「認められる喜び」にしがみついて「本当の望み」を見失う、ということ。
家事代行でいつものお宅にお邪魔すると、同業の方がいた。
一緒にお掃除をするのかな、使う道具がかぶってしまうかな、などあれこれ考えていたのだが、その方がしていた作業は「整理収納」だった。
それを見て、少なからずショックを受けた。
私がやりたいことは、本当はお掃除ではなく整理収納なのだ。
これまでも、お掃除用品が入っている場所の整理を提案してやらせてもらったり、整理が得意であることをさりげなくお伝えしたりしていた。
家全体の整理をご提案することができれば、お掃除を請け負っている自分自身も楽になる。
でも、現時点で私に求められているのはあくまでお掃除だ。
普段の作業時間の中で少しずつご提案しながら進めたいと思いながらも、実際にはそんな余裕はなく、いつもやっとの思いで指定された箇所をきれいにして終わる。その繰り返しだった。
私がやりたかったことを、同業の別の方がやっている。
それを見たとき、依頼者から言われた言葉を思い出した。
「MiMaRyさんのお掃除が一番丁寧です」
私のお掃除が一番いいから、お掃除は私に任せたい。
整理収納は他の人でいい。
そういうことなのだろうか。
自分の良いところを見つけてもらい、認めてもらい、嬉しくてそれを大切にしようと思った。
でも、そのために「自分が本当にやりたいこと」を遠ざけてしまったのだろうか。
努力の方向が間違っているということなのだろうか。
こういう気持ちを「虚しさ」というのだろうか。
きょうの仕事はまだ始まったばかり。
5時間の作業なのに、ここで集中力を途切れさせてしまったら後がもたない。
ひたすら手を動かした。
それでも頭の中のぐるぐるは続く。
トイレ、お風呂、洗面所。
一か所ずつ終わらせていく。
その間に、同業者さんの整理作業も進んでいく。
時折物入を開けると、きれいに片づけられた掃除用具や雑貨類が並んでいる。
それを見ているうちに、こんな気持ちが湧き上がってきた。
「自分が作業しやすいように整理をしたいと思っていたけれどできない状態だった。でも、こうして他の人がやってくれるおかげで自分の作業が楽になるんだ」
「それに、他の人が整理している現場を目の前で見る機会なんてめったにないこと。自分とは違う考え方ややり方を知ることができる貴重なチャンスだ」
無理に前向きな捉え方をしようとしたわけではなく、自然に浮かんできたこれらの気持ちが自分を救ってくれた。
同時に「丁寧さ」を評価してもらったことにこだわりすぎていたことにも気づけた。
「丁寧にやる」のは「自分がそうしたいから」であって、他人からの評価を得るためではなかったはずだった。
それがいつの間にか、評価にしがみつくような仕事をするようになってしまっていた。
その結果、自分が望んでいたものから少しずつ逸れていく。
このパターン、何かに似ている・・・
ハッとした。
私は、人間関係についても同じような「失敗」を繰り返している。
「優しい」「話しやすい」「聞き上手」
そう言われることが多かった。
それらは自分の長所であり「価値」にも繋がるものだと思っていたから、大切にしなければならないし失ってはいけないものだとも考えていた。
だから、人の話には努めて耳を傾けた。
その分、「評価」ももらえた。
でも、「自分が本当に欲しいもの」は手に入らなかった。
私は人の話を「聴く」けれど、それは相手に「同意」しているからではない。
自分とは全く違う意見・感覚を持った人の考えとして、シンプルに受け止めているだけである。
でも、時には強い違和感を感じて聴くことが辛くなることもある。
それでも相手は私を信頼して話している。それを感じる。
その関係を、拒否する勇気はなかった。
そのうちに、相手から連絡が来ることそのものが負担になってくる。
そうなると、次第に罪悪感が湧き始める。
本当は話を聞きたくないと思っているのに、相手に対しては「良い顔」をしてしまっている自分がどんどん嫌になる。
「聞き上手」という「評価」を手にするたび、そんな「望まない関係」が増えていく。
人の話を聴くことは大好きだし、そのことで相手が少しでもホッとしたり楽になったりするのなら本当に嬉しい。
でも、それが「評価」を求めるための行為になってしまったとたん、「望まない方向」へ進んでしまう。
人の話を聴くことも、相手に寄り添うことも、「自分の喜び」の範囲にとどめていい。
擦り減るほど頑張って得た「評価」は自分を縛り、「望まない方向」へ連れていく。
欲しいのは「評価」そのものではなく、その先にある「自分はこれでいい」という自信や安心感なのだと思う。
褒められ、認められる喜びを感じた瞬間から、軸足を「他人からの評価」に持っていかれないように意識しよう。
『自分が』幸せであるために。
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