築することだそうです。ここが日本ではなくフランスやドイツ、北欧などであれば国家機関が言語の質を維持するらしいので(フランスの Académie françaiseアカデミー・フランセーズ などが一例)、この話も通じないのかもしれませんけどもね。

 話がそれますが、僕は「ら抜き言葉」は文法として成立していると考えています。助動詞「られる」がカバーする範囲は受け身、自発、尊敬に限られ、可能の意味を示す場合は「れる」を用いるのだという風に認識しているわけです。こんなどうでもいい前置きはさておき、それでは本題に入りましょう。

僕の知識の中にいる理想の体裁

 まぁ中学校でもらった副教材の小論文パートや小学校でもらった国語の教科書のコラムなどで知ったものですので皆さん当たり前だと思っていることばかりなのではと考えていますが一応書いておきます。

① 意味段落
 文章の最大要素。トピックは唯一に固定されていることが望ましい。
② 形式段落
 先頭にインデントを含み、末尾で改行が行われる外見上の最大要素。通例1〜3つで一つの意味段落を構成し、各意味段落はトピックの抽象説明や具体例の提示など、単一の役割を持つことが望ましい。
③ 文章
 末尾に句点などの役物を持つ最小単位。通例4〜6つで一つの形式段落を構成し、50文字以下で一文とするのが最良とされる。文章内の読点は1〜2つ程度が読みやすい。

 大まかにこんなものかなと思います。いろんなところに異論をはさむ余地がありますが、それでも大きく外れたことはないと考えています。

ネット民の文章体裁

 ネットの文章と言っても様々ありますが、今回はブログやネット小説、まとめサイトといった文章が主眼のコンテンツを参照しています。

 そういったコンテンツのほとんどが、一文がインデントのない段落を構成するスタイルを取っているように感じます。横幅の狭いスマホで読んだときに読みやすいからだろうと思います。スマホより液晶が荒く1行に書ける文字数が少なかった携帯電話の時代で、読点で改行する文化があったことが一番の証拠でしょう。今では「おじさん構文」とかいって親しまれている(?)ものですが、その本質は横に表示できる文字数が少ないことや、文字だけでは感情が伝わりにくいことに対する配慮です。

 おそらく、この記法は今後メジャーになっていくと思います。理由は明白で、紙からパソコンへ、パソコンからスマホへと横方向に表示できる文字数が少なくなってきているからです。最終的には、LINEやTwitterで見られるような句点のない文章が一般的になりうると考えています。そういった世界では、現在の句点は改行が、現在の改行は空行が地位を引き継ぎ、改行後のインデントはなくなるでしょう。空行が段落の切れ目ですから、空行こそがインデントの役割を果たすわけです。改行後のインデントがないのも何らおかしいことではありません。

高校生の文章体裁

 一方こちらは、卒業アルバム委員の社畜担当として校正をしまくった第3学年435人の卒業文集を参考にしています。まぁ1割くらい出してないのがいるので見たのは380人強なんですけどね。本校、どんなに民度が低いとはいえ腐っても偏差値72ですので多くの生徒がそれなりに読める文章を提出してくれました。文章そのものは確かに読ませるものもあったんですが体裁がひどいものでして、何度ももったいないなぁと溜め息をつきました。

 話がそれますが、卒業アルバムの校正は基本的に「筆者の意思を最大限尊重し、甚だしい誤字や誤文法に限って本人の同意を得て訂正する」という方針を取っています。受験生の身で400人分の細やかな配慮を提供するのは負担であるとか、どうせひねくれた奴らしかいないしアドバイスなんて聞いてくれないだろうとか、まぁいろいろと理由はあるんですが、こまごまとしたことはそうそう言えないという状況にあるわけです。

 話を戻します。校正していて多かったのは、400〜500文字くらいの文章を一つの形式段落で書ききってしまう文章。いややばいやろ。普通200文字くらい書いたら流石に段落変えると思うんですけど。同じくらい多かったのが、段落頭のインデントがない文章。英作文の授業でも口酸っぱく「インデント入れろ」と指導を受けているはずなんですけど、なんで日本語でできないんですかね。

 また、同じくらい多いって言い方から察していただける方もいらっしゃるかもしれませんが、往々にして両方の属性を兼ね備えた文章がゲラの中に鎮座しています。空白もなく唐突に文章が始まり、一息もつかせずにガッツリ1分半も語られてそれっきり(会話スピードは分速300文字くらいなので400〜500文字の卒業文集なんて90秒のスピーチみたいなもんです)。なんて奴だ。僕らは受験国語の採点をやってるわけじゃないんですが。

 きちんと分析したわけではないんですが、このタイプの文章を書く方は意味段落で段落を切っているんだと思います。インデントがないのは先にも言った通りインターネットの影響でしょうかね。近い将来、抽象説明、具体化、例示といったトピックの各要素が同じ段落に同居する日が来る……わけないか。そういった文章はどちらかというと近世以前の過去の遺物であるような気がします。

文章体裁の歴史と展望

 平安時代や鎌倉時代、一文は連結して筆記され、筆の流れが止まったところが一文の切れ目でした。古文の授業で扱った文章を見てみれば分かりますが、一文が異常に長いのは当時の文章の特徴です。源氏物語の第十八帖『松風』第一章第六段「明石入道の別離の詞」なんかを見ると最初の一文がいきなり500字超えてくるのを拝めますから、いかに当時の文章が長かったかが分かるかと思います。

世の中を捨てはじめしに、かかる人の国に思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふやうに明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもやと、思ひたまへ立ちしかど、身のつたなかりける際の思ひ知らるること多かりしかば、さらに、都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて、貧しき家の蓬葎、元のありさま改むることもなきものから、公私に、をこがましき名を広めて、親の御なき影を恥づかしめむことのいみじさになむ、やがて世を捨てつる門出なりけりと人にも知られにしを、その方につけては、よう思ひ放ちてけりと思ひはべるに、君のやうやう大人びたまひ、もの思ほし知るべきに添へては、など、かう口惜しき世界にて錦を隠しきこゆらむと、心の闇晴れ間なく嘆きわたりはべりしままに、仏神を頼みきこえて、さりとも、かうつたなき身に引かれて、山賤の庵には混じりたまはじ、と思ふ心一つを頼みはべりしに、思ひ寄りがたくて、うれしきことどもを見たてまつりそめても、なかなか身のほどを、とざまかうざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君のかう出でおはしましたる御宿世の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまはむも、いとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たてまつらざらむ心惑ひは、静めがたけれど、この身は長く世を捨てし心はべり。君達は、 ……(中略)……はべりぬべき」とて、これにぞ、うちひそみぬる。

引用:源氏物語を読む 松風 まつかぜ
出典:源氏物語 第十八帖 『松風』
※太字強調は引用者によるもので、平安期の文章の中でも特に長いことで知られる一文。中略部分も引用者による。

 時代が下って活版印刷などが登場してくると、それぞれの文字が分かれて句読点が打たれるようになります。詳しい理由はさておき、文章の長さも短くなっていきます。そうして形式段落は200文字を目安に設けられるようになり、40秒ほど続く筆者の自己主張に耳を傾ければ取りあえずは改行した後の何もない部分、生成りの休憩が保証されるようになりました。

 文字の埋まっていない空間は、後の時代になればなるほど増えていくのが大まかな潮流です。短文化、役物省略、空行挿入の書風がネットを通して人権を得つつある今こそ、日本語が新たな体裁に身を包む過渡期なのかもしれません。僕自身はそういった新進気鋭の風潮に対しては自分から飛び込みに行くほどの支持をしておりませんから、noteでは学校で習った由緒正しい記法に沿って自らの趣味を綴り、静かに日本語の行く末を眺めてみたいと考えています。

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