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“独り”だけが共通で、だから“君と私”なのだと知って。

長らく書けない日々が続いている。
内容としても、日々の隙間としても。

かれこれ、、 どのくらいだろうか。


数年間の本が読めない期間を抜け出し、少なくとも週に1冊は本を読むようになった。

書くことより読むことが増えた日々。

アウトプットよりインプットな日々。

最近、私生活においても似た変化があった。

先月までのおよそ1年程だろうか。
「私はこういう人間です」
「こういうことを考えて、こういうことをしてます」
「誰か共感してくれる人はいませんか?」

そんなアウトプットな生活を続けていた。
似た人間のいそうな場所を探し、居場所を求め、“何者かにならねば”と焦燥した思いを抱えていた。きっと、どうしようもない孤独感から由来した行動だった。


私は、石橋を叩いて、結局裸足で川を渡るようなところがある。

違和感があったとしても、それがどんな理由で、何が原因なのかが分かるほど頭も切れず、経験値から判断できるほどの挑戦もしてこなかった。The 内向型 だ。

だから、これを選んだらどうなるとか、今これをしなければそこに辿り着かないとか、そういう逆算的なことがいまだ上手くできない。
違和感だけを頼りに、違和感だけを避けるように、ほとんど直感的に自らの足を踏み出すしか方法を知らないのだ。というより、それが今まで学んできた今のところの私なりの最善なのだ。

違和感を無視したまま走り続けること。それが私がしてきた経験であり、重ねた学びであった。

おかげで何度も心を痛めつけてつけてしまった。もう当たり前のようには生きられないのだと何度も泣いた。だけど、どうしても、ただ普通に生きることが諦められなかった。
だから、『自分は今どう思う?どうしたい?』
ただそれだけを自身に投げかけ続け、それを外に出す練習を繰り返した。

だんだんと自分の意思が分かるようになり、違和感を違和感として気付けるようになった。そして、その違和感は無視をしてもどこかで必ずはっきりと姿を現すのだと知るようになった。


違和感。とても大切にしていたけれど、それに従うことが難しいこともあった。

選べる全てがなんとなく自分にしっくりこない。それでも期日があって何かを選ばなくてはいけない。そんな時。

結局私は、ひとつを選び、そこでの最善を探っていった。

それすらも過ぎた今、思うこと。
そんな日々も私にはあるべくしてあった日々だった、ということ。
私にはどれもが必要な日々であり、必要な学びであり、過ごすべき時間だった。

今思えば、アウトプットな日々、それは莫大なインプットの日々だった。
出会う人間の多さは出会う価値観の多さであり、話す時間の長さは自分と他者との距離を知るものだった。

「誰か共感してくれる人はいませんか?」

「誰か、私と同じ人は、いませんか?」

そう宇宙に問いかけるような日々。

そんな日々の中、私が知ったことは、
誰も彼もが“ひとり”だということ。“唯一”であるということ。
“同じ”は存在してくれないということ。

“違い”で愛せる、ということ。
“違い”を愛しているということ。


自分と似たように思う人間も、結局は“違う”から“似ている”と思うのだ。最初から“違う”と心の奥では分かっているのだ。

ただ、“独り”というのは直面した時に初めて、その無慈悲さや、あての無さ、そしてそのどこまでも続く暗闇のような果てしなさに怯み踠くしかなく、どうにかどこかに必ず救いはあると信じたくて堪らなくなるのだろう。

そして、充分に絶望した時、誰しもが独りだという唯一の共通点に気付き、自分と違うもの、自分が違うもの、答えなどないもの、そういう全てを『そういうものだ』と心の底からの安堵に変えられるのだと思う。

無理に目立たなくていい。
無理してまで手を挙げて旗を掲げて「私はここにいる」って叫ばなくていい。
もちろん叫んだっていい。

だけど、実はそんなこと全く関係なしに、そのままの私を愛してくれる人間はいてくれるらしい。

気付けば、私が大切に想う人がいるらしい。

違うことに意味なんてなかった。


あるとするなら、

“君と私”

そうやって、大切な人と出会い、並んで過ごすためだけのものなんだろうね。

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