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死ぬことは、生きること。



母方の祖母の葬儀に行って来ました。


95歳で亡くなったと言えば、
どこでも聞くような話ではありますが、


身内で誰かが亡くなるというのは、

遺影を見たり、
お線香の香りをかいだり、
安らかな顔を拝んだり、
お骨を拾ったりと、


日常そう頻繁には無い事を
数日でやってしまうわけで、

1人の人間として考えさせられるものがあります。


・自分の親が亡くなったらどうだろうか。

・兄弟が、家族が亡くなったら。

・自分自身が亡くなったら。





ベストセラーの自己啓発本で
「7つの習慣」と言う書籍がありますが、

この本の冒頭に書かれてあるのが、

「自分が亡くなった時を想像せよ」

と言う内容。


・誰に見送られたいのか?
・誰が悲しんでくれるのか?
・どんな風に偲んでくれるのか?
・どんな弔事を読んでもらいたいか?


など、自分の死後を想像した時、

どんな人達にどう言う風に
自分の死を見送ってもらいたいかを考えると、

今ここにある
選択や行動が変わってくる、と言う話です。


死ぬ事は、生きる事。


人類全員が共通して知っている、

・いつか自分も死ぬ

と言う事。


絶対に、

笑っても
泣いても
喜んでも
嘆いても
怒っても
寂しくても、

いつか必ずやってくる。

当たり前すぎる事実。



にもかかわらず、僕たちはどこか

「今日のような明日がやってくる」

と思っているし、


数ヶ月先の予定を考えたりして、

日常目の前の事にとらわれて、


まるで

「自分だけは死から遠い存在」

と思ってしまっている気がします。



しかしながら実際は、

こうしている間にも
交通事故や身体の発作や

"突発的な何か"

は常に存在している訳で、

常に

いつでも死のうと思えば死ねる状況に晒されている

のが真実だと思います。


いつも、死と隣り合わせ。
いつ死んでもおかしく無い。


そうやって"死"を意識した時、

初めて"生きる"ことが始まると思っていて。


仮に永遠の命や肉体があるとすると、

今日一日を大事にしようとは思わないのではないでしょうか。



僕も絶対死ぬし、あなたも絶対死ぬ。


どっちが先か分からないけれど、

そんな中で会えたり、
会話できたりすることは
当たり前ではなく"有難い"わけで。


やっぱりこの毎日は、
当たり前では無いんだと思わされます。



そうやって、こういった機会で

「一日一日を大事にしよう」と
気を改めたりする訳ですが、


喉元過ぎれば熱さを忘れるのも人間、


時間が経って日常に埋没し始めると、
そんな感覚も遠いものになってしまいます。



だからこそ、

・人間は忘れること

を肝に銘じて、


今日一日に感謝していきたいものです。


「刹那的に生きる」と言う意味ではなくて、
それだと長い目で人生を見る事が出来ないので、

長期的な目標や目指すものを定めつつも、今ここに、出来る事に集中する、
遠近両方を大事にしていく生き方が理想。



祖母が居なければ僕は
今日ここに存在していませんでした。

先人達が居なければ、私たちは
今日ここに存在していませんでした。


おかげさまの溢れる感謝の気持ちで、
祖母をお見送りさせていただきました。


死後の世界については色々な話がありますが、
僕は天から見てくれていると思うし、

次元が変わっただけで、
いつも天からメッセージやインスピレーションを
与えてくれていると思っています。


肉体的にはお別れですが、
本質的にはお別れではありません。




取り止めのない感じになりましたが、
読んでくれてありがとうございました。


ありきたりですが、
今日一日に、感謝を。


ありきたりの事をちゃんと出来るかどうかが、
この世では大事だと思います。


生きることは、死ぬこと。
死ぬことは、生きること。

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