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犬山まちづくり自主学校(第3期) 第2回「ジェンダーと家族・社会の関係は?」

2月18日(日)まちづくり自主学校(第3期)第2回「ジェンダーと家族・社会の関係は?」開催しました。講師は名古屋大学法学部で政治学を教えられ、熟議民主主義やジェンダーについても研究されている田村哲樹さん。田村さんは名古屋大学の男性職員で初めて育児休業を取得され、愛知県の「あいちイクメン・イクボス応援会議」座長も務めていらっしゃいます。


家族とはどんな関係・場所なのか

まずは家族とはどんな関係・場所なのかということを確認します。
「家族」には、仲がよくて、愛情に満ちて、明るく、居心地がいい場所といった「よい」イメージがある一方で、仲が悪いといらいらや文句をぶつけたり、一緒に住んでいても無関心や孤独があるといった「悪い」イメージもある。
 
どうして「よい」「悪い」の両方があるかというと、家族のメンバーも「他者」だから。一緒に過ごすことで共有する経験や事柄が多いことから、「よい」イメージが生まれやすいが、お互いの別々の人生を尊重できないと「悪い」状況が生じやすい。「家族」だからよいはずという想定が強いと現実とのギャップが生まれがち。
なので、互いに異なる個人をまとめ「家族」であるためには絶えざる「調整」が本来は必要となる。この調整が民主主義と関わってきます。 

家族間でのジェンダー

このとき、家族のなかで一人一人が個人として認められていればよいのですが、そこにジェンダーの問題が関わってきます。家族メンバーの言動も、ジェンダーによって規定されている面がある。
その背景には、私たちが(半ば無意識に)共有している、「男は仕事(優先)、女は家庭(優先)」という社会的な規範があります。ジェンダーとは、こうした「性」(の区別)に関する考え方やイメージのことを指します。
 
こうしたイメージや考え方は、「社会的≒言語的」なもの。
だから新たな言葉、意味付けによって変わり得る。
その例として挙げられたのがアメリカ公民権運動のキング牧師の例です。キング牧師は「黒人も白人も、同じ自由で平等なアメリカ人!」という意味づけを提起することで、黒人対白人の対立ではなく、自由で平等なアメリカ人としての理想についての話に切り替えます。
ジェンダーについてもこうした意味付けの変化が可能なのではないかと田村さんは話します。

「調整」としての民主主義

そして、「個人化」した家族において、「悪い」面を回避するには、家族メンバー間での調整が必要になる。調整においては、そこにジェンダーによる思い込みが働いていないかもチェックしながら、家族メンバーが納得できるような選択肢を可視化していく必要がある。
「みんな」に関わる問題(もめごと)を「みんなで(みんなが納得できるように)決めること」が民主主義の原理ですが、家族においてもそれは不可欠です。
 
そのために大事なことは、
1)「問題」を声に出すこと、そして、出された声を聞くこと
2)自分の意見や考えを見直すこと
3)その結果として「みんな」が納得できる「答え」(決定)を見出すこと
 
そして、家族においては、ジェンダーだけでなく、親子関係にもいろいろな問題がうまれがち。子どもも民主主義を行う「私たち」のメンバーとして対等に意見を聞くことが大事です。

民主主義はコーヒーの苦味のようなもの?

最後に、民主主義は「魅力的ではない」というお話しが印象的でした。
民主主義は「わたし」の希望がそのまま叶うとは限らないもので、むしろそれを(納得できる形で)「手放すこと」が求められています。
コーヒーを「おいしく」味わうように、単純なおいしさではなく、苦味のようなもの。でも、それがあるからこそコーヒーはおいしいと思えるわけです。
社会や民主主義とは一見関係ないように思いがちかもしれない「家族」という場も社会であって、絶えざる言語化と「調整」と民主主義によって作り直されていくもの。めんどくさいものではあるけれど、それがあるからこそ味わい深いものになるのかもしれません。

対話のテーマ「自分さえよければってどうして考えてしまうんだろう?」

講座のあとは休憩を挟んで哲学対話(進行役:犬てつミナタニアキ)を行います。
田村さんや自主学校スタッフ、市役所職員さんも参加者として輪に加わってもらいます。
テーマは「自分さえよければってどうして考えてしまうんだろう?」

このテーマを選んだ理由は、自分さえ我慢すれば場が丸くおさまると考えて、家族のなかでも言いたいことを言わないでいるという状況を耳にすることがよくあったからです。家族のなかでも問題点を言葉にして調整することの大切さは学んだけれど、でも、ついつい、自分さえ我慢すればと言いたいことを言わないことがある。それってどうしてそうなるんだろう?ということをじっくり考えてみたいと思いました。

参加者の方々からは具体的な経験を交えながら、こんな話があがりました。
 
・雰囲気が悪くなったり、争いを避けたいから。
・絶対にやりたくないというわけでもないから(実際にやってみたら楽しいこともある)。
・自分の気持ちは言うべきではないと思ってきた。
・自分の意見を言ったときに反論されるのをおそれている。
・自分の気持ちを出すのが苦手。
・我慢は悪いことではないと思っている。ちょっとの我慢はいいことをしていると思える。
・相手のことを思い遣るようにと教えられてきた。
・何かをしたいというのはわがままだと思っていた。
 
いろいろと理由はありますが、前回の「同意」の対話「どうして親や親しい人にはNOと言いづらいんだろう」でも出てきた、我慢することが優しさや美徳とされている文化の問題がここでも関係しています。
 
さらに、相手のことを思いやるようにと言われて育ってきているけれど、相手が本当に何を思っているかはわからないので、理解したつもりで勝手な憶測でやっていることも多々あります。それがお互いにストレスをためる原因にもなっている。そこを我慢や憶測ではなく、言語化と調整にシフトしていったとしたら、どういう社会が生まれるでしょう。
めんどくさいかもしれないけれど、味わい深いものになる?
それともやっぱりめんどくさい?
 
そのときにやはり大事になってくるのは、「同意」の回にも確認した、すべての基本にあるのは、「あなたのからだも、こころも、あなたのもの」。自分が好きなものを好きと言っていい、自分でどうしたいかを決められるという前提でしょう。
そして、その自分の「好きなこと/やりたい方向」を言えた後でも、「調整」は必要で、その結果としてその思いは通らないかもしれないけれども「納得できる」可能性にひらかれていく。それが今求められている民主主義のかたちだと言えるのではないでしょうか。
 
家族であっても、そうしたかたち(関係性)を作り上げるには練習が必要です。慣れないかもしれないけれど、一つ一つ思いを口に出し、(骨が折れるかもしれない)調整を繰り返していった社会を、みんなで目指していこうというのが、この「みんなの社会部」の活動でもあるのだなと改めて感じさせられる時間でした。
 
講師の田村さん、ご参加のみなさま、ありがとうございました!

次回は3/10「男女共同参画ってそもそも何のこと?」講師は同じく田村哲樹さんです。
みなさまのご参加お待ちしております。


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