「子どもの目」と「玄人の目」

 以前、隣保館に配属になったとき、地域の小学校の先生に招かれて、その先生に社会の時間を一時限をいただいて話をしたことがあります。ぼくが海外旅行にカナダに行った直後だったので、最初、カナダと日本の関係ということで、木材や穀物が日本に輸入されていること、それがみんなの住んでいる家の材木やお菓子の材料になっていることを話しました。が、ちょっと反応がピンとこないなぁと思い、授業中に一計を案じました。

 カナダでぼくが旅したのは、モントリオールとその周囲でした。あの辺りは、北米唯一のフランス語が通じる地域で、街の看板はフランス語をメインにして表示されています。「これだ!」と思い、世界には、二つの言葉を同時に使い分けている場所があること、日本でいうと韓国語と日本語を隣同士で使い分けているようなところがたくさんあること、また、フランス語特有の数の数え方などを話しました。すると子どもたちの目が輝き始め、最後はかなり盛り上がって「授業」を終えることができました。

 前置きは長くなりましたが、子どもたちは残酷なまでにいいこととわるいことを見分けたり、ことの本質を見たり、また大の大人がたじたじになるような質問を発することがあります。それがゆえに、日本語(や韓国語・中国語)といったアジアの言語で「90」(きゅうじゅう)を「9が10個」と簡単に言うのに、なぜフランス語では quatre-vingt-dix(カートル・ヴァン・ディス。4かける20と10)というのかに彼らは飛びついたわけですが、自然科学・社会科学問わず、すべからく学問の始まりというのは、そもそも論を元にして始まっているのではないかと思えます。

 もちろん、語学などは「決まってるからそうなのだ。覚えるしかない。」といえば終わりです。ただ、前述のフランス語独特の数の数え方がなぜそうなったのかを調べていると、たとえば元々ラテン語だったものがヨーロッパ北部で20進法を取っていた古代ケルト系の言語に影響されるなかで大きい単位の数字にその痕跡が今なお残っていたのではないかという推理が成り立ち、そこからさらに言語のダイナミズムを知ることができたりということができます。

 それがたとえば玄人の「先生」と呼ばれる権威を持った人の話になってしまうと、素人がおかしいなぁと思うことを「無知だ」とか「わかっていない」とか「バカはこれだから・・・」という上から目線になりがちです。しかし、専門家が出す結論がどうにもおかしい場合に、素人が「そもそも論」に帰って考え、それを専門家や権威やプロが再考したばあいに、新しい考え方が生まれるということは、多々あります。

 もちろん、玄人の考え方というものは、長い歴史のなかで蓄積されてきた部分もあります。一見おかしなことであっても、意味がある場合というのも当然あります。ただそういうものは、常に素人の目で監視されなくてはいけないのではないかと思えます。原子力の権威がいかに「原発は安全だ」といっても、一般庶民の感覚として、また子どもがみてどうしても変だという感覚を大事にしていれば、専門家が「想定外だ」といった東日本大震災の原発禍は起きなかったのではないかと思えます。

 こういう感覚を、英語では「コモンセンス」というと聞きます。だれが聞いても納得出来る知見。大事にしたいと思います。

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