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小さきものたち、すなわち「やさしさの彫刻家」

子どもは、やさしさの彫刻家だ。
二歳の双子と暮らしていると、つくづくそう思う。

たとえば清掃車、大型トラック、コミュニティバスなどの“はたらくくるま”の面々に、親の仇かというほど手を振りまくる我が子に対し、運転手の皆々さま方は嫌な顔ひとつせず(時にはスピードを緩めてまで)手を振り返してくださる。
ただでさえ人の役に立っているというのに、うちの野郎共にファンサまで。なんたる神対応。子どもが産まれて、車道はたちまち(私含め)推しのステージとなったのだった。

だが、その他も。この世は捨てたもんじゃないと感じ入る瞬間が、子と連れ立っていると度々訪れる。

一見コワモテの兄ちゃんや、まだ自意識は残っているのかと疑うほどよぼよぼの爺ちゃん、安売りセールなら人をなぎ倒しそうなおばちゃん。皆が、子どもをみた途端に聖母のようなほほえみをたたえるのだ。

登園の途中でいつもすれ違うおじいさんは、普段、道端で煙草を吸っているのだが、うちの双子が近づてくるのを視認するや否や、即座に煙草を揉み消し、さっとマスクをつけてから一言声をかけてくれる。日によっては、箱入りのアイスクリームや、事前に準備していたとみえる新品のシール絵本を二冊手渡してくれたりしたこともあった。掻き壊して朱い斑点の残る(人によっては嫌悪感すら抱きそうな)その腕が、双子にむけてやさしく差し出されるとき、わたしは決して拒絶することができない。

また、駅のホームでは見知らぬおばちゃんからドーナツを、八百屋の前ではこれまた見知らぬおばちゃんからバナナをもらうなどして、まさに“生きているだけで丸儲け”を地でいく我が双子なのだった。


だが、しかし。
たとえばわたし一人がのそのそとその辺を歩いていたところで、誰もアイスクリームやドーナツやバナナを恵んでくれたりはしない。
なぜなら、それらの享受はすべて、“こども”という存在が浮き彫りにしたやさしさだからだ。
そのような場面に立ち会ったとき、わたしはいつもミケランジェロの言葉を思い出す。

「どんな石の塊も、内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事なのだ。」

うちの子に限らず、ちいさな人間というのは、他者が内包している慈愛のこころを掘り出す彫刻家だ。ちいさくかよわい、だがしかし誰よりも真理にちかいこの子らを守ってやらねばという使命感が、思わず手を差し延べさせるのだろう。

見知らぬ他人をも突き動かす『小さきものたち』だが、それがじぶんから産まれ落ちた子となると、更に話は変わってくる。

元来、他人に興味も執着もなくじぶんが一番かわいいと思って生きてきたわたしですら、どこかに慈愛のこころというのを隠し持っていたようで、双子がそれを発掘してくれたのは確かだ。

今のわたしの輪郭というのは、双子に対する無償の愛や、どうか健康に生きてくれという願いや、少しずつ手が離れていくさみしさや、頼むからオムツ履く前にフルチンで踊るなという怒りや、そういった多様な彫刻刀で形造られたものである。

この先、いつか必ず、彼らが『小さきものたち』ではなくなる時がやってくる。
だがしかし、彼らが浮き彫りにしてくれた優しさ、そしてそのようなこころを誰もがたずさえているのだと気付かせてくれたことは、変わりようのない事実だ。

じぶんとひとを愛せるきっかけをくれた彼らに、わたしは育児というかたちでもって、ゆっくり恩返しをしていこうと思っている。

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