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2月と閏年

 記事は約4分強で読めます。全2207文字。

 大学受験における「運命の2月」も終わり、とうとう3月になってしまいました。3月といえば卒業と別れの季節として知られていますが、今回はあえて2月に目を向けてみます。2月は1年で最も日が少ない月で、約4年に1回「29日」が訪れる不思議な月ですよね。なぜこのような不思議なことが起こるのか調べてみました。

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 この記事では、現在の暦ができあがった由来とそれにより発生した不可思議なことを解説しています。今回の記事はここから発展したものでもありますから読んでいただけると理解しやすいと思います。

2月に置閏する理由

 関連記事にもあるとおり、現在の暦はキリスト教社会で定められたグレゴリオ暦であり、これは古代ローマの暦に由来します。それゆえ2月に置閏するわけもローマ暦に端を発しますので、ここではローマ暦を紐解きながら疑問を解決していきます。

 今ではローマ帝国という呼称で知られるローマも、初期は王政でした。ローマ神話と融合して真贋区別が難しい伝承であふれる王政ローマですが、ここでは2つの暦が生まれたと考えられています。

 1つ目は、紀元前753年の建国時に初代国王ロームルスのもとで採用されたロムルス暦です。これはちょうど304日の有暦期間と60日程度の無暦期間で構成されており、春めいてきた適当な日に王が新年と畑仕事の開始を宣言することで1年が始まるしくみでした。冬に60日程度の無暦期間があるのはロムルス暦が農耕暦であり農閑期は日を数える必要がなかったからです。

 しかしそんないい加減な暦が長い間使われるわけもなく、わずか40年ほどで第2代国王ヌマ・ポンピリウスによって2つ目の暦であるヌマ暦が公布されます。これは太陰太陽暦の一種です。この頃もまだ春の初めが年の初めとされていましたから、年の終わりは今の2月に相当する月でした。

 今の2月が1年で最も日が少ないのも、29日の置閏が行われるのも、全てここから来ています。1年の終わりである今の2月に全ての帳尻を合わせていたのです。

古代ローマの戦争と政治

 では、なぜ年の初めは今の3月から今の1月にずれたのでしょうか? それはローマの長い歴史を追っていくことで判明します。

 王政ローマ初の完全な暦となったヌマ暦は、紀元前509年に王政が崩壊し共和政ローマが成立してからもその正確さゆえに使われ続けてきました。そうして何百年と経ったある年、暦を変えなければならない事態が訪れます。

 紀元前201年、第二次ポエニ戦争終結。ハンニバル将軍率いるカルタゴにイタリア半島全土を蹂躙され、やっとのことで彼らをアフリカに追い返した大戦争が終わりを迎えます。

 そんななか、両国の疲弊を尻目に第三勢力が台頭した地域がありました。それはヒスパニア。現在のスペインやポルトガルが存在するイベリア半島にあたる地域でした。カルタゴからアフリカ大陸以外の支配権を奪い取ったローマでしたが、イタリア半島を拠点とする地理的特性上、ヒスパニアでは地中海沿岸でしか実効支配できませんでした。

 紀元前181年、ヒスパニア北東部、イベリコ山系に居住するケルティベリア(ケルト=イベリア)人が土地問題からローマと敵対し、第一次ケルティベリア戦争が始まります。これは前179年までにローマによって鎮圧され、ケルティベリアの民はローマに服従することになりました。

 紀元前155年、ヒスパニア西部のルシタニア人による略奪への反撃からルシタニア戦争が始まります。それと時期を同じくして前154年末、ケルティベリアが条約に違反して都市セゲダに城壁を築き始めます。外交交渉も決裂しており、ローマは城壁の完成より前にセゲダに向かわなくてはならない事態を迎えました。

改暦、年始の移動

 共和政ローマの政治を主導するのは1年ごとに交代する執政官コンスル。年初めに選出・任命される最高職です。しかし、紀元前153年の執政官選出を待って、春になるのを待ってから軍事行動を起こしていてはセゲダの城壁完成に間に合いません。

 ローマはやむなく、年始を2ヶ月早めて新たな執政官の就任を行いました。紀元前153年、第二次ケルティベリア戦争(ヌマンティア戦争)勃発。この戦争は紀元前133年まで続き、春に軍事作戦をとるためにこの約20年間ずっと年始が2ヶ月前倒しされ続けました。そうすると年始の前倒しは新たな慣習となり、これが改ヌマ暦として紀元前153年より施行されたものと扱われるようになります。

 第二次ポエニ戦争より後に行われたこれらの戦乱は「ヒスパニア征服」とまとめられ、ローマが長期間にわたって遠隔地で戦闘を行った歴史の転換点として、こうして暦に大きな爪痕を残すことになりました。

 また、このように「暦を政治的要因で改変してよい」という実例が一度でもできてしまうと、そのあとも為政者の都合によって操作されてしまうというのが世の常です。改ヌマ暦も例外ではなく、最終的には1月が秋に来るようになってしまいました。これより後の改暦については関連記事をご覧いただければ詳しく載っています。

さいごに

 今回は2月が特殊な月であると、理由を解説しました。この記事がいいなと思った方はスキフォローシェアなどしていただけると励みになります。よろしくお願いします!

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