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死を待つ人々の家でボランティアしてみた in インド

中学の時に英語の教科書に載ってた場所。
マザーテレサの聖地コルカタ。
仕事するのをやめて家で腐ってるだけの毎日で思った、「インド行くしかない」。

最初の目的地はずっと行きたかった死を待つ人々の家って決めた。
なんの生産性もない毎日で、せめて人の役に立ったという満足感を得たかったのかな。アラサー女の体験記です。

ちなみにインド行くまでの謎経緯はこちら👇


覚悟がない

貧しい中でも最も貧しい人のための場所。

そんな場所に、行けるのか?
不安だった。
正直向き合える気がしないし、
衛生面、臭い、環境、人々の姿などなど…
行っても耐えられないかもしれないと思った。現地の人には悪いけど…。

でも行かないとわからない。
しかもせっかくコルカタ行って、聖地行って、
それで参加しないって勿体無いのかなぁ。

まああんまり考えても仕方ないし、分からないし、
とりあえず1日行ってみようかなぁ…。
などとごちゃごちゃ考えながら、結局早起きして施設に向かった。

参加してみて

別にインドに行かなくてもボランティアはできるよなと思った。というか、気づいた。日本でも人の役に立てるじゃん。

マザーテレサのボランティアは、自主性が求められるし説明や指導も何もない。
見よう見まねで雰囲気に合わせて動く感じ。

だから、裏を返せば自分ていなくてもいいよなって思った。やってもやらなくてもいい仕事、それをやる。
それでも、人のためになれるのは嬉しかった。
そんなので喜びを感じる自分が少し気持ち悪かったけど。

だからこそ、日本に帰ったら自分にしかできない、自分の専門性やスキルや才能を活かしたことをやるべきだと思った。
ボランティアでは、誰がやっても同じ仕事だと感じたから。自分の価値を出せることをやりたいと思った。

仕事でもいいし、家族に対してでもいいと思う。
その時は家族のために何かしたいとふんわり思った。誰かのためになるなら、家族のためがいいかなって。

それは、母の日に特別で高価なプレゼントをあげるのではなく、
「片付けて!」って怒られないように日々部屋を綺麗にしておくみたいな、
相手が本当に求めていて毎日が心地よくなれるようなことに対する小さな努力を日々すべきだという感覚。
座っている時にどちらかが立たなければいけないなら、面倒でも自分が立とうという気持ち。

今日も同じ日々を繰り返す施設の人たち

ふと思ったのは、施設の人たちの人生について。
色んな国のボランティアの人がひっきりなしにやってくる毎日。
うざくないか?普通に。

同じ時間に食事をとり、
毎日同じ布団から見上げる同じ天井。

一歩外に出ればあのカオスのインドで人々はうじゃうじゃ活動してるのに、
自分はその音を聞きながら横たわるだけ。

そんな生活なのかなぁ、分からないけど。

マザーテレサの功績

テレサって、黒い噂があるよね。

人身売買に関わった、苦しんでる人を放置した、
自分だけ痛み止めを使った、お金を不正利用した、などなど。

まああり得るのかなぁと思った。
テレサだってシスターだって人間だし。場所はインドだし。

それでも、毎日数十人の人がインドの首都でもない場所に毎日毎日集まって人々のお世話をしてる。お金を寄付してる。

テレサが大切にしていたのは、
死にゆくその瞬間に、見届けてくれる人がいるということ。

そのための施設が今でも継続していること自体が彼女の立派な功績なんだと感じた。

🔗インド行くまでのストーリーはこちら👇


白い布は修道服ではなくサリー

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