「才能」のお話
みなさんこんばんは、ゆきたけです。
いつものようにTwitterを眺めていたら、ちょっと気になる記事を見つけました。
それは、「結果を出す人の思考法」という、GACKTさんとある記者のインタビュー記事でして、その中でも、“才能のあるなしをやらない理由にするな”いう言葉にとても目を引かれました。
やってもいないのに、才能がないから、、、などと言い訳するのはおこがましい、とGACKTさんらしい手厳しいお言葉が見られ、不覚にも読んでいて少し口角が上がってしまいました。
読んでいて、やってもいないのに、というのは宝くじに置き変えて考えるとわかりやすいのではないかと思いました。
宝くじというものは買わなければ当たりません。それと同じで、何かしらやってみなければ才能のあるなしも測れません。
掘り下げて考えてみると面白い内容だなと思いまして、今日は「才能」について、記事の内容も踏まえながらお話していこうと思います。
まず、「才能」の辞書的な意味を見てみましょう。
ある個人の素質や訓練によって発揮される、物事をなしとげる力。
そう書いてあります。
そうは書いてあるものの、普段、私たちが口にして使うときは素質の部分を重視していて、訓練については「努力」など別の表現に区別しているように思われます。何が言いたいのかというと、『生まれ持った先天的なもの=才能』で、『訓練で育てたもの≠才能』という区別があるように思われるということです。
先程のGACKTさんの言葉や辞書の意味を見てみると、後天的に育てたものも才能といっていいように思わます。
トライアンドエラー、挑戦と失敗を繰り返して積み上げたものが才能であるとも言えるのかなと筆者は捉えました。
また、記事の中でGACKTさんはこうも話していました。
やってみて“失敗をしても傷つく必要はない”と。
なぜなら、“失敗とは、「結果」ではなく「結果を出すまでのプロセスのこと」である。だから、そもそも傷つく必要がない”と。
ちょっと本筋から離れますが、ああ、プロセスがあってこその結果なんだ、そう思い知らされました。
才能だなんだというには元から持ってるものがどうとかは置いておいて、まず挑戦することからなんだ、そんな気持ちになりました。
そんな感傷はさておき、話を本筋に戻すと「才能」というものは先天的なものと後天的なものを足し合わせたものなんじゃないか、それが今回の話のオチになります。
先天的なものは今からどうのしようもありませんが、後天的なものは今からでも磨くことはできます。
時間の制約や環境など、思うようにやってみたいことができないかもしれませんが、一日一歩、なんなら半歩でも前に前に進んでみるということが大事なのではないか、そんなことを考えさせられた一日でした。
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