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あの日の続き

逃げた魚をはじめた頃
ライブは一年に一回ワンマンライブだけやると決めて、活動をはじめた
ライブハウスじゃなくて、リハスタで小規模に、配信メインでとか色々考えるくらいには、僕はライブハウスが怖くなっていた

7年前の寺田町Fireloopで、僕らはレコ発をした 関係者はもちろん、フォロー外の人にも告知DMをしまくった 結果的に黒字が出たものの、それは自分達の実力と思うことは出来なかった それよりも、営業DMやビラ配りをすればするほどに擦り減ってしまった心に気がついて、この先もこれを繰り返した者だけが世に言う成功者になれるのだなと、さらにこの業界の過酷さと厳しさを目の当たりした気分だった

そして、僕にもなんやかんやあって、コロナで生活が一変して、多くの人がライブハウスを離れていった 僕もその1人だった

そして、この1年
数えたら26本のライブをしている(予定含め)
アサモドキが最もよくライブしていた時期と同じかそれ以上にやっている

それと同じくらいに、ライブハウスにも足を運んで音楽を楽しんでいる

なんだこれ?俺やっぱりライブ好きなんじゃん

住んでいた場所も関係しているとは思うけれど、あの頃はとにかく無理をしすぎていたんだと思う 営業DMなんて当たり前だと思う人もいるだろうし、月2本ペースとか少ないと思う人もいるだろう

だけど、これが僕が楽しいと思えるペースで、人生かけて続けられるスピード感なわけで、他人の物差しや社会や常識に合わせていると、どんどん息切れしてくるのは当たり前だ

特にライブハウスにはノルマや箱代というものがあるし、商売である以上一定の負荷
を心にかけて頑張らないといけない
結果が出なければ、お金がなくなって、どんどん活動ペースは落ちるし、モチベーションも下がっていく

だけど、その心の負荷のかけ方を間違えると、きっと良くないことしか起きない
その負荷が心地良いと感じる人と、同じ負荷でも耐えらない人もいるのだ

僕はそれを見誤ってしまったから、ライブハウスが怖くなった 迷惑をかけてしまうことが怖くなった

それでも、今年に入ってこんな僕に連絡をくれたライブハウスがいくつかあって、その内二つは毎月呼んでくれるほど

だから、僕もなんとか怖い心を克服しようとして、月2本はライブをすることを目指した

ほとんどの公演で、集客は0だった
だけど、来てくれた知人や家族もいた

そんな中で、Fireloopでの企画を決めた
安井さんは快くやろうと言ってくれた

そして、埼玉へ行った時に、今度は大阪へ行くよと言ってくれたアラレループが最初に決まった

恩人である、それでも世界が続くならは活動を休止してしまったが、しのさんは「お前の企画なら絶対出る」とソロでの出演を決めてくれた

安井さんの関西勢も1組欲しいよねという言葉で、真っ先に思い浮かんだのがモケーレムベンベだった
僕にとっての大阪代表は彼らしかあり得なかった

かくして、関東vs関西 2on2 の4manライブが決定したのだった

人間が怖くて塞ぎ込んでいた自分を、連れ出してくれたのもまた人間だった

だから、僕は人間が嫌いで人間が好きだ
そんな音楽が好きだ

もう、思い出したくもない場所かもしれない 若気のいたりだったと、鼻で笑うかもしれない 満たされて幸せで、もう音楽は必要なくて、それより守るべき人や大切な人をみんな見つけたのかもしれない

もう僕が何を歌っても君には関係ないかもしれない 

それでも、あの日は確かに存在して、あの日に確かに終わって、そして始まったんだよ

僕はそんな当たり前の日々の続きを、これからも歌うだけ

君のあの日の続きも聞けたら嬉しい

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