見出し画像

マーダー・ライド・コンフリクトPart5/6

[もう潰れたヤツの話なんかどうでも良いだろ。]


 今回、彼女は便宜上「ナタリア」と呼ばれることになった。彼女は国に仕える情報工作員だ。若いがその才覚を認められて分隊を与えられ、工作任務に従事している。その都度に名前は変わるが、今回与えられた日本国内での任務では「ナタリア」という名前になった。七人の部下もそれぞれ新しい名前を与えられている。彼女の目下の任務は護衛だった。だから自身も部下もSPのようなスーツを着て、外交官の身分で日本に入国したスパイの護衛をしている。そのスパイは文官であるため、ナタリア達が手足となって働くことも必要だった。国が「そうせよ」と言うのだから特に文句は無かった。
 ナタリア達は身辺警護と情報収集の二班に別れていた。多少日本語が分かる人間で構成された、情報収集を行う班はスパイが目星を付けた要人を追跡し徹底的に調べ上げるのという外回りが主な仕事だ。その日も、彼女の部下三名が外回りに出ていた。

 「ボリス」というのが今の彼に与えられた名前だった。名前は任務の度に変わる。彼は情報収集を行う外回りの任務に当たっていた。同じ任務に当たる同僚と別れて、公安の職員と思しき男の尾行をしていた。駅の改札を出て、スーツ姿の中年を追っている。普通のサラリーマンに見えるが歩き方に変な癖がある。手を揺らさず歩いているその男は鞄を持っていない。この平日に、違和感がある。
 中年は駅から5分ほど歩いたところにあるモノレールに向かっている。乗り換えるのだろう。ボリスも自然な距離を保ちながら歩く。中年が携帯電話をポケットから取り出して何処かに電話を掛けてすぐに切った。1分にも満たない通話だった。中年は歩き続ける。追うボリスの上着のポケットで携帯が震えた。時計を見ると上司であるナタリアに定時連絡を行う時間だった。彼は歩みを止めること無く応答する。
『報告して』
 出ると間髪入れずに女上司の声が聞こえた。
「尾行中。不審な動き無し」
『了解。お前一人?』
「はい」
 ボリスが答えたところで中年が道を逸れた。そのまま歩いて行けばモノレールの改札へと向かうエレベーターがあるのに、その下の陸橋部分へと進んでいく。その先には高級デパートや複合型のショッピングセンターがある。ボリスは彼を追う。平日の午前中ということもあるせいか、陸橋の通路は人通りが殆ど無い。ビルの影にもなっているので見通しが悪い。デパートに向かうにしても、中年が手ぶらで向かうには不自然な気がする。何をしに行くつもりなのだろう。
「対象が手ぶらで不審な動きを」
『なに?』
「人通りのある所へ行こうとしています。それか見通しの悪い通路へ」
 ボリスは通話を続けたまま男についていく。薄暗い通路へと入っていく。上部にモノレールの駅と線路が有り、両脇にはビルがある。やはり人通りはない。見通しが悪い通路を通ることにボリスは躊躇った。返り討ちの可能性を恐れていた。中年はどんどん先を行く。ボリスは可能な限り距離を開けて追うことにした。
 通路の向こうから誰かが歩いてきた。背丈が低い。スーツを着ているのかと思ったが左胸に大きなエンブレムが付いている。ブレザーを着た少年だった。恐らく高校生だろう。大きなリュックを背負っている。リュックは重量があるのか片方の手でショルダーハーネスを掴んで、もう片手にクレープを持っている。ニコニコしながらクレープを食べていた。
 平日だろうに、学校へ行かなくて良いのだろうか。ボリスはそんなことを思った。
 中年は高校生と擦れ違っても特にリアクションが無い。少年も擦れ違ったサラリーマンに目もくれない。単なる通行人のようだ。
『ボリス、どうかしたの?』
「いや、異常ありません。ナタリア」
 ボリスは歩き続ける。少年との距離が縮まっていく。そして擦れ違おうとした瞬間、少年がよろめいてボリスのほうへと倒れてきた。少年の持っていたクレープがボリスの背広にぐちゃりと付いた。彼と少年の口から「あっ」という声が同時に出た。
「[あっわっ、ごっごめんなさい!]」
 少年が慌てた顔で謝ってくる。リュックを下ろしてごそごそと中を探っている。ハンカチでも探しているのだろう。ボリスは構わず歩きだそうとする。
「[あっ、まっ待って、待ってください!]」
『ボリス?』
「変なガキが、いえ何でもありません」
 ターゲットである中年の後ろ姿が遠退いていく。見失うわけにはいかない。「待ってくださいよ」と少年の声がする。ボリスは無視して先に進もうとした。再度少年の声が聞こえて、思わず足が止まった。
「[おじさんスパイなんですか?]」
 振り返ろうとしたボリスの首に何かが巻き付く。工事現場などで使用されるワイヤーロープだ。それが彼の太い首に幾重にも巻き付いた。瞬く間にワイヤーが左右に引かれる。頸動脈が絞まるのと同時に背中に衝撃を受けて体が浮く。そのまま、ボリスは腹を上にするように空中で制止する。踵が浮いた。ボリスはかなりの巨躯で体重が100㎏を越えている。その体が仰向けに浮いている。ボリスは信じられなかったが、少年が自分の背に彼の体を担ぎ、ワイヤーで彼の首を締め上げている。ぎりぎりと、凄まじい力で。
 ボリスが持っていた携帯は通路に敷かれたタイルの上を滑っていった。通話はまだ続いている。
『ボリス? ボリス、応答して』
「[返事をしたくても彼は声が出せない]」
 別の声がナタリアの声に答えた。老人のような声だったが、間違いなく少年から発せられたものだった。ナタリアとボリスは母国語で話していた。彼等と同じ言葉で返事が返ってきた。得体の知れない何かがボリスを襲っていることしか、彼女には分からない。
 ボリスは手足を振り回し首に巻き付いたワイヤーを掻く。だがどれだけ悶えようと少年が体勢を崩すことはない。
「[白い光のなーかにー、山並みは萌えてー]」
 歌が聞こえてくる。ボリスが聞いたことの無い声だった。
「[遙かな空の果てまーでもー、君はとびーたつー]」
『ボリス、応答しなさい!』
「[限りなく青いー、空にこーころふるーわせー]」
 ボリスは喉を絞め潰されてくぐもった声しか出せない。彼は緩慢に首を絞められ続け、やがて死んだ。其処に足音が近付いてくる。ボリスが尾行していた中年だった。
「よぉ、オウシュン。悪かったね、ゴミ掃除なんて頼んで」
 中年は少年を「オウシュン」と呼んだ。
「[ぼくは黄峻じゃないよ。ぼくはハンガー君だよ。オウシュンは寝てるよ]」
「初めて会うな」
「[ハード担当のサトをオウシュンがクビにしたから、今は統制が取れてない状態なんだよ]」
「そうかい。じゃ、次の算段を付けよう」
 電話の向こうでナタリアは会話を聞いている。
「[オウシュンはこの釣り方を、いつまでやるのかって気にしてるよ。今、ぼく達は頭の具合が凄く悪いからあんまり働きたくないんだよ]」
 少年の言葉にナタリアは息を呑む。意味不明な話の中で唯一分かった言葉の通りならば自分達は罠に掛かったことになる。
「あと二人ばかし始末して欲しい。うろちょろ出歩いてるみてぇでさ」
 中年がそう言ったのを聞いて彼女は即座に外回りをしている部下達に緊急コールを掛ける。
「[うーん・・・・・・分かったって。ところで、まだスパイおじさんのケータイ通話中になってるよ]」
「あっ! このクソガキ!」
 中年はボリスの携帯電話を拾い上げた。すぐに通話は切れる。彼は溜息を吐いて少年を睨んだ。
「ペナルティだ気違い野郎。内調を馬鹿にしやがって」
 怒りを露わにする中年に少年は無邪気な笑い声を立てた。


 部下の一人であるボリスが死んだのを皮切りに、ナタリアの部下で外回りを担当していた者は3名全員死亡した。彼等が「公安」もしくは「外務省」の人間だと思って尾行していた相手は全員が内調の人間だった。ボリスは「オウシュン」という名の刺客に襲われて死亡した。もう一人は別れた二人の仲間を任務終了後にピックアップするために、車で待機していたところを制服警官を装った内調に職務質問を受け、射殺された。最後の一人は追っていた相手に襲われ、格闘の末に殴り殺された。彼等と通話を繋いだままにしていたナタリアはそれを始まりから終わりまで聞いていた。

 一日で部下の半数を失ったナタリアは護衛対象である文官に進言した。
「我々の動きは気付かれています。即刻この国から脱出すべきです」
 大使館内に割り当てられた文官の部屋は、職員の部屋としては豪奢な調度品に囲まれている。ナタリアはこの護衛対象を嫌っている。現場の自分達を軽視する典型的な役所の人間で、仕事よりも私服を肥やすことを優先する。軽蔑しか無い。
 文官は椅子に身を預けて横柄に指示する。
「処理部隊が出てきたということは私を公的に退去させる手段を持ち合わせていないということだろう? その犬共を葬れば良いではないか」
「工作員は疑われた時点で終わりです。即刻退去を」
「人にとやかく言う前に自分の職務を全うしろ! お前達は護衛だろうが!」
 でっぷりと太った拳でデスクを殴り付けて文官は鼻を鳴らす。話にならない。ナタリアはそう思った。彼女は「失礼します」と硬い声で部屋を辞した。部下達は廊下で待っていた。
「ナタリア」
 部下の一人、熊のような体格の「フェリペ」が彼女の傍へ来る。彼は殺されたボリスの友人だった。怒りに満ちている部下にナタリアは言う。
「我らがプリンシパルは敵の排除をお望みのようよ。情報を集めなさい」
「最初にボリスを殺したガキからでも良いですか?」
 部下の問いにナタリアは「好きになさい」と返す。
「恐らく雇いの殺し屋よ。見つけ出して雇い主を吐かせて。始末はお前に任せるわ」
 ナタリアの命令にフェリペは喜びを噛み殺して頷く。彼女は他の部下にも指示を飛ばして大使館から都内にあるセーフハウスに移動する。ナタリアは自分の中に期限を設けた。半月以内にこの件が片付かなければ本国に帰還許可を仰ぐつもりだった。楽な子守のはずが、とんだ任務になってしまった。



 ナタリアの部下が減ってから一週間後の夕暮れ。雇われの殺し屋は所詮雇われということなのか、「オウシュン」と呼ばれていた殺し屋はすぐに確保出来た。その殺し屋は二十代の日本人であり、現在は政府の下請けをしているらしい。提出された報告書にナタリアはセーフハウスのデスクで目を通す。ここ数年で殺し屋の仕業とされる殺しはある種の一貫性があった。
「半年から一年は同じ偽名で同じ手口、それから数ヶ月のインターバルを置いて別の偽名、手口に変える・・・・・・なんなの、コイツ」
 そんな感想が彼女の口から出た。殺し屋の顔写真は無いが、渾名は一覧表が作られるほどあった。「シリアルキラー・キラー」、「三つ首」、「パペット・マペット」、「換骨なるカズラ」等々。ナタリアは渾名のセンスの無さに怖気が走る。
「渾名の多い奴ね。この『メモリアル・イヤー』というのは?」
「死体を残す場合、死体の耳を切り取るんです。全員ではありませんが」
「ああ、なるほど。雇い主については吐いた?」
「いえ」
 パラパラと書類を捲るナタリアを前にフェリペはそわそわしている。上官の命令を待っている。彼女は部下の望んでいる命令を下してやる。
「フェリペ、吐かせなさい。手段は問わないわ」
 部下は挨拶もそこそこに勇んで部屋を出て行く。「殴り殺すなよ」と念押しするのを忘れたが、どうせ死ぬのだから構わないかとナタリアは嘆息する。

 彼等が使っているセーフハウスは都心に程近い郊外の一軒家で、ナタリアと生き残っている四人の部下が滞在している。家の中で靴を脱がずに暮らしている。
 この家の二階には尋問室代わりに使っている小部屋がある。小部屋の前にいる大柄な見張り役に会釈してフェリペは中に入った。狭い部屋の中で、もう一人の同僚に見張られている殺し屋は椅子に手錠で繋がれていた。
 これがボリス達を殺した奴なのだろうか、というのがフェリペ以下同僚達の見解だった。椅子に繋がれている彼は精々高校生ぐらいにしか見えない。白のマオカラーシャツに黒のトラウザー。確保時には学生が使うような、大きなリュックを背負っていた。中には大量の凶器が入っていた。
 殺し屋が口を開いた。中年の男のような声だった。
「[仕事の依頼という電話を受けたのに、なんで拘束されないといけないんだ]」
 日本語が分かる格闘家のような体格の見張り役、オストが殺し屋の言葉をフェリペに通訳する。殺し屋は間抜けらしく、「仕事を頼みたい」と電話をすればノコノコ指定の場所にやって来た。
「ホントにコイツがあの殺し屋なのか?」
 フェリペがオストに言えば肩を竦められる。名前を訊ねると「[サカモト]」と殺し屋は答えた。フェリペはオストに「オウシュン」という名前ではないのかと確認させる。
「内調の男はお前を『オウシュン』と呼んでいたぞ」
「[黄峻は寝てるし、お前等に会う気も無い]」
 オストに通訳された殺し屋の解答に気に入らずフェリペは彼を殴った。鈍い音がした。顎の殴られた殺し屋の目がぐるんと回り、瞬きする。
「[痛ぇぞ馬鹿野郎]」
 殺し屋は突然英語で話し出した。先程までより若い声で。フェリペとオストは顔を見合わせる。ボリスが質問する。
「お前、英語が話せるのか?」
「[話せるってなんだよ。俺は南部生まれの貧しい白人だぜ? お前等コルホーズ耕してる連中と変わんねぇよ]」
 殺し屋は小馬鹿にしたように笑うので、フェリペはまた二度、三度と殴る。鼻血が出た。殺し屋は「[いってぇなクソ]」と鼻血を床に吹き捨てる。
「[いきなり拷問から入るってよぉ、日本の映画にあるよな。『処刑遊戯』だっけ? アンタ等観たことある? 松田優作の映画なんだけど]」
 フェリペがまた拳を奮う。殺し屋は「[あーアンタ等んトコはドライブインシアターもねぇんだっけな]」と減らず口を叩く。
「[何してぇのかサッパリだぜクソイワン共。早くトレーラーハウスに帰れよ]」
「お前はオウシュンか?」
「[俺はスティーブ・ジョブズだよ。アンタ等、黄峻に会いたいのか? あのガキはビビリだからな、出て来ないしそもそも寝てるよ]」
 フェリペはまた彼を殴る。本当にこの少年が殺し屋なのか分からなくなってきていた。「[ちょっとは加減しろよ]」と彼は軽口を叩く。殺し屋の口から血が滴っている。歯に血が滲んでいる笑顔を彼はフェリペ達に見せた。
「[幾ら殴ってもらっても構わねぇんだけどさ、一つ頼んで良いか?]」
「なんだ?」
「[頼むから俺を気絶させないでくれ]」
 フェリペはまた拳を彼の顔に叩き込む。殴られた殺し屋の目がぐるんと回り、瞬きする。先程もしていた。恐らく短い気絶をしている。それから殺し屋が笑い声を漏らし始めた。高い笑い声だった。
「何がおかしい?」
「[そんなに殴らないでよ]」
 子供の声で甘えるように殺し屋は笑う。再び日本語で話し始めたのでフェリペはまた殴る。殺し屋はまた笑い声を立てる。
「[ねぇ、何を待ってるの?]」
 甲高い声が耳障りだし、日本語なのでフェリペは後をオストに任せることにした。
「オスト、コイツがマトモに喋るようになったら教えてくれ」
「了解です」
 フェリペが出て行くとオストは拳を鳴らす。殺し屋は笑っている。
「[ねぇ、何を待ってるのか聞いてよ]」
 同じ質問をする彼に、オストは殴る前に聞いてやった。
「何を待ってるんだ? オウシュン?」
 オストの問いに洞穴から響くような声が答えた。
「[当たりが出るのを待ってる]」
 次の瞬間、殺し屋は手錠を力任せに引き千切った。炭素鋼で出来た純正の手錠がバラバラに弾け、驚くオストは咄嗟の判断が遅れた。殺し屋は自身より二回りは大きい男に掴み掛かると床へ引き倒した。強かに顔を打ち付けて呻く男の背に馬乗りになった彼は自分より大きな頭を両手で掴む。そして殺し屋は素早くオストの頭を捻り、首の骨をへし折った。
 殺し屋は立ち上がり、草臥れたように肩や首を回す。彼が顔の血をシャツの袖で拭っていると、部屋の扉が外からノックされた。見張り役の男だ。
「おいオスト、平気か? 物音がしたが」
 殺し屋は見張り役の男に分かるように英語で言い返した。暗い穴から響くような声で。
「[馬鹿が転んで床に伸びている。助けてやったらどうだ?]」
 洞窟から響くようなその声に驚いた見張りが部屋に飛び込んでくる。床で死んでいるオストに驚く見張りは死角に潜んでいた殺し屋に気付かなかった。同僚の状態を確認しようと屈んだ見張りの背後から殺し屋は飛び掛かる。太い首を裸絞めにする。凄まじい力で男の首を締め上げる。気道と頸動脈、頸椎をまとめて圧搾された見張りは瞬く間に昏倒した。彼が床に倒れ伏しても殺し屋は一分間力を緩め無かった。
 きちんと息の根を止めてから、殺し屋は彼から離れた。
「[ちょっといたずらして、それからリュック探しに行こうよ。黄峻]」
 彼の口から少女の声が出る。黄峻と呼ばれた殺し屋は従う。

 オストから声を掛けられるのを斜向かいの部屋で待っていたフェリペは、小部屋から聞こえてくる物音に気付いた。同僚が派手にやっているのだろうとその時は思ったが、少しすると何も聞こえなくなったので違和感を覚えた。部屋を出ると小部屋の前に立っているはずの見張りが消えていて、部屋の扉が開いている。緊急を知らせるメッセージを支給されているスマートフォンから発信し、フェリペは銃を構えた。小部屋の中を覗く。同僚が二人、死体になっていた。
 怒りに震える彼の耳に銃声が聞こえてきた。階下で誰かが発砲した。恐らく休憩中だった同僚だ。それから笑い声。あの殺し屋だとすぐに分かった。
「何事なの」
 二階の奥にある私室からナタリアが出てきた。フェリペは端的に答える。
「あのガキです。逃げられました。オストとヨナスは死亡」
 猛禽のようなナタリアの顔に皺が寄る。怒気に気圧される前にフェリペは続ける。
「一階で休憩中だったセブと交戦していると見られます」
「真っ昼間にこの国で銃声はマズいわ。さっさと始末して此処は放棄するわよ」
 フェリペは加勢のために懐から拳銃を抜いて階下へ向かう。ナタリアも追おうとして、ポケットの中でスマートフォンが振動するのに気付いた。取り出して表示を見ると護衛対象の文官からだった。舌打ちしてから電話に出た。
「すみません今取り込んでいます」
 即座に切ろうとする彼女に文官は苛立たしげに返す。
『人を呼び付けて置いてなんだその言い方は』
「は? 何のことです?」
『だから、お前の部下が私を呼び付けたんじゃないか! 緊急だか何だかでお前が呼んでると言ってな!』
 「丁度近くを走っていたから、もうすぐそっちに到着する」という文官の言葉に、ナタリアは戦慄した。あの殺し屋は最初から文官が目的だった、という可能性が閃いた。
 文官が嫌がるのと目立つのを避けるために彼が公的機関の建物内にいる間、護衛は離れている。大使館の中で暗殺しようとすればナタリア達は察知する。この国はスパイ天国だ。余程のことが無ければ手出しはしてこない。付け足せば、文官は敵対組織にとって「殺すほどの価値も無い」と思われていたはずだった。文官はその手の偽装に長けていた。
 ナタリアは部下の死体を確認しに行く。そして、オストの死体から携帯電話が死体から不自然に離れた位置に落ちていることに気付いた。拾って通話履歴を確認する。文官への発信履歴が残っていた。床に、引き千切られた手錠の残骸が散らばっている。「我々は敵に何を嗾けられたのだろうか」と彼女は思う。
 ナタリアはまだ通話状態にしている文官に指示する。
「此方へは来ないでください。敵の罠です。危険ですので三番のセーフハウスに移動を」
『なんだ、どういうことだ? 説明しろ!』
「説明してる暇は無いんですよ! 早く待避してください!」
 また銃声が聞こえてきた。喚く文官を無視してナタリアは通話を切り、銃を抜いて階下へと降りた。
「フェリペ!」
 ナタリアが名前を呼べば「キッチンです!」と彼の返事が返ってくる。
「セブ!」
 もう一人の部下の名前を呼べば「リビング!」と返答がある。今のところ二人の部下が生き残っている。一階はリビングダイニングが大きな割合を占めている。リビングにセブ、キッチンにフェリペ、階段の前にナタリアがいる。残るは風呂場、トイレ、二つの和室。その何処かに殺し屋が潜んでいる。
「殺し屋がオストの携帯を使ってプリンシパルを呼び出した! さっさと始末するわよ!」
 ナタリアはひとまず合流することを目指した。銃を構えたまま階段前から移動して廊下を進んでいく。薄暗い廊下に人影は無い。壁に弾痕があった。穴は一発分。銃声は二回した。殺し屋はセブに出会して発砲され、廊下を通って逃げたのだろうか。そんな想像をしながらも警戒を保ったまま彼女は進んでいく。開け放たれているリビングのドアは見えているのに、酷く遠く感じた。
 無事にリビングまで辿り着いたナタリアは「私よ、撃つな」と言って足を踏み入れる。手を先に伸ばしながらゆっくりと部屋の中へ入る。死角に立っていた、筋肉が発達し過ぎて小山のような体格のセブも、キッチンのカウンターから覗くようにドアを見ていたフェリペも、酷く強張った顔で拳銃を向けていた。部屋に入ってきたのがナタリアだと分かると安堵の表情を見せる。殺し屋よりも体格で勝っている大男達がこうも怯えているのを見ると、ナタリアも恐怖を煽られた。
 ナタリアはすぐに背をリビングの壁に付ける。それからハンドサインで指示を出した。
<即座に退去。外へ。プリンシパル到着間近。敵は家の中へ押し込む状態。撤退第一。>
 彼女の指示に部下二人は頷く。殺し屋を深追いするにしても最初から罠だったことを考えると放置したほうが安全のように思えた。それに玄関が開く音がしない。これがナタリアにとって一番の不安材料だった。
 殺し屋は今ならこの家から逃げていけるはずだ。だがそうしない。二階の窓は全て塞いでいる。出口は玄関と台所の勝手口、それと一階の窓のみ。何も物音がしない。殺し屋が外へ出ないのは、此処でナタリア達を全員殺して文官を拉致するか、もしくは殺害するかするためだと考えるのが妥当だ。殺し屋がそう考えているのであれば、こちらも闘う気があることを示せば家の何処かに潜んで機会を伺っているはずだ。そのためにナタリアは先程大きな声で「殺し屋を始末する」と叫んだのだ。相手にも聞こえるように。
 三人はそろそろと移動する。広いリビングダイニングは階段から近い廊下側、そして玄関側に出入り口が設けられている。玄関へ向かってナタリア達は進んだ。キッチンの勝手口やリビングの庭へと続くガラス戸は施錠されている。此処から出ると玄関先の駐車スペースに行くのは時間が掛かる。もし文官の乗った車が到着した場合、殺し屋に先んじられる可能性がある。
 玄関へと続く扉は何事も無く開いた。左手に広い玄関の三和土が見えた。真向かいにある和室の襖は僅かな隙間が開いていた。右手には廊下が続いていて、奥に階段ともう一つの和室などがある。フェリペが先導し、廊下を見張る。セブは和室とリビングを交互に注視し、ナタリアは玄関の三和土へと降りた。音を立てぬように鍵を開ける。
 その時、向かいの和室から声が聞こえた。同僚の、ボリスの声だった。
「[ナタリア]」
 死人の声が聞こえて、その和室を見ていたセブは硬直しフェリペも唖然とする。ナタリアは玄関の鍵を開けるのと同時に部下達に命令する。
「撃て!」
 脊髄反射のように二人は発砲した。襖に穴が開く。玄関の扉を大きく開けたナタリアは「外へ!」とフェリペ達に促す。また声が聞こえた。今度は暗い廊下からだった。
「[ナタリア]」
 死んだボリスの声で彼女を呼んでいる。
「何なんだアイツは!」
 セブが廊下へ向かって発砲する。マズルフラッシュは何も照らさない。殺し屋の笑い声がする。
「やめろ! さっさと行くぞ! フェリペ、援護しろ!」
 三人は夜闇が迫る外へ出た。フェリペは振り返って玄関に銃を向ける。車が走ってくる音が聞こえる。文官が到着したのだ。外交ナンバーのベンツが敷地から入ってくる。セブが「入ってくるな」と手を振るが、車は庭に乗り入れてきた。
「降りるな!」
 ナタリアは車に駆け寄り後部座席から降りてこようとする文官を止める。ドアを抑えて「危険です!」と警告する。混乱している文官ががなり立てる。文官を無視して彼女は運転手に車を出すよう指示しようとした。銃声がして、ベンツのフロントガラスが割れて運転手の眉間に穴が開いた。玄関の扉が少し開いて小銃の銃身が覗いていた。フェリペが文官に気を取られたせいで扉が開いたことに気付けなかった。
 玄関に向かってフェリペは撃った。すぐに玄関は閉じる。ナタリアは運転席から死体を引き摺り出し、セブとフェリペに乗り込むよう叫ぶ。制圧射撃を続けつつ、男達は車に駆け寄って乗り込んだ。運転席のナタリアはドアが絞まる前に車をバックさせる。急加速したせいで文官が助手席のヘッドレストに頭をぶつけた。ナタリアの乱暴な運転にも、隣に大柄なフェリペが座るせいで圧迫されていることにも文官は文句を付ける。彼女は「煩い!」と切り捨て取り合わない。
 隣家から住民達が出て来ている。セーフハウスは住宅街の奥にある。あまり幅のない道路を猛スピードで進むベンツに住民達は飛び退いていく。後部座席で警戒していたフェリペが声を張り上げる。
「追い掛けて来ました!」
 バックミラーとサイドミラーで助手席のセブが確認する。ナタリア達が使っていたカローラが迫ってきていた。車庫に置いていたのを殺し屋は見付けたのだろう。既にあの家のことは隣人達によって通報されているはずだ。緊急配備をされる前に待避したい。このカーチェイスのことも通報されているかも知れない。発砲のリスクが大き過ぎる。それは相手も同じのはずだ。
「このまま大使館に向かいます」
 ナタリアの言葉に文官は怒鳴り返す。
「そんなことをしたらこの国での活動が全て終わるではないか! お前達の体たらくで私の任務を、」
「フェリペ」
 ナタリアの言わんとすることを理解してフェリペは文官の顔に拳を叩き込む。文官は一撃で気絶した。車内が静かになったところで車は幹線道路へ出た。殺し屋のカローラはまだついてくる。道路は不自然なほど空いていた。車を飛ばしながらナタリアは不審に思う。その次の瞬間に銃弾が飛んできた。断続的な銃声と共に飛んできた銃弾はベンツのサイドミラーに掠っただけだった。
 非常識な殺し屋にナタリアは部下に応戦を許可した。喜んで大男二人は拳銃の遊底を引いた。フェリペは気絶している文官の頭を下げさせて一応の安全を確保する。パパッ、パパッ、と短い発砲音はまだ続いている。腕が悪いのか、殺し屋は外してばかりだった。
「下手クソめ、手本を見せてやる」
 セブは助手席の窓を開け、腕だけ出して発砲する。バックミラーだけで位置を確認したセブが撃った銃弾はカローラの車体に穴を空けた。一瞬、カローラの追撃が緩まったがやはりまたアクセルを踏んで迫ってくる。再度短い銃声がしてベンツのバックフロントが割れる。フェリペは咄嗟に頭を下げたので割れたガラスを被る程度で済んだ。彼も頭を下げたまま追ってくる殺し屋に向かって撃つ。ナタリアはアクセルを踏む足を緩めない。
 セブは再度照準を定める。今度は助手席から身を乗り出して。フェリペが撃ち続けて殺し屋に銃を撃たせない。セブは照星を殺し屋が運転するカローラの前輪に合わせた。そして三発の銃声の後、追跡車の左前輪が破裂した。バーストしたタイヤにハンドルを取られたのか、殺し屋の車は大きく左右に振れてそのまま対向車線へと向かっていって中央分離帯に激突する。猛スピードで走っていた車の勢いは止まらず、縦に回転して虫の死骸のようにひっくり返った。カローラはけたたましい音と共に路上に叩き付けられた。
「相変わらず良い腕ね」
 ナタリアが部下を褒める。フェリペとセブは体勢を変えずに後方の警戒を続けた。徐々に遠く小さくなっていくカローラが見える。その助手席側のドアが拉げて、外れた。中から殺し屋がのそのそと這い出てくる。立ち上がった殺し屋はずっとベンツを見ている。そして彼の姿は見えなくなる。
「アイツ、まだ生きてます」
 フェリペの報告にナタリアは舌打ちした。今すぐ引き返して轢き殺してやりたいところだが、文官を守るのが優先事項だ。彼女は仕方なく大使館へと進み続ける。
 程無くして進行方向に赤色灯の光が見えた。パトカーだ。緊急配備されたのかとナタリアはアクセルを漸く緩める。夜の幹線道路。追っ手を振り払うのに必死で意識が逸れていたが、不自然な程に車の往来が無い。この時間帯に走っている車が自分達一台だけというのは変だ。
「ナタリア?」
 セブが不審そうに彼女を呼ぶ。ナタリアは左折して脇道に入った。脇道の歩道も誰一人歩いていない。無人だった。
「何かがおかしい」
 そう呟く上官にセブとフェリペは緊張する。
「セブ、一番近いメトロの駅を調べて。フェリペは大使を起こしなさい。車は捨てていくわ」
「何か危険でも?」
「まさかとは思うけれど・・・・・・この道路を走ることが敵に想定されていたのかも知れないと思って」
 「敵に追い込まれたのかも知れないわ」とナタリアは言う。部下達はその言葉を信じた。セブはスマートフォンで見付けた数百メートル先の地下鉄を彼女に教える。フェリペも文官を揺さぶって目覚めさせた。
 地下鉄駅の案内が見えたところでナタリアは車を路肩に駐める。痛みによって気絶して、覚醒後も混乱している文官を引き摺るようにして彼等は地下鉄の改札へと続く階段を降りていった。プラットフォームまで来ると疎らにも人の姿があり、アナウンスも流れていた。民間人の姿を見て漸くナタリアの不安が和らいだ。人があまり並んでいない辺りまで行く。幸い、大使館の最寄り駅まで一本で行けるようだった。
<間もなく、二番線に・・・・・・>
「電車が来ます。これに乗りましょう」
 アナウンスを聞いてナタリアは文官を促す。ホームに電車が入ってくる。周囲を警戒しながら彼等は乗り込んだ。乗客は少ない。文官が座ろうとするもナタリアに止められる。人の少ない車両に移ろうと彼女は進言する。仕方なく文官は彼女に従った。電車が走り出した。
 彼等は車両を移る。より乗客が少ない方へ。先頭車両へと進んでいく。大柄なフェリペ達を盾にするようにして文官は進む。ナタリアは彼の後ろを歩いていた。無人の3号車へと移ろうとしたところで背後を警戒していた彼女は、車両の奥にあの殺し屋が立っているのを見付けた。まだ少年のようにも見える彼はナタリアに向かって笑みを浮かべてひらひらと手を振った。
「奴が来たわよ!」
 ナタリアは前にいる部下達に叫ぶ。数人の乗客達は聞き慣れない異国の声に驚いて顔を上げているが構わない。フェリペとセブは文官を自分の背後に隠して車両の中を進んでいく。ナタリアは拳銃を抜いて彼に向けたまま後退りする。殺し屋はのんびりとした足取りで彼女達を追ってくる。
「何をしてる!? さっさと撃たんか!」
 文官が喚く。「気楽に言ってくれる」と彼女は内心悪態を吐く。3号車に移り、扉が閉まる。殺し屋は車両の中程に立っている。大使館までの最寄り駅に停まるのはまだずっと先だ。あと数分もすれば次の停車駅に停まる。その時に襲ってくるのか、それとも今なのか。ナタリアは扉の向こうにいる殺し屋の顔を睨み続ける。殺し屋も彼女を見ている。
 永遠に二人の視線が交わされるようにも思えたが、突然の暗闇によってそれは中断された。驚く彼等の耳にガラスの割れる音がする。乗客の短い悲鳴。それから誰かが倒れた音。気付いた時には既に手遅れで、短い停電から室内の灯りが灯った時にはセブが死体になって床に転がっていた。連結部と車両の間にある扉の窓に丸い穴が二つ開いていた。セブの頭部には弾痕があった。
 ナタリアは部下の死に気を取られていた。迫る殺し屋に気付いたのはフェリペだった。殺し屋が火の輪潜りのように扉の小さな窓を破って3号車に飛び込んでくる。殺し屋は着地しその足で飛ぶように彼等と距離を詰めてくる。大きな牛刀に似たナイフの刃が閃くのを、ナタリアは視界の端で見ていた。
 冷たい光を反射する刃が空気を裂く音と共に回る。刃渡り20㎝以上あるナイフの刃と柄の境には輪があった。其処に指を通して殺し屋がナイフを回す。フィンガーループナイフ。刃の比重が重い。遠心力を利用すれば見た目以上の威力が出る。ナタリアにとってそれを避けることは容易い。だが自分の背後にいる文官は違う。瞬時に判断して彼女は銃を構え直す。だが振り下ろされるナイフが彼女の利き腕に振り下ろされるほうが、引き金を引くよりも早いところにある。殺し屋の異様な強さの腕力をナタリアは既に見ている。銃を握っている自分の腕はあとコンマ数秒で切り飛ばされるだろう。フェリペの射線に自分と文官と殺し屋が並んでいるはずなので文官に体当たりするように飛び退いて彼に始末させる。腕が切り落とされるのは仕方が無いことだ。
 刹那の間に思考を済ませたナタリアは文官ごと飛び退こうとする。殺し屋は彼女の顔をじっと見詰めている。一秒たりとも変化していく獲物の表情を見逃さないように。
「[ナタリア]」
 殺し屋がボリスの声で彼女の名を呼ぶ。鸚鵡のようだ、と彼女は頭の片隅で思った。
「ナタリア!」
 フェリペが既の所で彼女の前に飛び出し、銃身でナイフの刃を弾いた。ナタリアが間髪入れずに発砲する。殺し屋は自身に向かってくる銃弾をナイフで弾いた。
「化け物かよ!」
 フェリペが驚きながら撃つ。文官を連れてナタリアは先頭車両を目指す。背後の銃撃と、その弾を弾く音が響いている。次の停車駅にはまだ着かない。2号車へと移り、扉を閉めたところで赤い奔流が窓の向こうに見えた。フェリペが首を切られて、頸動脈から血を噴き出していた。彼は膝から崩れ落ち、床に倒れる。返り血で顔を汚した殺し屋がナタリアを見ている。腰に差していたらしい、消音器を着けた拳銃を抜いて、ゆっくりと近付いてくる。
<まもなく・・・・・・>
 車内アナウンスが聞こえる。もうすぐ電車が停まる。ナタリアは銃を構え続けている。殺し屋が駆ける。彼女は発砲する。窓のガラスが割れたものの、銃弾は躱された。タイミング悪く、弾が切れた。素早く弾倉を交換するが、既に殺し屋はナタリアと文官しかいない車両に入って来た。何の表情も浮かんでいない殺し屋は、ナタリアだけを見ている。電車のブレーキ音が響く。ナタリアは引き金を引いた。殺し屋はそれを容易く、低く横に飛んで避けた。
 持っていたナイフを放り、殺し屋が銃を向ける。ナタリアではなく、彼女の背後にいた文官に。気の抜けた発砲音がして文官の両膝が撃ち抜かれた。濁った悲鳴が上がる。ナタリアは怒りに叫びながら銃口を殺し屋へと向ける。だが既に殺し屋は間合いを詰めていた。
 ナタリアが持っていた銃を殺し屋は銃把で弾き飛ばす。そして空いている手を握り、彼女の鳩尾に鋭く打ち込んだ。ナタリアの呼吸が一瞬停まる。歯を食い縛って意識を保とうとしたが、殺し屋が彼女の顎を殴った。脳が揺れて意識がブラックアウトする。床に倒れたところで、電車が停まった。彼女は電車を降りることが出来なかった。
「[Come on, come on,come on, come on.Now touch me baby・・・・・・]」
 殺し屋が古い歌を口遊んでいるのが聞こえる。






「[・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そしたら父親はこう言ったんだ。『いいから黙って穴を掘りなさい』ってな!]」
「[ギャーハハハハハハハハハハッ! 傑作だなそりゃ!]」
「[ウケる。お前が言わなきゃもっと面白かった]」
「[良いお話ね。もっと他にある? ジョークって興味深いわ]」
「[ワハハハハハッ! ハハ、ヒーッ! ヒヒ、し、死ぬ、笑い過ぎて死ぬ・・・・・・]」
「[ごめんちょっとよく分かんない。なに? なんでママが寝坊すると穴を掘るの?]」
「[ネタにマジレスすんなカス]」
「[ジョークより漫談のほうが好き。なんか無い?]」
「[サンドウィッチマンのDVD観ようよ]」
「[は? 東京03が最強なんだが?]」
「[モンティ・パイソン! モンティ・パイソン!]」
「[ねぇなんでも良いからさっさと始めない?]」
「[黄峻! おはようは?]」
「[コーヒー飲みたい]」
「[女の趣味マジで悪いよね~~! なんで小学生じゃないの?]」
「[死ねロリコン]」
「[大体みんな死んでるから安心しる]」
「[あまりにも草。大草原不可避]」
「[はーキモキモキモキモ! マジでクソオタクキモいんだけど!]」
「[ジョークがすごい勢いで消えていきましたね]」
「[飽きた~~~~! 飽き飽き飽き飽き飽きた~~~~!]」
「[早く始めよう]」
「[なーんでなんで。なんでなんで]」
「[幼児番組を始めるな]」
「[だって寂しいもの]」
「[ペルソナを作り上げる。自分の中に他人のペルソナを]」
「[黄峻、お前は兄貴に担がれてるんだよ。あのおまじないに意味は無い]」
「[自分以外の人間になりたい。自分じゃなければ誰でも良い]」
「[今から女を写し取る]」
「[彼は鸚鵡]」
「[女の子も男の人も良いよね。それぞれ壊せる場所が違うからどっちも好き]」
「[あれ好き。口にホース突っ込んで水飲ませるの]」
「[やっきごて! やっきごて!]」
「[歯ァ全部抜いたら今よりもっと可愛くなるよ]」
「[仲間は必要だ。この頭の中は檻なのだから]」
「[死ねよ黄峻、早く死ねよ]」
「[黄峻は誰にも知られたくない。誰にも理解されたくない]」
「[人の後ろに隠れるのはやめなさい]」
「[皆でお歌を歌いましょう]」
「[私は我が家を絞首台にした]」
「[人を殺すことだけが娯楽]」
「[静かに]」
 徐々に覚醒していく意識の内で、余りにも多くの声が聞こえたので、沢山の人がいるのだとナタリアは思った。瞼を開けると一人しかいなかった。その人影はただじっと、こちらを見ていた。
 あの小柄な日本人だ。自分の頭上に下がるペンダントライトが揺れていて、不安定な明かりが壁を照らしては暗くする。狭い部屋だった。壁の一面はポラロイドで撮られた写真で埋め尽くされている。もう一面には「3月」のA3サイズのカレンダー。文庫本が積み上げられて山のようになっている。自分の周囲に様々な工具が置かれたワゴンが幾つもあって、姿見もあった。自分の状況がよく見えた。肘掛けのある古い椅子に縛り付けられている。
 ナタリアには、自分の結末が分かった。あの並んだ工具は恐らく本来の使用目的以外で使われる。それは自身に使われる。彼女自身も見聞きし、実際にやったことがある。即ち、拷問だ。
 この道に生きる人間として、ナタリアは覚悟を決めた。腹を括った。
「・・・・・・私を拷問したところで、何も得られはしない。私は何も喋らない。絶対に」
 彼女の台詞を聞いて、日本人の少年は首を傾げた。そしてキツい南部訛りで話した。
「[わっかんねぇ~な~。よぉ、姉ちゃん。何言ってんだよ? 今から始まるのは単なる『お楽しみ』だぜ?]」
「お前、日本人のくせに変な英語を話すのね」
「[俺はテキサスのカウボーイなんだよ、ホントはな。マグナムがスゲーデカいカウボーイ]」
 目の前の日本人が何を話しているのか、ナタリアは意味が分からなかった。無表情で、低知能な台詞を吐いている。「何なのだ、この男は」と彼女は思った。
「[なんだよその顔は。面白くないぜ、笑えよ。今からお楽しみが始まるんだから]」
 日本人がネイルハンマーを手に取る。口笛のメロディは「星条旗」。ナタリアの困惑は深まっていく。彼女は問うた。
「お前は、一体何がしたい? 何処の誰なの?」
 口笛が止まった。低い位置に下がるペンダントライトを掴んで、日本人は自身の顔を照らした。印象の薄い造りの顔が白熱の光によって現れる。先程とは打って変わって、機械的な英語で日本人は話した。彼の右目が、かちり、と外側を向いてまたナタリアへと向けられた。
「[誰が、良い? 誰にでも、なれる。誰が、良い?]」
「は?」
 自分の目の前に立っている少年が何なのか、ナタリアには理解出来なかった。先程の軽口を叩いていたものは全く違う。まるで別人のようだった。
 かちり、とまた右目が動いた。彼女の母国の言葉が聞こえた。
「[お前は今から死ぬ。黄峻に拷問されて死ぬ。きっと凄く痛い]」
「ほざけ。私は祖国に誓って、何も喋らないわ」
 かちり、と右目が動いた。スコットランド訛りがある英語を話した。
「[違う。違う違う違う違う。黄峻はお前に情報など求めてはいない。馬鹿な女め]」
 かちり、と右目が動いた。今度は美しいクイーン・イングリッシュで話した。
「[可哀想に。無意味に死ぬんだよ]」
 かちり、かちり、と右目が動く。日本語が虚ろな響きを伴って聞こえる。
「[静かに]」
 日本人は電灯を離す。振り子のように電灯は慣性に従って揺れる。ナタリアの心は恐怖によって震える。得体の知れない何かに殺されるのは恐ろしかった。
「・・・・・・・・・・・・私を、殺して、どうするつもり?」
 ナタリアの問いにまた彼の右目がかちりと動いた。
「[殺すのは、一ヶ月後。死ぬまで俺とお喋りするんだ]」
 こっそりと遊びの計画を打ち明けるように彼は言った。
「[人生を凝縮した一ヶ月にしよう。俺はお前になりたい。お前が気に入った]」
 日本人がナタリアの顔を見詰めながら、スマートフォンで何処かに電話を掛け始めた。電話の相手は若い日本人の女らしい。唐突に彼は話を切り出した。
「[今からハネムーンなんだ、気を遣ってくれよ。お嬢ちゃん]」
 電話の相手が溜息を吐いているようだった。
「[じゃあまた連絡する]」
 それだけ告げて、彼は通話を切った。スマートフォンをポケットに入れると壁際の物書き机に近付いた。「さて」と日本人が真新しい文庫本を手にして戻ってきた。開かれた中は白紙だった。記録を付けるためのものなのだと、ナタリアには分かった。
「[お前がどんな風に命乞いをするのか、とても楽しみだよ]」



つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?