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ゴールデン街奇譚

ゴールデン街飲み歩き

最近、ひょんなことからゴールデン街で飲むようになった。

日々飲み歩くというような程のことではない。ただ、仕事や何かで近くに寄った際に、一軒二軒と店を訪ねて、数杯の酒を飲んで帰るというだけだ。

そうした飲み方がうまくいかない時には、気づけば朝ということもないではないのだが。

ほとんどは酒を求めているというよりは、
店に立っているスタッフの変わらぬ顔を見るためと、
入れ替わり立ち替わりの酔客たちとの愚にもつかぬ話から、時に一等真剣な話などを交わすためである。


頻出の常連

“客とも友達とも家族ともつかないへんてこな関係をゴールデン街では常連と呼ぶ。”
『新宿ゴールデン街物語』解説より

ゴールデン街は不思議な街で、店番のスタッフやお店のマスター以外にも見知った顔にあまりにも頻繁に出くわすこともある。いわゆる常連という人種だ。

不思議なのは、彼らには同じ店ではそうそう出会わないことだ。
たいてい前とは違う店で再度遭遇することになる。ゴールデン街には、100軒以上はバーが軒を連ねているはずだが、狭い世界でもあるのだ。

それでも違う店で一度会った常連客と何度も出会うというのは奇怪なことだが、
よもや夜な夜な種々の店で飲み歩き、今日はこの通り、明日はこちらという具合で1週間で全店舗を踏破するような猛者ばかりが常連になれるという訳でもあるまい。
そもそもそんな猛者は存在しないだろう。

なんて思っていたが、あるスタッフに聞くところによると、どうやらいわゆる客の層によって行き先の店がある程度決まっているらしい。
あの店で飲んでいる人たちはこことここでもよく飲む、というように。
結果、同じ雰囲気の店を好むもの同士として違う店で再会することになる。

不思議なのは、たまには新しい店を開拓しようと思って入った店が、案外行きつけの店との間で客の出入りがある店であったりするということだ。

はたから見て何か共通点があるという訳でもなく、むしろ外からは他のどの店をみてもどれも同じようでいてどれも違う店にしか見えないというのに。

そんな訳で、ゴールデン街で飲んでいると、こうしたよくいる常連と何度も顔を合わせることになるが、再会して相手が自分のことを覚えている確率は半々といったところだ。酔っ払いはやはり酔っ払いである。

とにかく、こうした常連客との邂逅や、
近年爆発的に増えている外国人観光客との不可思議な国際交流(ゴールデン街は今や非常に有名なツーリストスポットらしい)、お店の人とのたわいない会話や、時々訪れる意味不明なくらいに魅力的な人々との出会いがゴールデン街で僕がこれまで見つけた主なものたちだ。


謎の美女?

そんな風にして飲むようになってまだ間もない頃のことだ。

初めて入った一階の店で、1人ダラダラと飲んでいたら、外国人が大挙して店にやってきたことがあった。

どれも同じ国から来た同胞らしく、酔いも相当に回っているのもあるが、何せその数の多さによって、ただでさえ狭い店内を埋め尽くしてしまった。
(彼らは中国人でもインド人でもブラジル人でもなく、ヨーロッパのある種フリンジと言った国の人たちだったがとにかく数は多かった・・・)

店の人を気の毒に思いながら、なんとなしに彼らの話し相手やちょっとしたドリンクを冷蔵庫から取って出してやるといった客なのか店の人間なのかわからぬことをしていると、
あっという間に時間は溶けてしまい、終電の時間をすっかり過ぎてしまっていた。

こうなると、もはや何時に帰っても同じことなので、勘定を全て当の外国人酔客につけてまたしばらく飲んでいたのだが、彼らも宵の興が乗り切ったところで、
1人また1人と嫌そうな顔をしたドライバーのタクシーに乗って帰っていった(タクシーを拾うのを3回も手伝わされた!)。

さて、流石にそろそろ帰り支度をと思った矢先に、今度は日本人のなかなか興味深そうな御仁が来店されなすった。若い男を1人連れた中年の男性で、店員との話し振りを聞くと、久しぶりに飲みに来た常連といった様子だ。

ゴールデン街のバーはどこも狭く、客と言えば寂しさを紛らわすためだろうか、人と話に来るような人たちである。というか他の客と喋らない方が非常識でさえあるかもしれない。だから当然のように、1席空けて隣に座ったその御仁は僕に対して気持ちよく酔いの回った口調で話し始めた。

こういう場合の困ったあるあるが、またこの話がこちらとしても興味深く、大変盛り上がることだ。この時もその例に漏れずであった。後に素面の状態で思い出してみれば、なんのことはないよくある仕事論の吹っかけあいでしかなく、早く帰って睡眠に当てた方が有意義であったりするのだが。

しかし実はここで語りたいのは、
その御仁の来店の直前に店にやってきた女性のことなのだ。

外国人の団体が軒並みタクシーに飲み込まれていったあと、
すぐにやってきたのは、驚くほど艶美なショートカットの女性だった。

見かけは若いがその所作などから見ると30歳前後だろうか。

彼女の豊かさを演出するように体にピッタリとフィットしながらも、
内面の穏やかさを表すようなゆったりという印象も同時に与える黒いワンピースを白いダウンジャケットの下に着ていた。まだ薄寒い春の口だったのだ。

髪はよく整えられた栗色のショートカットで、
天から与えられた(あるいは今朝自分で塗った3千円くらいのオイルによる)
程よい艶が子どもらしくなりがちなその髪型の中に大人の女性の魅力を形として留めていた。

顔かたちは整っているものの、
特別抜きん出て美しいという訳ではなかったのだが、場所・時間・服装・髪型・所作や表情といったもの(いわゆる雰囲気と訳されるのだろうが)が総合されたものが彼女に特別なオーラを与えていた。

その場、その瞬間、その人にしか与えられない、醸し出せない美しさがあるとすればまさにこの人の持つこの言い様のない艶やかさの中にあるものなのだと、その瞬間に悟った。

実のところわけもなくダラダラと居残っていたのは、彼女の後に入ってきた若き付き人(名を早稲田大学のインターン生と言った)を連れたどこかの大手企業役員男性に訳もなく惹かれたからではなく、本当は彼女と少しでも近くで話してみたかったからなんだと思う。

まあ間におじさんと若者のペアに入られてしまった上に、彼女はその若い方にちょっかいを出していたからそのままほとんど会話をせずに朝を迎えたのだけれど。

不思議だと感じるのは、
その彼女が店に入ってきた時にこちらを見た眼差しがいつまでも僕の心像の中に鮮明に残っていることではなく、

その場の人間のお互いに対する意識を意味もなく感覚的に理解したように感じことだ。
お店のスタッフSは常連でもある"彼女"に気があるように見えた。もちろん見えただけかもしれないけれど。

そして、当のその彼女は若いインターン生にちょっかいをかけていて、シリアスさのカケラは感じずともまるっきりの悪戯心からそうしているだけというわけではなさそうであった。
彼の方もまんざらではなさだった。

一方のえらいおじさんはきっとゲイで自分の立場も利用してかわからないけれど、早稲田大学インターン生の彼にいい所をみせてどうにかしたい欲求を抱えていたはずだ。

これはなんの意味もなく、僕の頭というか心の中にぼんやりと浮かんできた印象だ。こちらの決めつけも甚だしく、差別的でさえある気もするが、その時ははっきりとその瞬間周りにいる人間の人間関係を、他者への気持ちがどんなものかを理解したと言えるほどそれが真実らしく感じられたのだ。

そしてその関係の中に自分が含まれず、部外者であることに寂しさとともに安堵を感じた。
不思議に魅力的でマジックリアリズム的なゴールデン街での一幕だった。

それから、僕ら4人の客は店を出て、それぞれに明け方の新宿の空に向かって歩き出したのだった。

その店にはその後も何度か通っているが、まだ彼らとは再会していない。
再会する日が来なければいいなと思う。
あの日の思い出のためにも。

ナベサン

ゴールデン街はかつて青線と呼ばれる売春街だったものが、戦後当局の規制により現在の飲食店の形になった街だ。売春街のその更に昔は何もない物騒な原っぱだったようなところに、新宿マーケットという名の闇市を中心に新宿各所から戦後の新宿東口の区画整理で移転させられてきた人たちによって作り上げられた。


新宿マーケット(のち竜宮マート。新宿を本拠とする露天商の関東尾津組が軍需産業の下請け工場の生産品を買い受け、『光は新宿より』のスローガンを掲げて始めた戦後東京で最初の闇市。今のヨドバシカメラのあたりらしい)


  • そもそも新宿という街はその発足からして、吉原で成り上がった売春宿の経営者の手によるもので・・・(p.37)

  • その発足当初から遊びに耽れる、日本橋と高井戸の中間の"新しい宿"だったらしく・・・(p.38-43)

  • 青線時代は三階建て平均4.5坪の売春用店舗の属する“花園街”と二階建て平均3.5坪の飲食店用店舗の属する“三光町”の二つの組合から成り立っていたが、売春街化で稼げなくなった三光町の飲食店は木造二階建てに一階の建て増しをして・・・(p.106)

  • “表”の路地から“裏”の路地へ通り抜けられる店の前に掲げられた「抜けられます」の看板の意味はつまり・・・(p.110)

といった新宿の中のゴールデン街という土地の歴史を教えてくれたのは、渡辺英綱著の『新宿ゴールデン街物語』だ。

著者は亡くなるまで"ナベサン"というバーに立ち、実際に第一線でゴールデン街を見続けてきた人である。

ここからが本筋というか、
諸々の脱線を排しても書きたかったエピソードなのだが、先日このナベサンに行ってみた。
そう、今もまだお店は現役なのだ。

一見すると見過ごしてしまいそうな看板を一階のドアに貼り付けて、その建物の急な階段を上がった二階で、ナベサンは今も先代の奥さんによって経営されている。

カウンターの端の席に座り、ビールを頼むと、ハートランドの瓶と共にわけのわからない量のフードがでてきた。

そういえばこれも本に載ってたな。最近外国人観光客がゴールデン街にも増えてきたって1980年代の終わりの文章でナベさんが書いていた。その話の中に2人のアメリカ人が彼の店でビールとともに、ナベ雑炊とキムチを食べて帰っていったという描写がある。

読んだ時にはゴールデン街でご飯を出す店なんてめずらしいな、当時は色々勝手が違ったのかなと思ったが、実際の店内でカウンターに並ぶ食べ物の品数とその量を見て納得した。まるでおばあちゃん家の食卓のようだ。ここで彼らはきっとお腹いっぱい食べたはずだ。

そんなこんなでフードに気を取られていると、
現マスターが一人で飲んでる若い客というので気を遣ってくれて、奥の常連さんの間の席をすすめてくれた。

お言葉に甘えて、というか端で一人でビールを啜るのがとても気まずかったので、非常に感謝して、奥の席に移動した。

そこで常連の人に挟まれて、
「本を読んでこの店を知って実際の店舗を見つけたから入ってみたんですよ」とネタバラシをしていると、別の常連客めいた初老の男性が店にやってきた。

聞けば、あのまさに僕が読んできたその本の出版に携わった人だった。本を読んできたのだと告げると、懐かしそうに目を細めて、今どきあの本を読んでる人はめずらしいが、今でも読んでる人がいるのなら出版した甲斐があったと言ってくれた。

まれにある特定の本をとある特定の場所で、
“読んだ”と公言する時に起こる関心と感心。
そしてこれもゴールデン街が見せるマジックか、この街が狭いのか、その本を出すのに働いた人との出会い。

いずれにしても全てがゴールデン街的であることは間違いない。

ナベサンにいる間に、会話の中でいくつかの古くからあるという店の名前を聞いた。そのどれも僕は知らなかった。

ナベサンの客の誰も僕が普段飲みにいくゴールデン街の店を詳しくは知らなかった。

きっと新しい店なのね、と誰かが言った。

それから、話題はあの時の火事でどの店が焼けたとか、その火事で誰それが大変な思いをしたとか、どこどこはもう店を閉じてしまったとかいったことへ移っていった。

まさにこの二階の小さな部屋で、
新宿の片隅に生まれた猥雑で不思議な魅力に満ちた街のその歴史が揺るがなく紡がれている。

権力に媚びることのない、街の市民の歴史。

それは今日も途絶えることなく、
明日には新しい酔客がやってくることを大量の料理と共に待っている。

あぁここが、
この心のあり方がゴールデン街なんだなと思う。

綺麗な明日はなく、
薄汚い銭貨しかないから、
今日と明日との間でとりあえず酒でも飲もうか。

たぶん退屈な日常か、
なにか面白いものがその隙間から見れるはず。

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