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はじめまして。

noteを利用し始めて
最近ようやく
noteの活用方法や機能のことなど
理解しはじめました。

理解する前にまず投稿するスタンス😅
それでも読んでくださる方がいてくれて
コメントくださる方がいてくれて、
スキしてくださる方がいてくれて嬉しいです。
いつもありがとうございます。

自分の発言には責任を持ちたい。との思いで
フルネームを設定することにしました。
この機会に自己紹介をしたいと思います🙇‍♀️

しまみなみ

本名です。結婚したのをキッカケに
南国っぽい名前になりました😊
昔から顔が南国!と言われていたので
結婚当初はかなりネタにしていましたが
この名前、結構気に入っていたりもします☺️

鹿児島出身

鹿児島県薩摩川内市で18年間過ごしました。
薩摩川内市は花火大会や日本一の大綱引きが自慢の町です。
家庭内では今でも鹿児島弁特有のなまりで話しています。地元を離れて13年、、、💦そろそろ新しい土地の言葉も使えるようになりたかったりもしています😅
シングルマザーの母と、おじいちゃん、おばあちゃん、お姉ちゃんの5人家族で、たくさんの友人に恵まれのびのびと育ちました。
家族のあり方について、色々と思い悩むことの多い18年間を過ごしたと思います。

大学時代は、、、

熊本県にある崇城大学が母校です。
大学では微生物についてお勉強していました。
というのは嘘ではないけど本当でもないような。
実際の大学時代は、バイトに明け暮れ、社会という現実を学んだり、お金の使い方を失敗したり、生きていくために必要なことを学んだきがします。
教育学部のない大学で、「学校の先生になる!」という夢に向かって努力した結果、当時の大学では初?珍しく?現役合格したことは、私の人生の中で唯一華々しい経歴です👏
大学4年の頃、いじめで自殺を。という悲しいニュースを多く目にしました。私が担任だったら絶対そんなことはさせない!!という強い使命感をもち教員への道に足を踏み入れました。

元中学理科教員

大学卒業後は、横浜市の教諭として学校の先生をしていました。なんとなく横浜っていいね〜。という感じで受験しました。旅行で行ったこともなければ、縁もゆかりもない自治体を受験したのも何かのお導きだったのかもしれません。
横浜で出会った生徒、保護者、先生、みなさんから多くの大切なことを学びました。
大学卒業後、いきなり学級担任をもつことになり、部活動も主顧問としてテニス部を、と。当時はプレッシャーのあまり、月一で胃腸炎にかかっていたりもしていましたが、生徒や保護者との関わりに責任をもつ。という意味ではよい経験となりました。
でも、今冷静になって考えるとやっぱりちょっと横暴な人事だったのではないかとも思います。個人的に担任業務が好きだったのでやってこれたと思いますが、自分のキャパを大きく超えて無理して急成長していた時期でもあったと思います。

それに。もともと、環境を守る仕事につきたくて理科の先生になった、という経緯があります。授業を通して子どもたちへメッセージを伝えることは環境を守ることに繋がると思う。と高校時代の担任に言われたことが大きかったです。
でも、当時のわたしには肝心な伝えたいメッセージがなかったのです。

横浜市での3年間、わたしなりにたくさん成長もしたけれど、授業にはあれでよかったのだろうか。と今でも疑問に思います。

バセドウ病

大学時代から付き合っていた今の夫と結婚することになり、横浜市の教員は退職。
熊本に戻ってすぐ、入籍の1週間前に熊本地震。
中学校は避難所となり、その対応に追われる日々で体調に変化がありました。

手の震え、3階の理科室まで階段を登るのが異常につらい、和式トイレが使えない、痩せ、
決め手は、久々に再会した友達から、顔が変わったと言われたことでした。
ネットで検索するとバセドウ病の症状が全て当てはまりました。
25歳の11月でした。有給を使って近所の総合病院で検査をしたその日に、大学病院へ行くように紹介状を渡され一日かけて色んな検査をした結果、甲状腺機能亢進症(バセドウ病)と診断されました。
薬を飲み始めると、痩せすぎていた体型が今度は太り始めました。診断されてから2ヶ月が経つころには複視の症状にも悩まされました。

見え方もおかしいし、生徒から「目でか、こわ」なんて言われることも増え。病気と知る前はそんなこと言われても、逆に目をカッと見開いて見せたりして冗談で過ごせていたのが、病気となると子どもは正直よね。と素直に傷ついていました。
眼球突出もある上に、体重も増えて顔はまるまると。なにより辛かったのは次の夏休みに、結婚式を予定していたことです。
いちばんキレイでいたい日に向けて、自分の努力とは裏腹に醜くなっていく自分が自分ですごくみじめでした。
前撮りは満開の桜の時期に🌸と予約していたのも延期してもらい、バセドウ病眼症の治療のため入院することになりました。
入院中の治療は、副作用が色々とあるステロイドパルスというもの。その中で絶望的だったのはムーンフェイスという副作用🌝

なんで私がこんなめにあわないといけない?
そんなに今までの行いが悪かったですか?
内心は荒れていましたが、入院中は結婚式に向けてせっせと準備していました。

熊本では臨時採用として働いていたため、入院治療するために有給が足りず、3月いっぱいで退職。5月から3週間の入院治療。
8月は結婚式。前撮りはいつする?
そんなスケジュールでした。

そんな中で迎えた結婚式

結婚式自体を先延ばしにすることも考えましたが、結果的にあのタイミングであげてよかったと思います。
今考えると本当に大切なこと。を考えられるようになったのは、この結婚式からだったかもしれません。
私たちの結婚式にはたくさんの友人や職場の同僚や上司がかけつけてくれました。
私の顔がまんまるお月様だろうが、四角だろうが、星形だろうが、そんな姿を見てどうこう言う人はいませんでした。かけつけてくれた皆さんが祝福してくれました。
今こうしてnoteに書くことで思い出していると、胸がいっぱいになってきます。

20代の後半は、自分自身について色々と思い悩むことの多い時期となりました。

あれから6年

バセドウ病と診断されてから6年が経ちました。
約5年間続けた投薬治療でしたがようやく薬なしでの生活が戻ってきました。
現在は第二子を妊娠中です。
投薬治療中に妊娠、出産、完全母乳で育てた第一子は健康に育っています。(このことがバセドウ病で妊娠や母乳育児をすることに悩まれている方の希望になればと思います。)

医療の発展がなければきっと私は25歳が寿命だったと思っています。25年間、私は自分の体や心を大切にしてきたでしょうか。
夢だった教師という仕事に明け暮れた4年間の食事はほとんどコンビニ飯。
休日出勤は当たり前、睡眠時間も十分に確保できず、家の中もぐちゃぐちゃなのが当たり前。
月の残業時間は100時間を余裕で超えるのがみんな当たり前。
病気にでもなって仕事辞めたいな。なんてことを考えたことも何度もありました。
自分のことを大切にしない生活習慣や本当に大切なことが見えていなかったことが招いたことだったとも受け止めています。(遺伝的な要因や社会的な要因も含めて)
そして、自分を大切にしなかった結果、私を生かすためにたくさんの医療保険費用を使って病気は寛解に至りました。この医療費は誰が支払うのでしょうか。未来の子どもたちの負債となるのでしょうか。
自分の体と心を大切に大切に過ごしても病気になる時はなるものだと思います。
でも普段から出来ることをせずにいざとなったら病院や薬を頼ればいい。という開き直り方は絶対にしてはいけないことだと今は思います。
健康がいちばん大事。

また教育現場を離れて6年にもなります。
当時は子どもたちに何か伝えなきゃ。と焦ってばかりいましたが、この6年間のんびりと自分と向き合う時間がもてたことで、伝えたいメッセージが少しだけ見えてきました。
離れすぎてしまっているので今は
伝えたい。よりも子どもたちの声を聴きたいですが。と

大切にしたいこと

鹿児島で生活していた頃、おばあちゃんが旬の野菜をたっぷり使ったみそ汁を毎朝食べさせてくれていたこと。昔ながらの自然いっぱいの愛情を注いでくれていた思い出があることには感謝の気持ちでいっぱいになります。

第一子を産むときに、こんな世界に子孫を残す意味があるのか。本気で考えました。
地球環境も悪くなるいっぽうだし、
社会環境だって、、、。生きていくのは大変。

でも産んでしまった以上は、お母さんとして、大人として、何か出来ることを改善したい。しなきゃ。
そんな思いを抱えています。

地球を守りたいです。
お金のしくみを変えたいです。

こんな大きな想いを掘り下げていったとき、まず今の自分レベルで出来ることは、
自分を大切にすること
まずはここからだと。
食生活や自分自身を見つめ直し、整えることから初めています。

その記録をnoteやスタンドFMを使って残していくこと。自分自身の考えを整理することに活用していきたいと思います。

これからよろしくお願いします😊

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