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踊る人虎とヒヤシンス、或いはテセウスの祈り、若くは追悼の怪物

 傷が癒えるたびに「あなた」は人の形を忘れていき、徐々に悍ましい獣になっていく。そうして「あなた」がかつて人間だった頃の残滓を失っていくのだと教えたら、「あなた」はどう思うのだろう。
 「あなた」は怒るだろうか。私を憎むだろうか。「あなた」は私がしたことを、私を、赦すだろうか。
 たとえ「あなた」が私を忘れていたとしても。


 生い茂る葉のせいで鬱蒼とした熱帯雨林は闇の密度が濃いように思える。中南米の夜の森。その中に小さく光が見えた。暗視ゴーグルを外して仕舞う。光を目指していけば細く棚引く煙が見えた。焚火をしている。茂みの中に小さな空間がぽっかりと空いている。その火を囲んで、武装ゲリラの男が三人、腰を下ろしていた。全員栄養状態が悪そうに見える。
 余計な思考を停めて、私は静かに彼等へと近付いていく。そして私は彼等のうちの一人が腰掛けていた倒木を跨ぎ、同じように座った。ぎょっとしたゲリラ達の視線が私へと向けられる。小銃の銃口も同じように向けられる。私は取り乱すこともなく、話し始める。
「こんばんは。英語は通じるだろうか? この辺りの言葉も一通り学んできたが、挨拶程度しか出来ないんだ」
 焚火の前に座ると着ている迷彩柄のポンチョは蒸し暑さを増させるが、私はフードさえ取らない。この後に起こることの被害を最小限にするために。
「女? なんでこんなところにいるんだ・・・・・・?」
 英語が分かるらしい、私の正面に座る一人のゲリラは思ったよりも理性的だった。私の身元を知りたがっている。恐らくリーダー格か、三人の中で一番年長者なのだろう。
 ゲリラ三人をそう観察した私は努めてゆっくりと、頭の中で凪いだ湖面を思い浮かべながら話した。
「私は科学者で、そのついでに医者をしています。今はボランティアでこの地域を回って村を訪ねています。何かお困りのことはありませんか? 物資や、医療の面で」
 私の質問に三人は顔を見合わせ、そして改めて銃口を私に向けた。リーダー格の男が言った。
「それは変だ。俺達の村は街から一番近いところにある。だがそんな話は聞いていない」
 再認識。彼等は想定していたよりもずっと聡い。私は失礼なことをした。
「大変失礼した。銃で撃たれるかと思って嘘を吐いてしまった。正直に話そう。私は今、試験の最中なんだ。科学者として、そして『恋人』として」
 私の言葉を聞いて年長のゲリラは「不可解」という表情を浮かべる。簡潔に言い過ぎた。他の二人は英語が分からないのか首を傾げて指示を待っている。
「試験? 恋人?」
「実地運用試験だ。少し前、彼は作戦行動中に自爆テロに巻き込まれてね。そのリハビリ、というわけではないが」
「姉ちゃん、政府軍の人間か?」
「いや違う。私はとある軍需企業の研究員だ。戦争は別部署が担当している」
 私の回答は気に入らなかったようでゲリラの眉間に皺が寄る。辺りはとても静かだ。ジャングルなのだから動物が動き回る足音がしても良いはずなのに。虫の鳴く音さえ遠い。私は恋人が退屈で眠ってしまったのではないかと思い始めた。
 ゲリラは私が非戦闘員だと分かると警戒が少し解れた。銃を持っている、という優位にいるからだろう。他の二人にもそれが伝わったようで銃口が僅かに上を向いた。
「その恋人は姉ちゃんをこんなトコに置き去りにしてったのかよ?」
「いや、そういうわけではないと思うが・・・・・・不安になってきたな。彼、足が速いから先に行ってしまったかも知れない」
 私は「呼んでみよう」と彼の名前を口にした。そっと囁くように。日本語で。
「シータ、いる?」
 次の瞬間、私の隣にいたゲリラが目の前の茂みへと消えた。大きな黒い影と共に。どうやら彼は私の後ろにずっと控えていたようだ。確かに、私の後ろをついて歩くのが彼の昔の癖だった。
 残ったゲリラ二人は悲鳴も無く茂みの中に消えた一人の名前を叫んで立ち上がる。銃を構え直す。茂みの中を何かが歩き、また静かになる。
「なんだ、なんだ!? ヒョウか!?」
「静かにしろ! 聞こえない!」
 現地の言葉で喋りながら二人は狼狽えている。私はシータが事を終えるのを待つ。肉食獣の低い唸り声が聞こえる。若いゲリラが聞こえたほうへと振り返り、発砲しようとした。だが間に合わない。大きな影が茂みの中から飛び出した。若いゲリラは影に組み敷かれ、頭蓋を踏み砕かれた。影は地を這うように体を伏せて殺した相手を観察している。影は巨大な獣の形をしている。私がよく知る、「シータ」の形だ。
 シータは顔を上げて、最後に残ったゲリラを見た。リーダー格のゲリラは恐怖で目を見開いて体を硬直させていた。確かに彼の姿は見る人間全員の度肝を抜く。焚火の揺らぐ炎に照らされたシータは異形の姿をしている。人間と同じように戦闘迷彩が施されたケプラー繊維の野戦服の上着を着ている。顔には相手に食いつかないように、マスク型の閉口器を装着して顔の下半分を覆っている。上半身までなら普通の人間と同じだ。戦闘員のように見える。
 問題なのは、彼の腰から下がアムールトラであることだ。アムールトラの、人間で言えば肩口の辺りに彼の上半身が付いている。シータは正しく怪物の姿をしている。
「ば、化け物・・・・・・」
 リーダー格の薄汚いドブネズミ以下のゲリラにシータを侮辱される。彼は唸る。呼吸が激しい。シータが吠えようとしてもマスクが邪魔をする。ガチン、と金属がぶつかる音で正気に返ったらしいゲリラが銃を向ける。撃たれる前にシータは男に飛び掛かり、その頸椎をへし折った。アムールトラの体高が120㎝、シータの生前の身長は180㎝なので、現在の体高は2mほどになる。体重は400㎏近い。あの巨体でああも静かに動けるのが不思議だった。
 シータは息絶えたゲリラの体を四本の太いトラの足で押さえつけている。人間の腕二本でゲリラの頭を固定して食いつこうと顔を擦り付けている。マスクに阻まれて嚙み付くことが出来ない。酷く興奮しているらしい。平時なら自分でマスクを脱着出来る。十五分ほど前の初戦に比べれば返り血が殆ど無い。それでも肉食獣としての本能が刺激されるのだろう。仕留めた獲物を食べたくて仕方が無いのだ。
 やはり理性よりも本能や体に染みついた習慣が顕著に出やすいようだ。「先導しろ」と指示したはずが、いつの間にか背後を歩いている。この点は訓練が必要になる。
「シータ、シータ。そんなもの食べようとするな。腹が空いたならもっと良い食事を出す。帰ってからだが」
 呼ぶと彼はこちらを見て、「シント」と応えた。私の名前は「深統」だが、正しい読み方である「シントウ」とも最後を長音にした「シントー」とも呼ばずに植物の「ミント」と同じ発音で私の名前を呼ぶ。自爆テロで死亡する前と同じように。
 彼がこちらへと近付いてくる。やはり足音が殆どしない。褒めて欲しいと頭を垂れて私の前に立つ。
「首が痛くなるからもう少し屈んでくれ。腹這いになってくれると楽だ」
「これで良い? シント」
 トラの腹をすっかり地面に付けてシータは頭を突き出す。私は彼のマスクを外してやり、頭を撫でてやる。昔と変わらない、少し固い黒髪。
「顔に傷を付けるなよ。私はお前の顔が好きなんだ」
「顔だけなの? 傷つくなぁ」
 柔らかな物言いの仕方は前と変わらない。笑った顔も同じだ。死ぬ前と、何ら変わらない。私の恋人の顔だ。



 彼が死んだ時、私は所属企業本社にある研究室にいた。その研究室は私に与えられた研究室だった。生命工学の研究者であり、「死体の再利用」について幾つか論文を出していた私は軍需産業に就職した。
 人間は21世紀を迎えた辺りで退化したらしく、様々なところで戦争が増えた。宗教から移民から、水や食料を巡る争いまで。その辺りに興味が無いのであまり詳しくない。私にとっては、わけの分からない主義主張を並べ立てて会社を攻撃してくる輩のほうが迷惑だ。国同士で争うことについては興味が無い。むしろ仕事の需要が増え、技術革新が生まれ、私の所属する企業にとっては歓迎すべきことだ。人間は少し減っても勝手に繁殖するのだから構わないだろう。
 それよりも最近は国家間の争いの他に自警団のような連中が増えて困っている。彼等は思い思いの衣装に身を包み、軍需企業を攻撃する。馬鹿馬鹿しくて涙が出そうになる、というのが幹部以下部門長並びに私と研究員達の共通の見解だった。苦しんでいる人間を助けるというのであれば、私の代わりに恋人を殺した国を滅ぼしてくれたら良いのに。役立たず共め。あの連中を高速道路の材料にしてやればインフラの老朽化対策になるだろう。
 兎に角、資源が減少して、平和だった私の祖国も国連の要請によりかなりの頻度で自衛隊を派遣するようになった。長期間に渡る派遣の中で戦闘も増えた。絶対的に数の少ない兵隊を増やすには「死体」でも何でも使うべきだ、というのが学会と幕僚達の通説になっていった。そんな年代に私は生まれ、二十代半ばの今は研究室長という高給取りになった。ある時、現地の市場調査として海外派兵された自衛隊の元を訪れた。その時に知り合った隊員と恋人になった。
 そして彼は派兵先の中南米で自爆テロに巻き込まれて死んだ。犯人はぬいぐるみのように腹を割かれた、内臓を潰す勢いで鱈腹C4を詰め込まれた、乱雑なやり方で腹を再び縫い合わされた少女だった。彼はその少女に抱き着かれた部下を助けようとして、少女を引き剥がした時に死んだ。優しくて責任感の強い彼らしい死に様だ。後に残される私のことを何も考えていないのが欠点だが。
 恋人が死んだという連絡を電話で受けたことは記憶している。「三佐は素晴らしい方でした。残念です」と電話口の相手が言い、「そうか、作戦行動中の死亡による二階級特進で二尉から三佐になったのか」と思ったことを覚えている。電話を切ってからのことは覚えていない。次の記憶は一応持たされている拳銃を口に突っ込んで自分の脳幹を吹き飛ばそうとしているところだ。泣きながら私は会社から支給されていた自分の銃を銜えていたところを、警備員に殴られ制止され、拘束された。
 私の脳味噌はとても良く出来ていて、防犯カメラの映像を見るまで私は自分の記憶を消していることに気付かなかった。研究室で訃報の電話を受け、通話を終えた私は絶叫し、頭を掻き毟り、研究データが入ったファイルやパソコンを薙ぎ倒し、あらゆるモノに手当たり次第当たり、最後は乱雑に自分のデスクの引き出しを開けて拳銃自殺を試みていた。
 激しい感情を伴う記憶を自己防衛のために消している。賢いな、と映像を見せられた私は椅子に拘束されたまま感心した。私の目の前に座る上司は溜息を吐いた。上司が使うマホガニーの大きな執務机が羨ましい。昇進したら同じメーカーの机を買おう。
「落ち着いたかい? セラピーやってくれる企業医の先生呼ぼうか?」
「いいえ」
「伏屋君、そんな感情的になるところあったんだね」
「はい。私も驚きました」
「『全員殺してやる』『よくもあの人を殺したな』って、まさか君からそんな台詞を聞くとは思わなかったよ」
「はい。私もそんな台詞を口にするとは思いませんでした」
「でもさ、自分が死んだら君の彼氏殺したゲリラ共を殺せないよね?」
 年配の上司はしみじみとそんなことを言った。私は「確かにその通りだ」と思った。
「部門長、私はすっかり冷静になりました」
「北極点は平坦な氷の大地だが、その下の海はどれほど荒れ狂っているのか分からない。今の君もそうじゃないかな」
「いいえ部門長。私は至って平静です。とても落ち着いています」
「頭おかしくなったヤツって大体言うこと同じだよね~。感情爆発して理性死んでるの丸分かりなんだけど」 
「新しい兵器設計を思い付きましたのですぐに取り掛からせてください。是非。画期的な兵器です」
「え、どんなの?」
「完成したらお見せます」
「いや駄目だよ。問題あったら却下しなきゃいけないんだから。設計案出来たら見せて」
「完成をお楽しみに」
「だから駄目だっつってんでしょ」
 そんな遣り取りをして、私は解放された。

 私はすぐにあらゆる手段を用いて恋人の遺体を引き取った。彼の家族からは抗議の嵐。私はその全てをシャットアウトして、上司の文句も全て無視して、私の恋人の遺体を私の城である私の研究室へと迎え入れた。研究員を全員追い出して私と彼だけで作業をすることにした。私と彼は部屋の中に二人きり。遺体の鮮度を保つために室温を零下に設定した部屋の中。二人だけの世界は良いものだが、もう少し穏やかな形で体感したかった。
 私は、処置台の上に載る私の恋人を見下ろしている。私の専門は生命工学。遺伝子組み換えで疫病に強い穀物を生み出したり水質浄化作用のある貝類を生み出したりしている。そして死体の軍事利用を非公式的に研究している。私は恋人の死体を見下ろしている。恋人は臍から下を著しく損傷して失っている。私より背の高い恋人は未就学児程度の背丈になっている。
 私は恋人の顔を覗き込む。死に化粧は既に施されている。私の前髪が彼の顔に触れる距離を通り過ぎて、睫が触れる位置にまで近付ける。どれだけ顔を近付けても彼の吐息は聞こえない。瞼を上げることはない。短い睫が揺れることはない。もう人懐こい笑みを浮かべて私の名前を呼ぶことはない。私の肌に触れることはない。彼と食事を共にすることはない。彼はもう笑わない。彼が老いることはない。彼はもう私を愛していない。
 こんなにも近くにいるのに、限りなく「あなた」は遠い。
 そんなことを思って私は彼から離れた。早速取り掛かることにする。必要な材料をリストアップして研究員に準備するようメールする。彼の下半身を補う素体は何が良いだろうと考えると永遠に悩み続けると予測出来たので「寅年だからトラで良いか」と適当に選んだ。
 「ABC兵器」は画期的な戦略の新ジャンルであり、私の死体利用もその内に含まれる。まだ「どうすれば採算が取れるのか」を思案する段階なので改良が必要だ。今から私が造ろうとしている「キメラ」もコストの高さがネックとなっている。複数の材料を使って一つの個体を生み出す「キメラ」は低採算の典型とも言えるが、私の恋人が材料なのだ。幾らでも金を掛けたくなる。
 アムールトラの死体が手に入った。彼の体と繋ぎ合わせた。内臓は使い物にならないので培養した新鮮な臓器に換装した。接合の不具合を補うために他の生物の遺伝子も混ぜた。彼は食事をするのが好きだったから何を食べても平気なようにしてあげよう。彼が二度と死なないように頑丈な造りと再生能力を与えた。
 キメラの構築については、理論そのものは既に完成していた。七回の動物実験を経て後は実用段階へとどう進めていくかが問題だった。「死者の蘇生」という命題は半世紀以上前にクリアされているので困難な問題ではない。「脳の完全情報化」も、数年前に解決されている。量子コンピュータと人間の頑強な探究心は崇拝されるべきだ。
 私は彼を再構築しながら、ずっと誰かを殺すこと考えていた。彼を動物の死体と繋ぎ合わせている間、ずっと人を殺すことを考えていた。殺してやる、殺してやる。彼が赴任していた国が内紛状態で、政治的にも経済的にも難しい状況だったことは知っている。ゲリラとなって武力行使に走る民間人の内情を理解出来る。彼を殺した少女にも同情の余地があることを理解している。それはさておき殺してやる。彼等の父母が焼き尽くされますように。彼等の子供達が須く轢き殺されますように。彼等の頭上に焼夷弾が降り注ぎますように。如何に善良であろうと皆殺しにしてやる。国の体裁など保てないほど破壊してやる。民族ごと滅ぼしてやる。その名さえ歴史から削ってやる。
 私は彼が死んだと聞いてから自己の感情を切り離すようになっていた。全てが遠い事象として完結している。私は懐かしむような感覚さえ覚えながら恋人の体を繋ぎ直した。
 体のほうを繕い終えたら今度は中身を繕う必要がある。彼の体を栄養剤入りの培養液で満たした調整槽に放り込み、量子コンピュータで脳を読み込むと、ずらずらと画面にコードが表示される。コードは次々と現れてくる。人間の脳をデータ化すると画面が埋まる。全て彼の記憶だ。生まれた時から死ぬまでの記憶。コードには少しだけ私のことも書かれている。彼とは互いの仕事の関係であまり会うことが出来なかった。
 私との思い出はいつも二人で食事をしているものだった。彼はいつも私の食事の回数を気にしていたし、私は彼から常備食に関しての悲哀を聞いていたので良い物を食べさせてやりたかった。記憶を一つ見てはその日のことを思い出す。あのレストランは良かった。鴨のコンフィとカスレの店。美味しかった。とても。でももう行く相手がいない。私は脳のコードを削っていく。全てが私の恋人を構成していたコードだ。それを私は削っていく。私はこの世から恋人を消していく。淡々と。
 あなたとの食事はいつだって美味しかった。あなたと過ごす日はいつだってとても素晴らしい日だった。光はいつもよりずっと明るく、全ての境界は鮮明に見えて、あなたのことをより仔細に理解出来た。コードを読めばあなたも同じだったことが分かる。あなたの目には私がどんな風に映っていたのかが分かる。あなたは私が初めて好きになった人だった。あなたの硬い掌が好きだった。温かい手で私の手を握ってくれた。あなたは私の指先がいつも冷えていたから心配していた。恋は不思議なものだ。ただの無機質なコードを、こんなにも美しく見せてくれる。
 恋人の頭の中を私は弄る必要があった。彼の体はあまりにも変わり果てた。それを認識した時に齟齬が生まれてはいけないのだ。彼が発狂するのは忍びない。彼が自分の姿を鏡に写してそれが自分だと認識出来るように、違和感を削っていく必要がある。

 私は恋人が死んだと聞いてから七週間で彼を組み上げた。以前、彼に「誕生日のプレゼント」と渡され、研究室で水耕栽培していたヒヤシンスがデスクの上で枯れていた。新品の脳にコードを書き込んで、彼の頭蓋に納めた。調整槽から引き上げて処置台の上に乗せ、蘇生を行い、彼が無事に目を醒ます。
「私のことが分かる?」
 処置台の上に寝かせた彼に尋ねると、微睡んだまま「うん」と答えた。
「自分がどうなったのか、覚えてる?」
「うん、ん? んん、ここ、屯所じゃない?」
 「俺なんで君の研究室にいるの?」と彼は自分の額を押さえて瞼を擦る。
「体が重たい・・・・・・酒飲んでないんだけど・・・・・・」
「良かった。何処も痛いところは無いみたいだね。慣れたら体が楽になるよ」
「そうかなぁ」
「私の名前、分かる?」
「シント、ふしや、しんとう、伏屋深統・・・・・・」
「何度も呼ばなくて良い。間違ってないよ。自分の名前はどうだろう? 言える?」
「えー? えーっと、なんだっけ、えーっと、うーん・・・・・・まあいいや、別に」
 彼は、「まあいいや」と言った。「まあいいや」と言ったのだ。私の調整が反映された言動だ。彼は自身の違和感を感じていない。私は齟齬を産むコードを丁寧に削ぎ落としていった。結果として、死ぬ以前のことを輪郭程度にしか覚えていない、私のことも曖昧な影のような記憶でしかない、だがそれにさえ大して違和感を抱かない彼が出来た。それで良い。必要なのは「現在」だ。レストランに入れない姿なのに、レストランで食事をした記憶があるなんて軋みしか産まない。感情系のコードには触れていない。だから目の前の生き物は私を信じている。今後はそれだけあれば十分だ。恋人は死んで、私が切り刻んで、繋ぎ合わせて、この世から消え去った。
「そんなことよりシント、あのさ、変なこと言うみたいでちょっと嫌なんだけどさ・・・・・・」
「うん」
「俺って、本当に『俺』? なんかすごい、なんというか」
 彼はぺたぺたと自分の顔を触ったり腕や胴を確かめたりしている。トラの足にも触れる。それについては特に質問は無かった。
「すごい着ぐるみっぽい」
「まあ、お前は色々作り直したから。リハビリも必要だろう」
「そうかな・・・・・・でも、シントがそう言うってことは、そうなんだろうね」
 会話能力の確認も済んだところで彼を地下に設けられている室内試験場に入れて、部門長に漸く連絡した。部門長が私を叱ったのはほんの数分で、成果物を見せると言えば「え、見たい」と怒りを忘れた。私はエレベーターの前で部門長と合流し、「さあどうぞどうぞ」と招いた。ザトウクジラを入れることもある広い試験場をモニターするための隣室に向かった。
 試験場の一面とモニター室は耐衝撃仕様のマジックミラーを一枚隔てた造りになっている。上司に「どうぞご覧下さい」と彼を見せる。彼は試験場で退屈しているのか、うろうろと歩き回っている。人間の両手は握られて拳になり、地面につけて六足歩行している。上半身と下半身を背骨で繋げたから上体を起こす体勢は疲れるのだろう。
 部門長は彼の姿を見て「わぁ、怪獣だぁ」と言った。
「なんか腕長くない? 凄い自然にナックルウォークしてるけど」
「人間で言う『背筋を伸ばす』のは少し負担があるように思えたので最初の段階で腕を伸ばして筋肉量も若干増やしました。ゴリラとか混ぜてみた」
「なんでもかんでも混ぜちゃうんだからこの人は~。後で遺伝子情報開示して。精神的不具合は?」
「脳のコードを書き換えたので今のところ出ていません」
「なんでそう躊躇いなく脳味噌弄っちゃうかなぁ~。倫理死んでんの? 後でコードのログ読ませて」
 部門長が「目眩がする」と呟くのを聞きながら、私は研究員に実験開始を指示する。研究員が試験場に入る。研究員を見付けた彼は「こんにちは」と挨拶した。コミュニケーションに問題は無い。研究員が野球グローブを渡して「キャッチボールをしましょう」と誘い、少し距離を開けて軟球を投げる。彼はグローブできちんとボールを受け止め、投げ返す。問題は無い。かなり高めに投げても、彼がトラの足で跳躍すれば数メートル上空のボールを簡単に取ることが出来た。
 感嘆の溜息が部門長の口から漏れたのを聞いて私は勝利を確信した。
「すごいね」
「元々の素体能力と経験値があるので訓練はさほど必要無いでしょう。強いて言えば歩き方と力加減ですかね」
 彼が思い切り投げた亜音速の剛速球は受け止めようとした研究員の掌を砕いたらしく、研究員は泡を吹いて倒れた。
「そうだね。拳で歩くならグローブを誂えてあげなよ。名前は?」
 私は部門長にタブレットを渡す。彼に関する書類を纏めてあるので、フリックすれば大抵の書類を閲覧出来る。部門長は暫く画面を眺めて言った。
「うわ正式名称なっが。えっなんでこんな二千字とかあるの?」
「使った特許と遺伝子情報入れないと拙いじゃないですか」
「えっこんなに特許使ってんの!? めちゃくちゃコスト掛かってんじゃん!? それでアレ一個体だけ!?」
「部門長。ご安心ください。私の研究室予算の他にプール分があるので多少予算度外視でもトントンぐらいです」
「全然良くないよ・・・・・・量産化出来ないじゃん・・・・・・で、君はなんて呼んでるの?」
 その質問に私は漸く彼に名前を与えていないことを思い出した。私は少し思案して、名前を付けた。
「『シータ』」
「シータ? ああ、『θ』ね。実験回数としては八回目だから?」
「ええ。それに『死』の意味もあるので、丁度良いかと」
「趣味ワルい。生きてた時の名前で呼んであげれば良いのに」
「彼とシータは最早別の個体ですから」
「恋人、生き返らせたかったんじゃないの?」
「いいえ」
 掌が砕けた研究員は回収されて新しくまた研究員が入ってくる。今度はタイム計測と力比べだ。シータ、と名付けた彼が試験場を一瞬で駆け抜け、ジープと綱引きをする。子供のように笑う顔は恋人と同じだった。部門長はシータに興味津々らしく、自ら研究員に指示を出して反応を見ていた。
 私はシータを組み上げた時のことを考えていた。私は、私の恋人がもう生き返らないことを知っている。「死者の蘇生」では欠損が大き過ぎると上手く蘇生出来ず、蘇生したとしても人格や肉体に異常が生じる。体積が増える分も同様であることはキメラ作成の過程で発見している。過程が過程なので発表はしていない。脳の書き換えを行えば上半身だけであろうと体積が増えていようと生き返るが、それはオリジナルではない。彼をそんな不完全な姿で生き返らせたところでどうすると言うのだろう。私の研究室で芋虫のように這う彼を飼育したいわけではないのだ。私は、殺した相手が怪物となって襲いかかってきた時の、人々の恐怖に歪む顔が見たい。肉塊となった連中が見たい。悲鳴を聞きたい。地獄に叩き落としてやりたい。そんなことを考えていた。
 燥ぐ部門長はふと、沈黙していた私を見る。
「恋やら愛やらで賢い君の頭がおかしくなるところなんか、見たくなかったな」
「それを原動力に私はシータを造りましたが」
「馬鹿言っちゃいけないよ。私怨と衝動の結晶だよあんなの。真っ当な人間はああいうの思い付いたら駄目だよ」
 やれやれ、と部門長は首を振り、「君は元々頭おかしかったけどさ」と言う。
「運用についてはどういうプランにするの?」
「単独による野戦ですかね。密林などであればより効果を発揮出来るでしょう。夜であれば更に。殺傷能力よりは士気の低下と恐怖の喧伝に重きを置くコンセプトです。広範囲に枯れ葉剤を撒くよりずっと安上がりで、自然に優しく敵戦力の駆逐を狙うことが出来ます」
「まあアレじゃ要人警護とかは出来ないよね」
 「売り込みが難しいな」と言う部門長に私は更にプレゼンをする。
「遺族からの死体提供でゲリラを駆逐する『わくわく復讐プラン』として打ち出すのは如何でしょう? 最愛の家族を失った遺族にバカウケ」
「そんなことしたらウチの株大暴落するでしょうがこの馬鹿」
 長い長い息を吐いて。部門長はこめかみを掻いた。
「実地での試験、やって見ようか。悪環境下での運搬役とかガイド兼タンク役として彼を運用する感じで」
 その提案に私は頷く。確かにシータの身体能力であればどんな悪路だろうと長距離行軍であろうと耐えることが出来るはずだ。
「ありがとうございます部門長」
 私は礼を言う。シータは試験場を駆け回っていて、自分の今後など気にしていない。彼の有用性を証明するのは難しい。用途があまりにも乏し過ぎるからだ。部門長もそれを理解している。
「もしかしたら、次は無いかも知れないね。何処で実地やりたい? 選んで良いよ」
 私はすぐに私の恋人が死んだ国を口にした。部門長は抑揚に頷いた。
「なら、相手は現地の武装ゲリラだね」
「はい。彼の有用性を証明するには十分要項を満たしているでしょう。彼を優位たらしめるだろう密林があり、貧相な装備のゲリラが哨戒している。よく見るCNNのニュースです。夜のハイキングには丁度良い」
「格下相手に怪獣を嗾けるなんて邪悪だね君は。剣闘士にされた奴隷でも、もっとマシなのを相手をしていただろうに・・・・・・。相手がこんな狂人の『やったらめったら縫い合わせたオモチャ』だなんて。あ、相手が獣だから闘獣士か」
「罪人の処刑にも獣に食い殺させる方法がありましたよ。見世物としてはご期待に添えるでしょう」
「君だけが満足するホラーショーだ」
 部門長は概ね満足したらしく、タブレットを私に返す。実地での運用試験の詳細は後日詰めることになった。モニター室を出る時に、部門長は私に訊ねた。
「伏屋君、歴史上初めて行われた『剣闘』は、何故行われたのか知ってる?」
 私は「いいえ」と返した。あまり興味の無い類いの話だが、部門長はその手の歴史を研究することも仕事の範疇に収まっていた。即ち、人間の悪意と暴力性の歴史。それは私達が所属する企業にとってはとても重要な命題だった。
 部門長は私に弔辞でも述べるかのように教えた。
「『哀悼』だよ。愛する故人へ捧げるために人間は闘技会を開いた。死を悼む行為が始まりだよ」
 「結果を楽しみにしている」と部門長はモニター室から出て行った。私は試験場のシータを見る。シータはマジックミラーを興味深そうに眺めている。自分の姿しか映っていないはずだが、私と目が合って、彼は微笑んだ。彼は私の恋人ではない。再構築した彼の残滓はあっても、それを掻き集めたところで結局は複製でしかない。不毛で不格好な事実だ。
 私はかつての恋人と目の前にいる完成品を、完全に別個体として認識している。

 三ヶ月後。実地での試験が認められた。私が観測役兼被験者として同行することになった。「ずるいずるい」「俺達もシータと実験したい」「肉球! 肉球の癒やしが消える!」と喚く研究員共を無視し、「君が死んだらまあまあ会社の損害になるから気を付けてね」と言った部門長に礼を言って、私はシータと初めての旅行に赴いた。


 シータの呼ぶ声で私は回想を終える。シータは倒木に座ったままの私を心配している。
「シント、疲れちゃった? もう歩きたくない?」
「・・・・・・そうだな。流石に夜の密林は歩くと疲れるよ。でも大丈夫」
「普通の道なら十五キロくらいなんてこと無いけど、ジャングルだと全然違うからね」
 彼が体を私に擦り寄せてくる。力が強いので倒れそうになる。恋人はこんなにも甘えてくる人間だっただろうか。どうだったかな、と思いながら私は彼の頭を撫でる。
「シータ、手を見せてみろ」
 彼は私の言葉に従順に従う。目の前に持ち上げられた人間の手。厚手のグローブを嵌めている。私がグローブを脱がすと、彼の中手骨頭、拳を握った時に突き出る部分に血豆が出来ていた。血豆は既に潰れて血が滲んでいて、その下には鱗が生え始めていた。センザンコウとワニが混じった鱗だった。いずれ角張った彼の爪も鋭く生え換わる。
 彼には再生能力がある。プラナリアを混ぜたので腕が千切れても傷口を合わせておけば数時間で繋がる。欠損すれば代替再生が行われる。私の恋人に「人間」を混ぜることなど論外なので混ぜなかった。代わりに多くの生き物を混ぜた。だからシータは傷を負うと、再生し、その結果少しずつ人間の形を失っていく。最終的にどうなるのかは分からない。脳さえ損傷しなければ彼の人格に支障は無いし、駄目なら新しい脳をまた積んでやれば良い。
「グローブ、もっと厚手にしてやれば良かったな」
「別に俺は平気だけど」
「あんまり傷が増えるのは良く無い。頭に大怪我をしたら角でも生えてくるかもな」
「えっカッコイイ。めちゃくちゃ強そう」
「邪魔だし重いぞ多分」
 私はグローブを嵌めてやると立ち上がった。ポンチョの下に隠していたメッセンジャーバッグの中から地図とコンパス、懐中時計を取り出す。
「シータ、現在位置は何処だ?」
「この辺り。合流地点まであと二、三キロってところかな。ちなみに迎えが来るまでまだ二時間弱はある。ペース的に余裕だと思う」
「良し。無知な私を安心させる回答だな。出発して七時間も経過しているが、悪路と素人の歩きは壊滅的に相性が悪い」
 私は地図などの道具を仕舞い、再び暗視ゴーグルを手にする。嚙み付き防止のマスクを自分で付けたシータに火の始末を頼んで、死体は放置して出発した。歩く私の後ろをシータはついてくる。足音などさせずに、呼吸音も消してついてくる。私の恋人は私の後ろを歩くのが好きだった。「歩いてる後ろ姿がカッコ良くて好き」などと宣いて、私の後ろを歩いていた。今はシータの試験中なのでそれではいけない。
「シータ、先導しろ」
 命じれば彼は従い、前へ出る。素体との精神的結びつきはこうした場面で有効に作用する。太く長い尾を揺らして私の前を歩く。シータは人間の両手と、トラの四足で歩く。音など立てずに。地を這うように歩く。「虎の肉球は消音器」という短編が脳裏に浮かぶ。虫や動物は彼が異常なのだと気付いているのか、即座に逃げていく。だからあまり他の生き物の気配がしない。
 私達は特に何も話さない。私は必要以上に口を開くことが無いし、恋人も物静かな人間だった。濃い闇と静寂が満ちた森の中を私達は歩いて行く。

 一時間ほど歩き続け、もうすぐ合流地点目前というところで、シータが止まる。じっと、森の奥を見ている。
「ゲリラの野営か?」
 私は殆ど聞こえないような声量で訊ねる。シータの頭が僅かに上下したのが見えた。シータは私の指示を待っている。
「迂回は可能か?」
 否定が返ってくる。私には野営の灯りが見えない。彼には見えていて、大凡の位置関係も把握しているのだろう。
「襲撃して、混乱させ、その隙に通り抜けることは可能か?」
 少しの間を置いて、シータは私のすぐ傍にやって来た。体を纏わり付かせてくる。
「どうした?」
「反撃に遭うとシントが怪我するかも」
「銃を持っているのは何人だ? そんなに多いのか?」
「四人か、五人くらい。あとね、ゲリラの野営じゃないみたいだ。家族連れ。二十人いるかいないかくらい。村を捨てた人達かな」
 シータの懸念は戦闘員と非戦闘員の境界が曖昧な点だろう。銃を持った連中を始末すれば良い、という構成ではない。反撃がどの程度あるか、予測が出来ない。だから私の心配をしている。戦闘能力が皆無の私では包丁で刺されただけでも死ぬ。迂回するには人数が多過ぎるし、安全な迂回路を探すには時間が足りないかも知れない。
 私が働く企業では入社時にある誓約書にサインする必要がある。「自身の倫理観を保って業に当たることを誓う」という旨のものだ。私はすぐにサインした。倫理観という高尚なものなど私は持ち合わせていない。だから企業倫理に従うことにした。
「お前が思いつく中で、一番酷いやり方で、邪魔なあの連中を追い払え。シータ」
 シータは「分かった」と答えた。彼は身を翻してまた先導する。十数分も歩けば私にもキャンプの灯りが見えた。暗視ゴーグルを外して、暗闇の中を見詰める。もっと近付けば彼等の姿が見えた。
 火を囲んで団欒する家族。テントなどは無く、ボロボロの毛布で体を包んでいる。小さな子供もいる。銃を持った男がいる。彼等は身を守るためだけに銃を持っているのかも知れない。ゲリラに加わった男達が家族を迎えに来て、これから本隊と合流する気なのかも知れない。安住の地を求めているのかも知れない。私には関係無い。私は幸せそうなあの家族が恋人を殺したゲリラと同じ民族だと思うだけで同じだけ憎い。
「迅速にやれ。長引いても困る」
「良いよ、シント」
 シータは私の命令に従う。シータは私に絶対的な信頼を抱いている。理由の分からない愛情を抱いている。脳のコードにはそれが書かれている。私が書いたのではなく、元から書かれていた。恋人は私を愛していたし、シータは私を愛している。
 シータが音も無く跳躍し、暖かな光に満ちたキャンプへと躍り出た。突如現れた異形に、彼等は硬直した。低い獣の唸り声が響く。女が悲鳴を上げる。男達が銃を向ける。シータは銃を向ける男の一人に飛び掛かって頭を踏み潰し、踵を返してまた一人に飛び掛かる。銃弾を避けて、手近にいた女の首を掴んで盾にする。躊躇った男に女を投げ付ける。地面に倒れた二人を踏み潰す。逃げない女の首を捻じ切る。呆然としている子供を空へ高く放り投げる。男をトラの爪で八つ裂きにする。銃を取ろうとした子供を殺す。女を殺す。私はそれを無感動に眺めている。
 阿鼻叫喚、という単語を思い浮かべているうちに凄惨な場面は終わる。五分程度の戦闘だった。生き残りは散り散りになって森の闇へと逃げた。これで問題無く先に進める。
「シント、済んだよ」
「ご苦労。よく出来たな」
 私はシータの頭を撫でて、ゴール地点へと向かう。平坦な道が続いていた。先導するシータは緊張状態を保ったまま低い姿勢を進む。迎えが来る地点は開けた崖だ。もうすぐ到着する。歩き続けて、森が開けた。
 夜明けが近い。空は真っ黒で、星が輝いている。稜線が白んでくるのはもう少ししてからだ。私は衛星電話で部門長に報告と迎えのヘリの時間を早めるように要請する。私の要請はすぐに了承された。
『ところで伏屋君。戦闘とかした?』
「・・・・・・ええ。三回ほど。それがなにか?」
『なんかさぁ、いつものヒーローの皆さんが君のいる辺りに出動したっぽくてさ。特に爆発とかしてないはずなのに、あの探知精度なんなんだろうね。あ、連中が到着するより先に離脱出来ると思うから大丈夫だよ』
 企業を攻撃する厄介な自警団、もといヒーローが出て来るとは思わなかった。随分と暇らしい。未成年らしい構成員が多いのに、親は何をしているのだろうか。私と同じように呆れた溜息を漏らしながら、『じゃ、気を付けて帰ってきてね』と言って部門長は通話を切った。
 私はヘリが来るまでの間、シータの毛皮を撫でながら、私は静寂に包まれた密林を眺めていた。フロストの「雪の夕べに森のそばに立つ」を諳んじながら、自然に反した異形と共に大自然に包まれている。シータが喉を鳴らしている。それを聞いていると、遙か彼方から切り捨てたはずの人間性が去来してくる。
 私の頭の中には憎悪と絶望の国がある。それは幼い時からあるもので、生来持ち合わせた私の性質であり、決して消えることのないものであり、私の頭の中の大部分を占領している。恋人と出会ってからは段々その領土が減っていった。だが今では全てがその領土と化している。
「シータ」
「ん? なに、どうしたのシント」
「もし、お前が失敗して、私がどうしようも出来なかったら、一緒に死のう」
 私にはもう彼の有用性を証明することぐらいしか生きる理由が無かった。それが出来なければ死のうと思った。シントの有用性を示すことが出来なかった責任を取る必要があるし、恋人を損壊した償いをしなくてはいけない。
「えー、やだよ。二人で何処か遠くへ行こうよ。シントのこと抱えて走るし。なんならシントは寝てても平気だよ」
 マスクをしていてもシータの表情は分かる。笑う彼は「俺と一緒に行こうね」と両手で私の輪郭を確かめる。優しく、慈愛に満ち溢れた温かい手だった。私の好きだった恋人の掌だった。
 私は彼がこのまま私の頭を握り潰すよう祈った。




登場人物紹介


伏屋深統(ふしや しんとう)
・発狂したリケジョ。生き甲斐が全然無い。
・憎しみと憤怒だけで生きている
・今後は正義のヒーローもとい営業妨害してくる自警団を殺す方針

シータ(θ)
・なんかよく分かんないけどシントが好き!
・なんかよく分かんないけど頑張る!
・シントと食べるご飯が一番美味しい! 理由は分かんない!

部門長
・部下が発狂して頭痛が止まらない
・ヒーローが企業の成果品を壊しまくるので辛い

研究員達
・沢山いる
・最近労災が下りるようになった


世界観 補記
・近未来
・軍需産業が普通に営業中
・少年漫画みたいなヒーロー達がいる



BGM

不完全な処遇/GUMI
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魔法少女幸福論/初音ミク
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ドクハク/初音ミク
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からっぽのまにまに/初音ミク
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ブリキノダンス/初音ミク
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マインドスプラッター/GUMI
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ラプチャーステップ/GUMI
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