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カート・ヴォネガット「猫のゆりかご」読解②~これは神ではない~

こんにちは!
日恵です!!

前回に引き続き、「猫のゆりかご」の読解をしていきたいと思います!
と、言っても前回

のように、全文引用とかは流石にしません!笑
残りは印象的な文章とか、私の読解……説に必要な部分を引き抜いて論展開させていこうと思います。
でわでわ、早速やって参りましょう!

えーと、とりあえず前回を要点としてまとめると、

1.本書には真実は一切ない。
2.スカラーとカンカン、運命と契機。
3.ジョンではなくジョーナと呼ぶこと。 

の3つが挙げられるようになると思う。そして、この3つこそがこの作品の全てである、と言っちゃえると思うんだよね、私は。

もちろん、批判性だとか深い社会的考察だとか、メタファだとか人間関係の面白さとか……有名なアイスナインについてだとか、いくらでも語れる所があるんだけどさ。でもね、そういうもろもろのことこそが──かなり暴論ではあるんだけれど──上に挙げた中の1、その内に還元されてしまっているとも思うんだ。

メタファという物は、人それぞれ読み取り方が違う。何故なら人にはそれぞれのコンテクスト……出身国の出身地、場所、家庭、学校、友人、読んだもの聴いたもの……文化的背景という物が存在するから。同じ社会を生きている私たちはそれを分有することが出来るけど、一つの真理として共有することはできない。そういう意味で、「本書には真実は一切ない」という所に還元されてしまうと私は思う。同時にそれは、あらゆる本についても言えることで、そうであるならこの宣言は、小説そのもののパロディの宣言である、と言えるだろう。

だからこそこれらのメタファを読み解くことは面白くもあるんだけど、今回はそれをせずに、一点に絞って……この作品の「構造分析」という形を取ろうと思う。内容に深く踏み入れず、言葉の表層をなぞり、「記号の接続・選択」の方法論から、作品のメタ構造を明らかにしていきたい。(ここまで前置き!!!)

と、言うわけで1~3を順に検討していこう。

1について

このことについては冒頭から、更に先の文中で度々言及されることになる。しつこいくらいに言及されるので全てを引用するのはめんどうだから、なによりも象徴的な一文を抜き出してみるね。

「おとなになったときには、気が狂っているのも無理ないや。猫のゆりかごなんて、両手のあいだにXがいくつもあるだけなんだから。小さな子供はそういうXを、いつまでもいつまでも見つめる……」
「すると?」
「猫なんていないし、ゆりかごもないんだ」

73 黒死病 より

タイトルにもなっている「猫のゆりかご」を用いて、ハッキリと言ってるね。これは日本で言う「あやとり遊び」で、つまり交差する糸が、読み取られることによって猫とゆりかごという「意味」を持つ、しかし実際はそこには猫もゆりかごもなく、交差するXがあるのみだ、ということを言ってると思う。
そしてもひとつ。

"眠れや、ニャンコ、木をゆりかーごに。風のまにまに、ゆりかーご揺れる。枝が折れたら、ゆりかーご落ちる。ゆりかーご、ニャンコ、みんな落ちる"

5 医学部余科生からの手紙 より

「まにまに」というのは、「~の赴くまま」のような意味で、風の赴くままに「枝=あやとりの紐」が折れたら、ゆりかごもニャンコも形を失くしてしまう。「~の赴くまま」ってどこかで聞かなかった?そう、前回説明した「神の御心」だね。「運命しだいで意味があったものは失われてしまう」。そういうことなんだと思う。

この作品は、どうやらここいらの描写に準えて、『あらゆる物は猫のゆりかご──Xの集まりでしかなく、実際にはなんにもない。意味なんてないのだ』っていう解釈がなされているらしい。ニヒリズム的な作品だっていう感じなのかな?

でも、実際は違うと私は思うんだ。
この作品は、そういう「意味なんてないんだから、気にするな」みたいな、ポジティブニヒリズム的態度に留まらない作品だって思う。
私がそう思う文章を以下にあげよう。

"どうして人がでっちあげたゲームなんかしなけりゃならんのかね。世の中には、本物がいくらでもあるじゃないか"

5 医学部余科生からの手紙 より

登場人物の一人、原爆の父、アイスナインの発明者──ハニカー博士の言葉。そして、

嘘の上にも有益な宗教は築ける。それがわからない人間には、この本はわからない。
わからなければ、それでよい。

4 巻きひげのまどい気味の巻付きあい より

この二つの相関に関連できるだろう。
「宗教は、でっちあげたゲームでしかない」
ということだ。

この「宗教」という部分は、「意味論」とか「価値論」とか、広義なものに捉えていいと思う。社会に存在する「形而上学的意味」。それはでっちあげにすぎない。それだけだと、前述したニヒリズムにしかならないけどね。だから、
「世の中には、本物がいくらでもある」
という語句が、重要になってくる。

唐突だけど、次の絵を見ていただこう。

ルネ・マグリッド「イメージの裏切り」

1929年、ルネ・マグリッドが発表した絵。
パイプの下にはフランス語で「これはパイプではない」と書かれてる。
有名な作品だから、見たことがある人もいるかもしれない。フランスの思想家、ミシェル・フーコーが取り上げたことでも知られているね。

この絵には明らかにパイプが描かれている。しかし、キャプションには「これはパイプではない」と書かれている。じゃあ、これはなんだってなるかな?なるかもしれないしならないかもしれない。実際は、これはパイプ「ではない」しパイプ「である」んだ。

どういうことかと言えば、前者に関しては簡単。これは「絵」なんだから、パイプそのものでは決してない。

後者に関しては、これは表象としては「パイプの形を取っている」。でも葉を詰めたりはできないし、喫煙することもできない。つまり、「パイプのパロディ」でしかない。だけど、私たちはこれを「パイプ」と認識することなができるんだ。でも実際は使えない。なんたってパイプのパロディなんだから。レストランのショーウィンドウに飾られる、料理の見本みたいなもの。食べられないし腐らない。機能を失ったパロディとして保存されている。

でもね、これが「絵」であることと、「パイプのパロディ」として「本物」なのは確かなんだ。だって、実際「絵」だし。描かれてるのは「パイプ」。「これはパイプではない」は確かにその通りだけど、上の二つは覆せない。

「猫のゆりかご」もこれと同じで、あやとりの紐が作った「パロディ」でしかない。しかし、解けて一本の紐になったとしても、「紐」であることは間違いないんだ。そして、また「パロディ」を作り出すことができる。それは事実なんだよね。

両者とも「本物」の「絵」である、「紐」である、ということは、間違いのないことと言えるんだ、って、私は思う。

だと言うことは、他の様々なことでも言えると思わない?形而上学的な意味論を省いても、「在るモノ」っていうのは、「在る」時点で「無意味」にはならない。「本物」と言える物は、存在する──むしろ、存在してしまう。

以上を踏まえると、つまり1「本書には真実は一切ない」というのは、「真実はなくとも、在るものは在る」と、そういう風に解釈できると思う。そういう意味でこの小説は、決して「没価値」や「無意味」を表すだけのものではなく、その先をこそ示していると思うんだ。「ニヒリズムは中間状態でしかない」と以前の記事

の方でも書いたんだけど、そこに留まっている作品ではない、という風に私は思った。

そしてそれは、2の「運命と契機」の存在が更に補填してくれると思う。
印象的な文章を引用してみよう。

つまりボコノンは、〈カラース〉が、民族的、制度的、職業的、家族的、また階級的境界のいずれにもとらわれない存在だと言っているのである。アメーバのように、かたちは自由なのだ。

2 ナイス、ナイス、ヴェリ・ナイス より

ここでは、前回で説明した「カラース」──「神の御心を行うグループ」が、既存概念にとらわれない、「アメーバのように自由な形をとるもの」となっている。つまり、ある種の「流れ」に沿って、運命的に、偶然的に、必然的に、出来る物で、それは「神の御心」による物としか思えない、ということなんだろう。
もひとつ引用。

「そういえば、博士がこうおっしゃったことがあるわ。絶対に真であることを一つでもあげてみろ、何もあげられないだろうって。それで、わたしは言ったの。"神は愛です"って」
「博士の答えは?」
「こうおっしゃったわ。"神とは何だ?" "愛とは何だ?"」
「フム」
「でも神は愛ですよね」とミス・フォーストは言った。「ハニカー博士が何とおっしゃろうと」

26 神とは より

ハニカー博士が「科学=論理的な意味」の象徴だとすれば、これはそれへの反逆であると言える。そしてまた「猫のゆりかごは単なるまやかしである」という博士への反逆でもあるわけだ。

時に物事は、「神の御心」としか言えないようなことが起きる。それはつまり一本の紐があやとりとして、猫のゆりかごの形を作ったり、ロンドン橋になったり、崩れて新しい形を取ったり──アメーバのようなカラースの形、それを見るのは「契機」であり、「神の愛」を感じること。「運命」としか言いようがないことなんだ、って。

「愛は神です」ではなく「神は愛です」という所も印象的だね。「愛は神です」だと、愛が神に還元されてしまう。でも、「神は愛です」ならば、神が愛に還元される。
つまり、「神を見出すのは愛である」ということになると思うんだ。

しかし、同時にここで言う神というのは、キリスト教的な「神」のことではなく、ボコノン教的な〈神〉であることに注意するべきだと私は思う。

「嘘の上にも有益な宗教は築ける」というボコノンにおいて、宗教の前提となる〈神〉は嘘なんだ。つまり、〈神〉は嘘だが、そこで起きている「出来事」は、実際に起きている。偶然の「出会い」というのは、「運命的」としか言えない出来事は、「カラース」と「カンカン」は、実際にあるんだ。「猫のゆりかご」を作る、「紐」と、その「束」は。

それは「意味」とか「無意味」を越えた、単なる「事実」であり、説明のために〈神〉が使われているに過ぎない。そう私は思う。

そこに形を見出すのは、「神」の権力ではなく、〈神〉を見出す「愛」なんだ、と言ってるんだと思う。〈神〉には権力がない。見る人にこそ権力がある。

言ってしまえば、ボコノン教の〈神〉は、キリスト教的「神」のパロディとしての〈神〉なんだ。「神」の機能を持たない、イメージとしての〈神〉。「これは「神」ではない」とキャプションの書かれた、裏切られたイメージの〈神〉。

そして、その認識を持つこの小説は、「神」への裏切りと、新たな〈神〉の創造の物語とも言えるんだろうと思う。

絶対的な「神」ではなく、道具としての〈神〉の。

以上が1と2のまとめで、これを踏まえて3に行きたいんだけど、もう文字数がヤバヤバなので、③に回したいと思います。次こそ完結!です!!



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