知っているけれど行ったことのない場所のイメージ、あるいは光が丘を失うこと
平日の昼間にカフェでお茶するマダムたち、
買い物に興じる家族連れ、
なんとなく平和な日本の日常の光景。
どうして仕事もなく、
飲んだ翌日に昼まで散々寝て、
今は光が丘なんかにいるんだろう。
いや、つまり流石に光が丘なんて。
まあいいや。高島平じゃないし。
喫茶店に入り、トーストに齧り付き、コーヒーを啜る。時刻は午後3時39分。
気分はまだ朝ごはんだ。
やりたいことをやり終えて、書きたいことをやっと書き終えて、
帰りのバスに乗ると窓の外にはすっかり暮れきった街並み。
雲の向こうにほんの少しだけ残った光の残滓と、
これからやってくる弱い雨を予感させる柔らかい匂いが美しい。
終点の一つ前、
バスを降りると、
少年が歩いてくる。
落ち込んだ様子で。
少し過ぎた後で、誰もいない公園。寂しげに乗り捨てられた少年の自転車。
自転車の鍵を無くして、家路に着く気分はどんなものだっただろう。
せめて、夕焼けのオレンジ色がまだ眩しい時間に帰宅できていれば良かったのにな。
思い出にもならないくらい、外はもう暗い。
そんな風景を見て、考えていた。
たぶん多くの人に、知ってはいるけれど、
一度も行ったことがない場所というものがあると思う。
遠く異国の都市ではなく、例えば身近な街なんかで。
例えば東京の郊外の大きなショッピングモールを備えたベッドタウンとか、
例えば埼玉の昔からの街並みが有名なちょっとした観光地とか、
どこでもいいけれど、アド街ック天国で見ただけの街。
まだ行ったことのない場所。
そういった場所のイメージ。
そうしたイメージは実際に訪れると、
イメージ通りだったり、まるで違ったりする。
まあそれはそりゃそうだから、どうでもよくて。
つまり、大人になるにつれて頭の中のイメージしかなくて、
実際に行ったことのない場所というのが減っていくということ。
光が丘は得体の知れない謎の新興ベッドタウンだったのに、
今じゃ近所のちょっとした買い物先になってしまった。
高島平も得体の知れない謎の新興ベッドタウンだったのに、
板橋区内でリーズナブルな家賃の、穏やかで少し油臭い空気の流れる元自殺の名所だと今は知ってしまった。
実際とはきっと違うけれど、
イメージの中にしか無い場所がある。
そうした場所に行くと、
現実がイメージを上書きしてしまうから、
イメージの中にあった街は消えてしまう。
だからいつか行ってみたいなと思うようなあの理想的な場所は、
つまり、春の暖かい日差しが照らす綺麗に刈られた芝生を備えた団地で、404号室の住人が冷たい麦茶を出してくれて、久しぶりにあったからと雑談の中で近況をお互いに話し合うような場所は、
存在しないということ。
あるいは仮に存在していても、実際に訪れれば消えてしまう偶像だということ。
光が丘からの帰り道、そんなことがふと頭をよぎった。
新しい場所にいくことは、
実はポジティブなことばかりでなくて、
一つの場所を失っていくことでもあるのかも知れない。
たぶん大人になることの悲しみの一つがそこにある。