現実を見ること(小川洋子『物語の役割』を読んで)

数か月ぶりの1人の夜に、小川洋子『物語の役割』を読んで、久々に文章を書きたくなったからnoteを再開してみる。

この1年は、前半を将来のために使って、それが終わったらするべきことがなくなってしまって自分を見失っている期間が長かったように思う。
授業もない。課題もない。でもお金がないからあまり大それたこともできなくて、でも何か成したくてもがいていた。

今回小川洋子さんの講演の記録である『物語の役割』を読んで、最近考えていたことと少しずつ重なっていて、心が軽くなった。

まず、小川さん自身が自分のことを特別ではなく、誰もが日々現実世界で体験していることを、そしてそれを無意識に物語化したものを意識的に取り出しているだけだと述べていたことについて、私自身の読書傾向の変化もそれだったのだと気づいた。
昔は、フィクションばかり読み漁っていて、それというのも現実世界に起こりえることには限界があるのだから、絶対にフィクションの方が面白いだろうと思っていたからだった。また、自分が何度か創作をする側に回ってみた時も、自分の脳内にあるものを目に見える形にしてみたところで、自分が考えつく範囲の話なのだから面白くない、自分の予想を超えるものこそが面白いものなのだからと考えていた。
しかし、原田マハ作品(最初に読んだのは『たゆたえどもしずまず』)、本屋大賞を受賞した『同志少女よ、敵を撃て』、『アンネの日記』など、史実を元にしたものや実録ものを読んで、実際に起こったことだからこそ身に迫る読後感に衝撃を受けた。現実に起こったことだからこそ、実際に生きていた人たちだからこその感動があると知った。

これまでフィクションを読んでいたのは、現実逃避という意味合いもあったのだと思う。現実が嫌いだったわけではないが、想像の範囲内のことしか起きないつまらない日常から離れてたくさんの魅力的な世界を知ることができるものとして楽しんでいた。しかし、読書をして何になるのかということについて、現実逃避として、娯楽として消費するだけだと答えるのは本意ではないし不遜な行為だろう。世間一般では、読書をすれば知識が得られるとか、難しい言葉がたくさん読めるようになるとか、とにかく幼い頃からたくさん読んでいる人は賢い人が多いからとか言われがちで、私自身もたくさん言われてきた。しかし、たしかに私は漢字が読める方だが、本で覚えたのかと言われるとそのような記憶は特にない。本の中で初めて見る言葉があっても、ルビが振ってあるわけでもないし、話の理解に差し支えがある場合以外はあまり調べたりせず雰囲気で読んでいる。私が漢字に詳しくなったのは、漢字検定の教材や祖母との辞書難読漢字探しゲームのおかげだからである(といっても覚えたのは「木乃伊(ミイラ)」とか「合歓木(ねむのき)」なので全然実用的ではない)。
だから、本を読んでいてよかったことは、知識が手に入ったことでもただ面白いということでもなくて、自分ではない誰かのことを考えられること、追体験できることだと結論づけた。それは現実にも活きていて、だから私は自分じゃない誰かの立場になってみることが上手いのだと思う。ブレイディみかこさんの本に「他者の靴を履く」というイギリスの表現があったが、その通りだ。そのせいで関係ないのにしんどくなってしまう自分もいるが、私はそんな自分も素敵だと思う。自分にしかできないことがしたくて、他の人とは違うんだということを証明したくて必死な若くて少しイタい自分も、会ったこともない人に感情移入して落ち込んだり自分じゃない誰かに向けられた発言に傷ついたりしてしまう繊細な自分もいいなと思う。

小説の中のキャラクターだって、そのストーリーやテーマだって一言で言い表せたりしない。現実も同じで、たとえば私のことを「真面目」だとか「繊細」だとかの一言で言ってみたところでそれは私の一部でしかなくて、すべてを言い表すことは不可能である。だから作家は文字を尽くしてそれを表現するし、私はこれからの人生をかけて自分自身を証明するのだ。

と思いつつ、腰が重いのであまり気負わずにしたいことが湧いてくるのを待ちます。日常の小さなことにアンテナを立てながら。


追記 小川洋子さんと誕生日が同じであると本書で知ったので、それを誇りに生きていきます。

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