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思ってることを書いてみると、

ここまで6本、noteを書いて公開してみた。
誰かに聞いてほしいというか、喋りたいことを文章にしてみるかとはじめてみたのだが、思わぬ効果がもう現れてしまった。

考えていることの先

楽しいことや他愛ないことを書こうとして始めてみても、あれこれこねている間に思いがけない感情が浮かび上がってきた。
あれ、私はこんなふうに思ってるの?
もしかして本音は違うこと考えてるの?
映画のこと読んだ本のこと趣味のことテレビのこと、書きたかったのはそんな感想文だったはずなのに、文字の先に曖昧な何かだったものが輪郭を持ち形になるべくゆらゆらと動き出してゆく。

のぞむ私って何

noteをはじめた理由として、別のお話で書いたように自分の中の話したいあれこれや私にとっての嬉しい新しい経験について感じたこと思ったことを簡単に終わらせず、文章という形に少しでも昇華させたいと思ったからだ。
そんな高尚なことを書きたかったわけではないし、これも別のお話で書いたが、個人についてそんなにシルエットを明確にして書くつもりもなかった。
ああ、それなのに。

私も知らなかった私がいるのかも

どんどんと、自分が出てくる。
押し込めていたり、包み隠していたり、私自身も知らなかったり。
そんな私の感情と思考が、ぼろぼろと出てくるのだ。
私はもういい歳で、人生の半分はもう過ぎている。これまでの時間に積んできたはずのあれこれは、整理もされずに山積みになっていて、分析も考察もなされないまま埃を被っているのだ。

これは焦燥感なのか

そしてここまで、書いてみて。
また、新たに出会う私の感情が出てきた。
老い先短い今になり(そこまでは年取ってないか)何かを残したいとかそういう焦りを感じているのではないか?
なんでなんで、こんな感じになる?
最近はこれをすぐに更年期で片付けがちなお年頃だが、まあ半分は当たっているだろう。
私は成果を求めているのか?

承認欲求なのか

これは承認欲求なのか。そうなのか。
他者に認められることで自分を認めたい。そう思っているのか。

文章を、かくということ

こんなに長々と書くまでもなく、作文とは思考の整理だ。
形にするために、曖昧なものを曖昧ではなくしてゆく作業だ。

学生時代などは、まあとにかく、あれこれいろいろ書いていた。
友達に手紙を、手帳にライフログや備忘録を、課題のレポートを、宿題の作文を。
大人になるにつれ、書かなくなってゆくものが増えてゆく。忙しさや時代の変化とともに、文章を書くということも変わってゆく。

それでも書くことの本質は変わらない。
伝えたいことを整理し、形にしてゆく。
伝わるように、理解できるように。
それは、誰かに対してでもあり、自分に対してでもある。

久しぶりにこうして文章を綴り、あれやこれやと考えを巡らしていると、ごちゃごちゃと積み上げてきた私のこれまでが少しづつ整理されていく。
書くことで、私そのものが浮かび上がってくる。
自分のことをどこまで書くのかについて考えたときに、まあとにかく書いてみるかということになったが、思いの外はやくにはっきりとした自分の影が濃く出てきてしまった。
noteを書くということは、そういうことだったのだと腹をくくるのがよさそうだ。

さて、私が私と出会う旅はまだ始まったばかりで、そう思うと行く先不安で仕方ない。これはなかなかに怖い作業でもありそうだ。
それでもはじめたからには、もうちょっと進んでみよう。

自分を知らないのは、実は自分だったみたい、というお話。




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