〈小論考〉武田信春の死去について


はじめに 

 


  武田信春は甲斐武田氏当主一二代に当たる人物であり、信時流武田氏としては、甲斐守護に補任された三代目とされる。

 武田氏本流とされる信時流武田氏は、鎌倉期の元寇時に安芸に在地することになり、本国である甲斐の守護権を庶流にあたる石和流武田氏に保持されることになっていた。しかし、南北朝動乱期に、信時流武田氏当主であった武田信武が武家方に与することにより、南朝に与したとされる石和流武田氏を排斥することで甲斐守護権を奪還した。これにより、信武以後の武田氏は安芸守護を継いだ氏信と甲斐守護を継いだ信成に分かれることになった。(以上、黒田基樹「鎌倉期の武田氏」による。) [1]

 甲斐守護とされる信成の子息である信春は父生前より、甲斐守護を相続したとされる。[2]

 甲斐での南朝方の鎮圧を行い [3]、父信成についで、臨済宗の寺院を甲斐の各地に開基したと伝わる。[4]

 

 その信春の死去については応永二十年十月二十三日であるのが通説となっている。また、その死にまつわる伝承が残されている。本論考はそうした信春死去、それに関しての伝承について検討を行う。



一 信春死去の年月の検証

 

 信春死去について、まず家系図の記述で検証したい。



①      『武田源氏一統系図』[5] 

信春三郎 陸奥守、甲州守護、護国院殿華峯春公、十月晦日逝去

楯無到来、此代白鷹記作



②     『巻百二十一 武田氏系図』

信有(ィ春)

三郎

陸奥守、同守護[筆者注記先代の信成が甲斐守護と記されているので、それと同様の記載。]

号護国院華峰春公

十月晦日卒

此人白鷹記作之


③『第百二十二巻武田系図二続』

(1)

【単に信春とある。】

(2)

信有

三郎甲斐守

改信春

法名護国院殿華峰春公

関東公方氏満々兼仕へ

内裏へ雪白鷹進上申

白鷹記披載

道号華峰


④『百二十三巻両武田系図』

信春

三郎陸奥守

同守護[筆者注記同様]

護国院殿華峰春公

十月晦日逝去

此代白鷹記作之

楯无到来


⑤『百二十三巻 若狭武田系図』

信春 陸奥守

法名花峰護国院

(以上、②~⑤は[6]に基づく。)



⑥『円光院系図』

奥州信春 花峯 護国院


➇ 成就院系図

奥州守信春 護国院殿

(以上➆、➇は[7]に拠る。)
 
 このように系図を見る限り、「十月晦日逝去」とするものが多く、その法名が「護国院殿華峯春公」とする。①、⑥は峯とし、②~⑤が峰と表記が異なる。②~⑤は続群書類従に収集されたものなので、翻刻の際に統一された可能性はあるが、字義としては同じと捉えられる。

また『王代記』応永十六年(一四〇九年)には「甲州知野吉田殿、花峰明安御舎弟也」[8]とあり、この「花峰」は信春と見られる。少なくとも応永中には、出家したことは確認できよう。


墓所は信春が千野に建てた館跡を寺院とした「慈徳院」は現在山梨県塩山市千野にある。信春の墓所とされる石堂があり、正面に「護国院」と表記されている。


 『甲斐国社記・寺記』にて慈徳院の由緒が書かれる。

向嶽禅由緒記[9]

「東山梨群七里千野柳沢慈徳院至徳年間武田刑部信成ノ嫡男陸奥守信春夙ニ仏乗ヲ信ジ抜隊和尚ニ参禅座怠ラズ榻屛金湯ノ誠ヲ致シ慈徳禅院ヲ居城ノ内ニ建テ三宝ヲ供養スル場トス後天文年中武田晴信遺跡ヲ以テ塩山ニ属ス」


御由緒 附慈徳院[10]

 「当院開基之儀者応永年中武田陸奥守信春公建立ニ候(後略)」


 系図では「十月晦日」とだけ記し、その年を記してはいない。しかし、他の史料からも信春の逝去時を特定できるものが見いだせる。


『一蓮寺過去帳』

現在甲府市にある時宗派一蓮寺は、鎌倉期に武田一族である一条時信が開基した寺である。その一蓮寺において、代々の住持が記したとされる『一蓮寺過去帳』がある。代々の住持は一条氏の者であったというが、その七代目である法阿弥陀仏は『一蓮寺過去帳』にある信春の項に「当寺七世之慈父也」記されているとおり、信春の子息である。

『一蓮寺過去帳』[11] 

「応永廿癸巳年十月廿三日 寿阿弥陀仏 長福寺殿 甲斐守 信春当国守護」 

応永二十年に信春死去とする記事である。さらに注記が記される。

「護国院殿華峯玄清 寿阿弥陀仏 武田陸奥守 当寺七世之慈父也」


『塩山向嶽禅庵小年代記』

『塩山向嶽禅庵小年代記』は向嶽寺歴代住持が記したとされる年代記である。明和6年頃に清書したとされる。向嶽寺は臨済宗の僧抜隊得勝に信春の父信成が寺領を寄進したことから始まる。


『塩山向嶽禅庵小年代記』[12]

「(応永)二十年(中略)十月二十三日護国院殿卒去」

 この「護国院殿」は先ほど系図で確認した信春の法号と一致する。またこれだけではなく、『塩山向嶽禅庵小年代記』には、

 「(文安)二年(中略)護国院殿三十三年」

と「護国院殿」の三十三回忌の記事すら見える。

以上の史料から信春は応永二十年十月二十三日に死去したとみてよいだろう。

 また多くの家系図が「十月晦日」を逝去日としている点は、後年伝承が伝わる段階で特定の日付が曖昧になってしまったのではないかと思われる。







二 自害説について


史料、家系図等を見ても、信春の死去について月日以外記されているのは管見の限り見当たらない。しかし、信春が館から没落して、“柳澤”という山奥にて死去したという伝承自体は甲斐国志でも確認ができる。

 甲斐国志古跡部二にて、信春の館跡に触れているが、その中にこのような伝えを載せる[13]。


「傳へ云嘗テ此館没落シテ萩原入リノ柳澤ト伝所二堡シ終二彼地ニテ逝ス 実二応永二十年十月二十三日ナリ」


つまり、甲斐国志が記載する伝えによれば、かつて信春の館は没落したとあり、信春は柳澤という山奥に「堡」を構えたが、応永二十年十月二十三日、その地にて逝去したとある。

 また、磯貝正義氏は『武田信重』において信春死去について、以下のように記す。 

「塩山市千野(現、甲州市塩山千野)の柳沢山慈徳院(臨済宗向岳寺派)の記によると、同寺は信春の開基で寺域は信春の館跡であるという。応永二十年二月、逸見氏が急に乱を引き起こして千野の館を襲ったので、信春は難をさけて荻原山中に逃れ柳沢山に築城したが、同年十月二十三日、ここで自害したというのである。」[14]

 

 磯貝氏は著作の中でこの『慈徳院の記』なるものの出典を明確に表してはいないが、『武田信重』の中で参照文献に挙げられている野沢公次郎氏『甲斐源氏と武田氏』[15]において、具体的に『慈得院記』を見ることが出来る。

同書第九章「慈徳院と武田信春」に『慈徳院記』の引用が見られる。


引用1[16]

「当寺ハ武田氏十三世陸奥守信春ノ開基ニシテ、寺域ハ其ノ城跡ナリ。初メ信春、千野城ニアリ、向岳寺開祖抜隊禅師ニ帰依シ、城中ニ禅室ヲ建テ自得庵ト称シ、弓箭ノ余暇参禅吾道ノ三昧ニ入ル。応永二十年二月逸見ノ乱ニ城陥り、信春難ヲ萩原山中ニ遁レ柳沢ニ築城シテ居住ス。尋デ同年十月二十三日卒ス。遺命シテ千野城跡ニ埋葬セシム。法名護国院殿華峯法春大禅定門ト云フ。墳墓ハ当寺客殿東方ニ在リ。従臣即チ墓側に小庵ヲ結ビ自得庵ト称シ、信春自作の不動明王ヲ影仏トシテ冥福ヲ祈ル」



この記述自体は野沢氏が明記するように明治三十七年に出版された『日本社寺明鑑. 甲斐国之部 巻之2』にも記載されている。[17]この寺記にて逸見氏が二月に乱を起こしたということが表されている。



 さらに野沢氏は寺記には「当山古記ニ依レバー」と記したものがあるという。ただし、『日本社寺明鑑. 甲斐国之部 巻之2』に記載があるのは、引用1の部分であり、次に引用する古文書の記載はない。



引用2 [18]

「武田ノ館ヨリ此ノ地ニ移ル(是於曾の郷タリ。北ノ別千野ノ里ナリ) …信成此ノ地ニ城ヲ築キ館ヲ給ウ…相続デ十二代信春(陸奥守刑部大夫)十三代信満(安芸守刑部大夫)ニ家督願ヒトシテ隠居、信春に托し鎌倉ヘ出仕ス。一門逸見有直、兼テ叛心有リ、留居ヲ窺ヒ兵ヲ忍バセ、夜討ヲ掛け火ヲ放テ責ム。不意打タレ、周草防戦スルモ能ハズ、城兵散乱、信春手兵ニテ萩原ノ奥、裂石山雲峰寺ニ落チ延ビ、猶此ノ地支フ能ハズ、遂ニ其ノ奥、柳沢山ニ籠城ス(此ノ地、今刑部平ト云ウ)終ニ爰ニテ生害シ給フ…」



 武田氏の館が信成の代にて千野に“城”を築き、信春に相続した旨を記し、その信春も家督を信満に家督を譲るのを望んだとする。



 この伝えは、生前に守護職を嫡子信満に相伝し、自らは千野に地に隠居したことが示される。ただし、信春は死ぬまで守護職にあったとするのが通説である。

 しかしながら信春自身、前述した通り、父信成が存命中に守護職を相伝したとされているので、一概に否定はできないであろう。


 隠居の身であった信春を「一門」逸見有直が兼ねてからの叛心から夜討ちをかけた。防戦適わず、信春はまず、萩原の奥にある石山雲峰寺に逃げ延び、さらに柳沢山にて籠城したとする。そして遂に生害したとある。この箇所こそ、信春自害説の根拠であろう。


引用3[19]

「尚、奥方ハ千野城ヲ去ルニ忍ビズ、城ノ井戸ニ身ヲ投ジ自害シ給フト巷間ニ伝フ。奥方位追薦ノ為ニ信春公墓所前左側ニ地蔵尊ヲ建立スル。信春公法名〈護国院殿華峯法春大禅定門〉御台所法名〈崇徳院殿仁清昌誉大禅定尼〉…之レヲ以テ観ルニ、信春公壮年期ハ華カナリシ如キモ、末期不如意ニ終ラセ給ヒシモノノ如シー」


信春の奥方が千野の館から逃れず、井戸にて身を投じて自害したと伝わるとする。そして信春とその奥方の法名を示し、信春の晩年は“不如意”であったことを表すものである。



野沢氏によれば慈徳院は大正2年7月に大火により本堂や古文書を焼失したとあり、引用2、3はそのあとに書き改めた寺記であるという[20]。

ならば明治三十七年(一九〇四年)にはない寺記に引用される古記の内容が『日本社寺明鑑. 甲斐国之部巻之2』に反映されるのは不可能であろう。



  三 『慈得院記』の検証

 

このように寺記には、応永二十年二月において逸見氏が乱を起こし、信春が千野の館を没落し、柳沢にて砦を構えたが防戦尽き、応永二十年十月二十三日にて自害したとある。

『慈得院記』において『日本社寺明鑑. 甲斐国之部 巻之2』に載る引用1に関しては、少なくとも大正以前に出版された『日本社寺明鑑.甲斐国之部』に記載があるので、焼失したとされる古文書が反映されている可能性はあろう。とはいえ、引用2と3が大正以降に書き直されたということであればやはり信憑性として落ちてしまうのが正直なところだろう。

磯貝氏は『武田信重』にて慈徳院の記について、逸見氏の乱も、信春の死後、守護職を継いだとされる武田信満が応永二十四年に自害した後の甲斐での動乱を信春の時代と誤認したものとし、信春の自害に関しても、武田氏三代が悲命な最期を遂げることへの作為性を指摘している。[21]

また、この『慈得院記』を紹介している野沢氏も少なくとも大正に書き直された箇所(引用2、3)は甲斐国志を参照したものとして、その内容、特に逸見氏の乱に関しては誤記が含まれるとしている。[22]

しかし、少なくとも引用1に関しては前述したように慈徳院が大火で古文書を焼失する前に記載例があるので、何らかの伝承を伝えている可能性はある。

そのことから考えるに応永二十年二月でおける逸見氏の乱が起きた可能性はあるかもしれない。しかし、それでも先行資料である甲斐国志には乱の主体者の記載がないうえ、その発生を二月と限定しておらず、『甲斐国社記・寺記』に乱自体の存在を記載していないなど、判断に苦しむ点がある。


引用2においては具体的な逸見氏の乱が示されており、「一門」逸見有直を乱の首謀者として挙げている。この逸見有直は『鎌倉大草紙』において、武田信満敗死後に甲斐で起きた動乱に際して、鎌倉府に甲斐守護補任を願ったとする逸見中務太輔有直と同一人物を指すのだろう。具体的に乱の首謀者を逸見有直とする点、『鎌倉大草紙』の内容を参考しているかもしれない。

また、逸見氏が武田氏内で一門と遇されるような一族であったかはわからない。南北朝並びに室町中期の甲斐武田氏については残存史料の少なさから、戦国期武田氏のような家中制度を備えていたかは、推測の域を出ないのである。

 


引用2で信春が落ち延びたという雲峰寺であるが、慈徳院と同じく臨済宗派で恵林寺の末寺である。武田氏所縁の地であるのには変わりなく、地理的にも近いものではあるが、管見の限り、[甲斐国社記・寺記第2巻 245ページ]雲峰寺に信春がここに落ち延びたという伝承を確認することができない。



また、引用3においては、『甲斐国社記・寺記』第2巻に記載される清道院の寺伝との類似性が指摘できよう。[24]


「当山者武田十一代刑部太輔信成公夫人清道院殿之菩提寺境内者則刑部太輔殿居城之古跡ニ御座候其由来者信成公信州表江御出馬ニ相成当地城落城之砌夫人城内井中江身ヲ投逝去被致応永十七丑年武田陸奥守信春公母堂之為菩提城地ヲ寺門ニ改め虎渓道竜禅師おして(ママ)開山始祖ニ請し自の守本尊五智如来を納めて本堂ニ安置し其後文政之頃火災之為寺宇不残焼失本尊ハ相残り霊験掲焉たる事今ニ至迄父老之口碑ニも相伝申候且清道院殿身投之井も今ニおいて有之世俗ミナイノ井ト云一日之内数度水色相替り申候且門内ニ信成公手種の松も有之今ニ繁茂致し候」

 


信春の父信成が信州に出陣した際に館が落ち、信成夫人が井戸に飛び込み自害したという伝承である。清道院は信成夫人、そして信春にとって母の菩提寺として応永十七年に開基されたということである。(同年は信春死去の三年前にあたる。)

 この伝承は引用3の内容に類似が見られるのはともに奥方による自害の話である。むろん、出来事の類似する伝承がともに残されたこと自体は不思議ではあるが、あり得ない話ではない。

しかしながら、引用3があくまで“巷間ニ伝フ”と記しているように、寺記を書き直した慈徳院関係者が、清道院の寺伝を伝え聞いたものを誤認して記した可能性もあろう。



四 伝承の記載例

 

この節では筆者が目にすることが出来た信春死去について記述する書籍、論考などをまとめたい。主に年代順にする。


①     『日本城郭大系』第八巻 長野・山梨 

(湯本 軍一・磯貝 正義/編 新人物往来社 1980年)

 小野正文氏執筆の「武田信春館」の項にて以下の記述がある。

「信春は修理亮・伊豆守・陸奥守と叙され、甲斐守護を継いでいるが、応永二十年(一四一三)に、萩原入の柳沢の堡に逃れ逝去したという。現在、柳沢峠付近にはその堡と思われるものがある。」(四一六ページ)

また「その他城郭の一覧」に「萩原山の堡」の項がある。

「柳沢峠にある。武田信春最期の地。萩原口の警護場所で、黒川金山とも深く関係した。」(四六五ページ)

記述を見る限り、甲斐国志にある伝承に沿う内容となっており、逸見氏の乱等は触れられてはいないものとなっている。



②     『定本 山梨県の城』(萩原三雄編著 郷土出版社 1991年)

「武田信春館」の項を信藤祐仁氏が執筆されている。内容は『日本城郭体系』に沿ったものであるが、「応永二〇年(一四一三)二月、逸見(へみ)氏の乱によって、館が陥落し、萩原(はぎわら)山の柳沢に堡(とりで) (不明)を構え避難したが、一〇月ここで逝去したという(甲斐国志)。」

甲斐国志の伝承が典拠とされているが、ここでは2月に発生した逸見氏の乱が触れられている。


③     『日本歴史地名大系 山梨県の地名』

(磯貝正義監修 平凡社 1995年)

塩山市の項には「千野村」、「千野郷」、「武田信春館」と見える。

・千野村

「慈徳院は武田信春の館跡で、応永二〇年(一四十三年)に没した信春の遺言により寺を建て慈徳庵と名付けたことが始まると伝わる。信春を埋葬した石堂があった(甲斐国志)」

・千野郷

 「同年(筆者注文安五年一四四六年)十一月十五日の武田信重寺領目写(甲斐志料集成)でも同所(筆者注千野郷)を向嶽寺領として安堵されている。郷内では応永二十年に戦死した信春を葬った慈徳院があり、天文十七年(一五四八年)十一月吉日に武田晴信判物(向嶽寺文書)には、同院を寄進するとある。」

・武田信春館

「信春は応永元年に(一三九四)に没した父信成から甲斐守護を継承したが、国内は不安定な政情が続き、同年二十年二月の乱によって館が陥落、萩原山中に逃れ、柳沢に砦を築いたが同年十〇月二十三日同所にて死去したという(甲斐国志、塩山向嶽禅庵小年代記など)。」



項目によっては記述内容が異なることが指摘されよう。「千野村」、に関しては乱の記載はないが、「武田信春館」に関しては2月での逸見氏の乱が含まれており、「千野郷」においては戦死したという記述さえ見られる。



④     『角川日本地名大辞典 19巻 山梨県 』(角川日本地名大辞典編纂委員会 角川書店 2009)

千野の地名に関して、該当する「千野郷 中世」とあり、以下の記述がある。

「逸見氏と争い、応永23年10月13日、萩原入の柳沢で敗死(一蓮寺過去帳)」(同書551ページ)

本記述は『一蓮寺過去帳』を記述の根拠としているが、引用したように、あくまで逝去日としての記述であり、『一蓮寺過去帳』で記載される、主に合戦で討ち死の意味を示す「討死」や、戦死や自害と両方にもとらえられる「生害」の語句も見受けることはできない。


また、同書にて「塩山市」の項があり、そこにも再度信春について触れられている。

「初め、信春は千野に館を構えたが、応永20年(1413年)2月、逸見氏との争いに敗れ、柳沢に館を構えたが、同年10月に逝去した。信春の遺言によって元の館跡に一寺を建立して慈徳庵と称したとある(甲斐国志)」(同書880ページ)

本記述においては『甲斐国志』が典拠となっている。確かに先に確認した甲斐国志では古跡部において、館を没落し柳沢にて柳澤という山奥に“堡”を構え、その地で逝去したという内容はある。ただし、二月に発生したという逸見氏の乱については『甲斐国志』に見られないのは指摘したところである。



➄ 『史跡勝沼氏館跡』(シリーズ名 甲州市文化財調査報告書8 入江 俊行編著 甲州市教育委員会 甲州市教育委員会生涯学習課 2011年)

一般書籍ではない調査報告書である。その中で特別論考として①『日本城郭体系』で「武田信春館」を執筆された小野正文氏が執筆された「第3節 甲斐城館構造の変遷」から信春の逝去についての箇所を引用する。



「信春の館は甲州市塩山千野の慈徳院境内であり、東西約100メートル、南北約150メートルであり、 付近鹿子屋敷、女中屋敷の地名も残る。信春は隠居所を千野の地に定めたという記録もあることから、本来の館は八代地域にあったのかもしれない。逸見氏に攻められて柳沢の堡で自害していることから、逸見氏などの圧迫で中枢域から、周辺域に追いやられた可能性がある。」



この小野氏の論述は出典を持ったものであるが、この引用の箇所に関しては、先に引用した『日本城郭体系』においては現れなかった「信春が逸見氏の乱で自害」が、典拠はなく扱われているのが注意を引く。隠居地を千野に定めたという記録はおそらく前節の『慈得院記』引用2がその典拠ではないか。



以上、わずか5点ほどの書籍、論考を見てきたが、主に年代が新しくなるほど、まず“二月における逸見氏の乱”が肯定的に扱われており、自害説や戦死説(便宜上敗死説もここに含める。) も現れる。二月にて逸見氏の乱が生じたというのは磯貝氏が引用した「慈徳院の記」がその根拠になっているように見受けられる。

前述の通り磯貝氏は『武田信重』において「慈徳院の記」の内容については批判的である。しかし、近年において信春が没落した伝承を肯定的見られていることが指摘できよう。

 






まとめ

 本稿において、甲斐守護武田信春の死去について扱った。その死去について、系図類、史料から応永二十年十月二十三日とすることが出来るとした。

また、信春の死に関して応永二十年二月に逸見氏による乱が発生し、千野にある信春館が陥落し、信春は萩原山の柳沢にて十月に逝去、または自害した伝承があることを確認した。

 千野の館が(それが逸見氏によるかは別として)陥落し、萩原山の柳沢にて十月に死去した伝承については甲斐国志に記載がある。また、近年の研究においても信春の没落の伝承に関しては肯定的であることも確認した。

また、父信成の館跡とされる清道院の由緒を見ても、ここまで連続して武田氏当主の館が陥落する伝承があるのは異様であるとしか言いようがなく、何らかの事実が寺伝などに反映されていると考えられる。

筆者としては、信春が館から追われる事実はあり、柳沢に没落はしたとは思われる。ただし、その死因を自害とする根拠は『慈得院記』の大正以降に書き直されたという引用2~3にしか見られないので、これはあくまで一説とすべきではないかと思われる。

 



出典・脚注

1『中世西国武士の研究4 若狭武田氏』 木下聡 編著 戎光祥出版 2016年9月収集

通説では 信武―信成―信春と相伝されたとされる。ただし、『足利基氏とその時代』収集の木下聡著「持氏期の関東管領と守護」において、信成の甲斐守護であったとする一次史料は見られないところ、『師守記』において、陸奥守補任記事が見られる信成の弟、武田信明が甲斐守護であった可能性があると指摘される。しかし、信明が甲斐守護であった積極的な根拠は見いだせないので、本稿では通説の理解で論を進める。

2 木下聡「氏満期の関東管領と守護」『足利氏満とその時代』(関東足利氏の歴史 第2巻) 黒田基樹編著 戎光祥出版, 2014年刊行に収集

3 大善寺文書 新甲州古文書1巻にて収集。

4 金剛寺、広済寺の由緒記による。『甲斐国社記・寺記』山梨県立図書館/編 山梨県立図書館 1968年に収集 主に2巻を使用した。

5 山梨県史資料編6中世編下

6 続群書類従 第五輯下 系図部

7山梨県史資料編6中世編上。

8 『王代記』 服部治則「室町・戦国初期における甲府盆地中央部の諸豪族」にて翻刻されているので、そちらを参考にした。『武田氏家臣団の系譜』 服部治則著 岩田書店 2007年にて収集

9『甲斐国社記・寺記』山梨県立図書館/編 山梨県立図書館 1968年 556ページより。

10前注9 643ページより。

11 山梨県史資料編中世編6下

12 甲斐志料集成12巻 収集 国立国会図書館デジタルアーカイブにて閲覧。山梨県史資料編6中世編上

13 甲斐志料集成6巻 収集 国立国会図書館デジタルアーカイブにて閲覧

14 中世武士選書1『武田信重』磯貝正義著 戎光祥出版株式会社 2010年 120~1ページ

15『甲斐源氏と武田氏』野沢公次郎著 東都山梨新聞社 1968年 国立国会図書館デジタルアーカイブにて閲覧

16 前注15 123~4ページ

17 日本社寺明鑑. 甲斐国之部 巻之2』北村徹 編 1904年 晩晴館 国立国会図書館デジタルアーカイブにて閲覧。54ページ ただし、同書では引用したようなカナ表記ではなく、平仮名で表記される。

18 前注15 128ページ

19 前注15 128ページ

20 前注15 128~9ページなお()内も文も原文のママである。ところどころ…と表記があるのは中略を意味すると思われる。

21 前注14 120~1ページ 上杉禅秀の乱に関与した信満の嫡子信重も自害したという古説が甲斐国志に載る。

22 前注15  128ページ

23前注9 145ページより。『清道院』 山梨デジタルアーカイブにて閲覧。

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