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日記 2024/06/03

2024/06/03

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 朝、目を覚ましてふと部屋を見渡すと清潔に保たれていることに気がついた。未遂後からずっと部屋を綺麗にした状態で維持することができていなかったのだった。部屋がある程度以上まで荒れてこれはまずいとなると掃除するということの繰り返しだった。それより以前はどちらかと言うと綺麗好きな方で、部屋をいつも清潔に保てていたのだけど、気持ちが落ち込むとそれどころじゃなくなるのだろう。いつも気がつくと机の上にゴミが溜まっているような有様だった。
 でも最近は部屋をちゃんと整理整頓できている。これは自分のなかでひとつだけルールを作ったからだった。アクリル画を描いた後は道具を必ず片付ける、という。前は特に決めておらず、片付けたかったら片付けるし、面倒だったらやらないし、といういい加減な具合だったのだが、やはり道具を片付けないとそれだけで部屋が荒れた感じになるのが嫌だなと思って、描いたら片付けるというルールを決めることにした。
 そうすると、意外なことに部屋がそれだけで荒れなくなった。別に他にルールを決めているわけではないのに、その他の片付けの作業までセットで日常的にできるようになった。たぶんこれは、アクリル絵の具のセットを片付けると、それだけで部屋の整理された感が取り戻されるからだろう。整理された感が出ると、それと反する状態が目につくようになる。清潔にしつらえられた部屋にひとつだけゴミがあると気になってしまうと思うが、そんな感じで。だからすごく変な言い方だけど、部屋を綺麗に保ちさえすれば、部屋は綺麗なままになる、ということなのだろうと思う。でも部屋が荒れる最初の一歩目はシームレスにやってくる。たとえば僕のアクリル画の道具は片付けなくてもどうせ翌日も使うので、片付ける必要がないものだ。でもそれが作業台の上に置きっぱなしになっていると、なんというか、部屋のなかで小さいカオスの雰囲気が発生する。それがまた別のカオスを誘引して、気がつけば部屋が荒れている。部屋が汚くなってしまう原因とはこんな具合なのかもしれないと僕は考えてみた。だから逆に言うと、その原因となるところのものをストップするルールを作ってしまえば部屋は清潔さを保つことができる。
 このことはきっと他のことにも応用できるのではないかと思った。単純なルールを作ってしまって、それをただ淡々と守る。そうすればきっと生活が変化して、ひいてはその人のありようさえ変わってしまう。小さな変化のための装置を用意すると、その自動的な積み重ねによって大きな変化をする。これは自分が前から考えていたこととも通じる。もしかしたら面白いかもしれないと思った。
 そもそもその人のありようとはなんだろう。あるいはそれを言い換えたところの「性格」とはなんだろう。たぶん性格とは、過去の自分の行動から推測される行動傾向のことではないか。
 でも、と僕は思う。その人がある場面でどの行動を取るかは、ルールによってある程度は規定しうる。とすると、もし性格を変えたいのであれば性格を変える必要はない。というか意識的に自分の性格を変えるということは難しい。頑固者になろうと思って頑固者になれるわけでもないだろう。でもルールを変えれば、あるいは自分に必要なルールを持てばよい。あとはただそのルールに従って行動すれば、あなたはそういう人ということになる。
 性格によって行動が規定されるわけではなく、行動によって性格が規定される。
 どこかでこんな文章を読んだことがある気がするが、まあそれは良いとして、だとすると、行動を規定するのは何か。ルールだ。ルールを規定するのは性格ではないかと言われるとぐるぐる回ってややこしくなってしまうが、とにかくルールを決めれば性格も変えられるのかもしれない。もちろん必ずしも変える必要はないが。
 そこまで考えると、これについての記事を書いてみたいと思った。題名は「マイルールブックの作り方」。Google検索して見ると、似たような題の本は出てくるが中身は少し違いそうだった。面白そうなので、自分で実践してみてうまくいったら記事にしてみようと思った。
 そう考えると、少し面白いのが、僕はもはや文章を書くために行動をしているということだ。行動したことを文章にしているというのをもはや通り過ぎて、書くために行動する。書くということと実践するということが一体化している。書きたいから何かをするという風になるので、書くことが自分を動かすモチベーションになる。逆に言うと、自分を動かすためには何か書くことを探せば良いのだろう。この自分の動かした方については、マイルールブックとは別のストーリーが先に広がってゆく余地があるという気がする。この日記にしても、真剣に考えれば何か面白いものがあるという気がする。

 日記で思い出したが、哲学者の福尾匠さんがずっと続けていた日記を終了するとTwitterで投稿していた。僕はTwitterをフォローしてはいるけれど日記は読んだことがなかった。でもちょうど入れ替わるようにいま僕が書き始めた。僕はこれを縁だと捉えることにした。そうした方が面白いからだ。なのでこの日記もできれば一年書き続けたいと思った。不定期で、しかももっと短い文章になることも多々だろうが、それでもたぶん日記というのはどちらかというと中身よりも続けることに意味があると思う。そして何でも長続きしない僕にとってはこれはかなり難しいことだ。でもどうにかいけるところまでやってみる。すると何かが見えてきそうな気がする。

終わり。

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